クローゼット壊し、元からなかった。
夫の和義は私とソファーでテレビを見ていた。バラエティは友達同士の仲良さそうな会話を聞かされているような気まずさを感じさせる。そんななか、和義の携帯が震えた。彼は立ち上がり、腕から離れる。ソファー下で寝ている息子を起こさないように、そっと忍び足で進む。
「え、父さんが退院?」
私はソファーから身体を起こした。
和義の横顔は叱られている犬のような顔つきで、耳に電話を当てている。
家族とうまくいっていない。それは出会った頃から知っている。だって、最初のデートでこんな事を言っていた。
『僕はクローゼットの中でお母さんのドレスを着ていた。父親は、隠れている僕を目撃したあと、居なかったことにして扉を閉められたことがある。それから、僕は家族のことがうっすら嫌いになった』
彼と結婚してから4年になる。彼は繊細な人間だと思っていた。共同生活は、彼を臆病だと印象を突きつける。自分を傷つけられたくないから、人と不用意に距離を取る。欠点をかろうじて受け止めた。だって、私も人に褒められるような人間じゃない。
私は大学に行きたかった。父親に反対された程度で心が折れてしまい、近くの専門学校で学び、実家から二つとなりの地区に、一人暮らしをした。
和義は電話を切って、私に助けを求めてくる。
「お父さんが僕に家へ帰ってくるように言ってきた」
「どうして?」
「快気祝いするらしい」
「あなたの父親は元気だね。本当に入院していたのかな」
「胃がんとは思えないよね」
目線を落とすと、息子にかけた布団がずり落ちていた。寝相が悪く、足をバタバタしてお腹を出している。
皮肉が通じていないから、私はただの嫌な人になった。
「で、どうするの?」
「来週の土曜日に行く」
「わかった」
立ち上がって、台所に向かう。後ろの方で、彼は解釈違いの言い訳を続けた。
「孫の顔ぐらい見せろって言われた」
「別に言わなくてもいいよ。貴方の優しさは身に沁みている」
「でも、顔が怖いよ」
私は彼の顔を見た。
どうしてそんな怯えているのだろう。前から私の考えを話すと、責められているような子どもの仕草が出てくる。もっとふつうの話がしたいだけなのに。
「貴方のお父さんは昔の人じゃない」
「うん」
彼の実家で1日だけ過ごしたことがある。台所で、彼の母親を手伝った。味のつけ方を詳しく教えられ、私の元の名前を一度も呼ばない。
私の形をノコギリで整えて、和義家の隙間に埋め合わせようとしてくる。そのグロテスクさが苦手だった。
「息子に影響を与えてほしくないの」
「そうだね。それは僕も思っているよ。むかし、変なことを教えようとしていたからね」
「たぶん、また私は女をやらされるから、守ってくれない?」
「うん。ちゃんと見てるよ」
▲
彼の母親はよく動いた。家の通路は目をつむっても歩けるのか、適切な早さで門を曲がっている。手に持っている唐揚げの盛りつけを落としそうにない。私は、彼女の後ろ姿が消えるのを待ち、味噌汁をかき混ぜた。
隣に夫の姉が現れ、私の調理中に意見する。
「ねえ、いつもは作ってあげてるの?」
「作ってあげたいんですけど。私も仕事が忙しくて出来ませんね」
「共働きだったね。困ったことあったら、私に言いなよ?」
「ありがとうございます」
「何かしこまってるの。もうあなたは家族なんだから」
「あはは」
彼女は私の緊張をほぐそうとしている。その姿勢が痛いほど伝わってきた。
調理した食事を皿に注いだ。手伝いを受けながら、食卓に並べようとする。
リビングでは家族が大きなテーブルを囲んでいた。上座に、和義の父親が仏像のように重く座る。頬はコケているが、自信満々な態度は陰りを見せない。
「いや、お父さん。全然元気ですね」
「ああ、まだまだ元気だよ。孫たちお酒を飲むまでは死ねんからな」
和義の父親は、大企業の部長を務めている。今週の木曜から職場に復帰すると語っていた。
彼は私の息子を膝の上に乗せて、一緒に遊んでいる。息子に拳を作らせて、自身も同じ形を作り、突き合わせた。
「かずき。これが男の挨拶だ」
「和義さんはお酒を飲みますか?」
「え? ああ、ありがとう」
私の父親は約束を忘れていた。守り事を遂行することなく、テレビを眺めている。普段は先週は子どもと遊んでくれたのに、親の前だと父親を放棄した。
「まだ『さん』付けなの? 普通に呼び捨てでいいよ」
「姉ちゃん! うるさいよ」
「あ、和義はエムだから良いのか」
「子供の前だよ!」
家族は楽しそうに笑っている。動物の隣で、私は食卓を並べた。満足そうにする和義家の間に体を滑り込ませ、ご飯をともにする。
餅のような米粒。塩辛い味噌汁。皿に貼り付く魚。
「どうしたの? 顔色が悪いけど」
