徒歩15分で間違いの森へ
勇斗は文庫本の角を折り曲げる。机の下に栞が落ちているのに、拾うことをしたくなかった。彼はあまり身体を動かしたくない。体育の授業は仮病で休むし、出かけることも好きではなかった。
そんな彼は、窓の方に顔を向ける。太陽は既に山の間に隠れていて、夜の始まりを告げていた。彼はそんなとき、心を夏の思い出に引き寄せられていく。
美しく残酷な一週間。もう会えない彼の面影を抱いた記憶が、故障した電球のように、明滅する。
▲
その日は燦々と照っていた。切り忘れたような屋根の小さな影で、通行人は影の道をたどる。
勇斗の家族は避暑地に滞在していた。整頓された森が並び、地面には雑草が茂っている。自然の麓で、人工的な家が数多く建てられていた。この建物は、ある大手企業が経営しているキャンプ場。父親が社割りを使って、毎年の夏になると必ず予約を取っている。そして、この日だけは家族が揃う。
趣味が放浪の姉も、母親と一緒にカレーを作っていた。父親は率先して薪を割ろうとしている。勇斗の父は家事嫌いなのに手伝っているのは、人間のために作られた豊かさを前にしたから。
勇斗はそんな人達を斜に構える。こういうときだけ、家族をしているのが冗談に感じていた。
普段は用意されたご飯を食すだけの関係だ。会話も起きないし、仲良い雰囲気を漂わせない。そのおままごとさに居心地の悪さを感じ、彼は好きでもない本を読んだふりをする。
彼の足元に何かが転がってきた。本をたたむと、折りたたんだ足元にボールが転がっている。
「ごめんなさいー。取ってくれますか?」
ボールを追いかけてきたのは、女性だった。彼女は短い袖の服を着ていて、胸の大きさを主張している。意識しすぎては悪いと、彼は真面目にボールを拾った。それを彼女のもとに投げようとする。しかし、腕の振り方がぎこちなくて、ボールは遠くの方へ飛んでしまった。
「あ、ごごめん」
「あはは気にしないで」
彼女の後ろから、男性が駆け寄ってきた。彼は飛んでいったボールの経緯を聞き、勇斗に瞳を合わせる。
「お前やるじゃんあはは」
その男は、勇斗の肩をたたいて、消えたボールを追いかける。女性はそれに続いていく。彼は慰められたことで惨めに感じた。
その男に、馬鹿にされた気がした。自意識過剰だとわかっていても、自分は家族連れで休みを過ごしている。自分の人生を物差しで測り、進めていないと言われていると感じた。それを振り払いたくて同じ場所を歩く。行くところもないので、家族のもとで家事を手伝った。
家族と仲良しごっこを終える。彼は率先して食器を洗うことにした。そうすれば、母親に文句を言われないし、一人の時間を作ることができる。
熱心に水を当てていると、後ろから声をかけられた。
「勇斗。手伝おうか」と、父。彼は余った皿を渡した。「ありがとう」
家事の手伝いでありがとうって何のことだろう。彼は首を傾げるけど、深く考えないことにした。
父親はチラチラと勇斗の動きを観察している。仕事が分からないと言うより、話しかける糸口を探しているみたいだ。やがて意を決したのか、小声でよしっと呟く。
「学校は、どうなんだ?」
「どうって、何が?」
「ほら、前に仲良かった水田くん。あのことはどうなんだ?」
水田は学校でフルチンになって退学した。自分の過激な行動が笑いを誘える。その勘違いは身を滅ぼすだけ。
「そんなやつのこと忘れてた。親父って昔のことばかり聞くよね」
「いやいや、お前たちの成長が早すぎるだけだ。なんて話したらいいのか分からないよ」
「親父が変わっていないだけ。いっつもビクビクして情けない」
「あはは。母さん勝りだな」
勇斗はこの場から離れる機会を探していた。既に洗い物を終わらせて、手を丁寧に拭く。
父親は、彼の後を追うように慌てて洗っている。
「あ、勇斗。ボドゲ、今年はやれるか?」
本を読もうと歩いていく。すると、森の近くに球が転がっていた。女性に投げたボールとは違うだろう。既に見つけているだろうし、都合が良すぎる。だけど、彼は握ってしまった。そのまま歩き、もしかしたら女性と話せるかもしれない。そんな夢見がちな幻想で、足が浮かれている。ただ家族以外の人と交流を持ちたかった。キャンプ場を周回いると、彼の思惑と同じでふたりを発見する。
彼らふたりを見かけても、話しかける勇気がなかった。ボールを指で転がす。縫い目の先を眺めている。爪で糸をほぐしてみた。
「あれ。さっきの子じゃん」
男性が勇斗に気づいた。その声に周りの人物も注目する。二人組でキャンプに参加しておらず、複数の男女がいた。
「どうしたの?」
「座れよ」
彼は促されるまま腰を下ろした。男性の名前はケンゴと言う。女性は川島。その他の仲間たちは、ケンゴのバイト先の友達らしい。今日は休みをつけて遊びに来ていた。彼らは、勇斗を邪険に扱うことなく、素直に輪の中へ入れる。
目の前にはお酒が用意されていた。そこにツマミや煙草がある。友人たちも話題に出さないものばかり存在していた。彼は面食らってボールを地面に落とす。転がっていく玉がケンゴの足元に届き、彼は一見して外へ蹴った。
「家族はいいのか?」
「え、見てたんですか」
「あの後ボールを見つけた。君の家族が近くにいるところで。ちょうど、君のことで話したよ」
「知られたくなかったです」
「なんでだ。良い家族じゃないか」
彼には伝わらないだろう。自分が成長していないと言われているような空気に。ケンゴの誤解を解こうとした。
「周りからそう見えるようにしている。それが耐えられないわけですよ。父親は僕とボードゲームをしようとしている。ありきたり過ぎて」
「ボードゲーム?」
父親と勇斗が2人で夜にゲームを行う。幼少期は楽しかった記憶があるが、既に小学校は過ぎていた。彼は知っている内容をなぞっているだけで飽きている。
「興味ある?」
彼は胸ポケットから白い柔らかそうな箱を出した。一つの筒を取り出しと思えば、口に咥える。先に火をつけ、その取り出したものが煙草だと分かった。煙が森の夜へ消えていく。
「吸うか」
「え」周りの目が動物の警戒する素振りと似ている。家の近くに住む犬が、勇斗を品定めするような目つき。彼は抵抗する心を押さえつけるように、つばを飲み込んだ。
「口に咥えて、呼吸するように」
言われたとおりに行った。タバコの火が唇に近づいていき、指に熱さを感じていると、苦しさが肺を突き上げる。
「げほっげほ」
彼はよだれとともに煙を吐いた。周りは彼の失敗を笑いものにする。想像通りの結末に、周りは満足そうに酒を飲んだ。
彼は周りの人間にとって楽しめる玩具だった。彼は不健康に憧れを持っているが、きっかけがなかったと、初々しさを隠そうとしない。自分が先生になれるというエゴイズムが集団を育んだ。手始めに、彼は酒を持たされる。
「あ、あの飲んだことなくて」
「家族と過ごしたくないわけだろ」
「……」
そのまま口に運んだ。
彼は流されるように喫煙と飲酒に及んだ。周りの遊びに付き合い、恥ずかしい告白をさせられる。彼らは勇斗の不器用さで遊んでいるけれど、本人は気づいていない。
ケンゴは余興を始めた。挑戦か告白かというゲーム。酒瓶を回転させ、口を指した人に恥ずかしいことを言わせるか挑戦させる。それを彼は自分で行いつつ、酒の口はケンゴを向いた。
川島は愉快そうに手を叩いている。彼女は顔を赤くし、勇斗とケンゴにキスをするように迫った。
「え?!」
「だって、ずっと勇斗くんはケンゴ見てるんだもん」
「おい、覚悟決めろよ」
ケンゴは冗談を真面目に取り組む。勇斗の唇と重ね合わせると、舌を入れて長い接吻をした。彼は戸惑って、抵抗していない。されるがままにしていたら、勇斗の耳から周りの声が届くようになる。皆はケンゴの行動を喜んでいた。これは、笑っていいことなんだ。恥ずかしいことなのか。
キスをやめるときに学んだ。
「お前たちデキてんじゃねえのー?」
「うわ、ありえないんだけど!」
勇斗も自分に困惑していた。自分の下腹部が、熱湯をかけられたようで、収まらない。ケンゴの唇がまだついているようで、胸の鼓動が速くなる。ふと、視線を感じた。ケンゴがじっと勇斗を眺めている。彼が勃起していることを一人だけ知っていた。
まるで責められているみたいだった。
「酒瓶を回すよ」
口は川島を指したが、ケンゴが勇斗に向くよう操作した。彼は見下したような目つきをやめない。
「勇斗、父親の大事にしているものを捨ててこい」
彼は断れなかった。周りの人たちは、彼の人望で集っている。支配された場所で、反抗することは許されない。
その日、勇斗はボードゲームを盗んだ。皆の前で粉々に壊し、火の中に入れる。ケンゴはその仕草を満足そうに眺め、よくやったと褒める。だけど、それ以上は深く関わろうとしなかった。勇斗が皆に関わろうと話しかけても、誰も相手にしてくれなくなる。誰からも見ないふりをされるから、勇斗は家族の元へ帰らなくちゃいけなくなった。ボードゲームの燃えた黒い汚れが、森を汚す。
▲
勇斗は自分よりも男らしい人間に認められた。それが何よりも快楽で忘れられなかった。父親の家族と繋がりたかったことを犠牲にして、得られたものはない。キャンプから帰っても家族の関係は変わっていない。
その後、自分は男に興奮しないように言い聞かせた。何度も繰り返すうちに、周りと馴染んだ。余計な動きは自分の短所を漏らしてしまう。目立つことを避けて、あの日を恍惚と思い出す。それでも、あの日を忘れられない。たとえ父親を蹴飛ばしても。ボードゲームを無くしてしまって、まったく元気のない父親を見ても。
父親の口下手は、自分を大事に思うあまり、好かれたいと、背中から感じ取ることができても、気が付かないふりをした。
それでも、勇斗は誤解されないように、男になりたかった。
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