「ちょっと長旅で疲れたのかもしれないです」
「そうよね。ごめんなさいね。食事を用意させて」
彼の母親はわかったような謝罪をする。ここで、非難されると思っていない。私も、構わないですよと社交性を見せた。
「でも、私が嫁いだときはもっと酷かったのよ。私が作ったご飯を目の前で捨てられたからね」
「アレはひどかったなあ。さすがに俺も母に切れた」
「でも、今はそんなことさせませんよ。そんな古臭いことさせないです」
「よかったなあ。和義と嫁げて」
「そう思っています」
息子のカズキは和義の父といっしょに過ごしている。私には、見せたことないような笑みを隠さない。彼は何かを耳打ちされてケラケラと笑う。ご飯を食べているときに親しげにしているから、咀嚼した米がカズキの服に付着した。
夫は隣にいるのに気が付かない。お酒を飲んで、機嫌が良くなって、父親と楽しそうにしている。
私は立ち上がりティッシュをつまんだ。息子の汚れを取ろうとする。
それを見た夫がハッと何かを察した。
「父さん。カズキを返して」
眉をひそめ反論される。
「別に構わないだろ。滅多に会えないんだから、今日ぐらい許してくれよ。カズキもそう思うよな?」
「うん!」
「息子に行儀の悪いことを教えたくない」
「だったらもっと顔を見せるんだな。カズキがどんな女と付き合ったらいいのか教えてやらないといけない。面倒なやつに引っかかったら可哀想だ」
「息子はまだ子供だよ。そんな事言わないでも平気」
「今のうちから教えておかないといけない」
「それは洗脳でしょ?」
「洗脳じゃない。教育だ。お前も同じことをやっているだろう」
カズキは楽しそうに私たちの会話を聞いている。大人の態度を吸収して彼のなかで情緒が育つ。十年後の未来が恐ろしく感じた。
「爺ちゃん」
「ん?」
「俺に任せとけよ」
拳を突き出して、場を収めた。皆は喜んでいる。彼の瞳には憧れが宿っていた。男らしく女性で付き合っていた祖父の姿。それを止めない私の顔。
和義はカズキを手元に引き寄せることをやめた。きまり悪そうに背中を丸め、私とは顔を合わせようとせずに風呂へ入った。
▲
この家では、私たちが最後に風呂へ行く。和義が先に風呂を済ませたら、次にカズキと和義の父親。二人はまるで深い友達かのように息があっている。
私は台所に入れることが許されなかった。あてつけように、和義の母と姉が皿洗いをしている。暇な私は携帯を眺めていた。
「うちの息子はもう誰が好きだとか話してるらしいよ」
「えー! まだ小学生じゃないの?」
「そうなの母さん。今の子供って進んでるのよ」
「そういえば、私も知っているわ。最近の子供は性知識もスマホで覚えているらしいよ」
「えー、やだー! お父さんみたいになるじゃん」
「あははは」
私はスマホを戻して、お手洗いに行く。通路を過ぎて、風呂場を横切った。背中で扉の開く音がする。
振り向くと、息子がいた。
彼は全裸で私を見つける。
「お母さん!」
慌てた様子がなかった。私に自身の陰茎を見せつけている。頬は緩んでおり、冗談だから許されるだろうと、白い歯を見せている。
腕をつかんだ。タオルで拭いていないのか皮膚が濡れている。
「母さん?」
「……」
私は力を込めた。彼の腕は簡単に一周できる。中指と親指が触れ合って、指の横から皮が押し上がっていた。彼の腕にあとが残るように、その怒りが伝わるように、幼稚な行動に出ている。
息子はじっと私を見た。暴力を振るう私を観察している。いたがることもせず、私の不快そうな反応を伺う。
「おい、なにしてんだ!」
和義の両腕が私の両肩をつかんだ。
息子から離されて、指がほどかれる。
息子の腕は強い跡が残っていた。彼はそれを確認することもなく、しまわず、ただ目線を交差させてくる。
「母さん。僕の友達がこうしたらウケるって言ったんだ」
彼は和義のような言い訳を匂わせなかった。投げたボールを返してもらえるような、そんな他人に期待しているような表情ではない。
「お前、自分が何しているのかわかってるのか!」
和義の声で目を覚ます。風呂場から和義の父親が現れた。腰にタオルを巻いて、自分の孫を抱く。その後は風呂場に消えて、私を一度だけ見た。
その後、場は収まった。彼の家族は私のことを責めない。むしろ、子供を癒すことに率先していた。
等のカズキは、和義たちと遊んだ末に値落ちする。
和義は私をおいてカズキを寝かせにいった。居間に残ったのは、私と和義の父親だけだ。
「私も、和義を殴ったことがあるよ」
彼はお酒を飲んでいた。手元にワインを揺らしながら、私と顔を合わせようとしない。
「あれは間違いだったと思う。思い通りになると思ったんだよ」
「貴方は、カズキを男らしく育てたいんですか」
「……何を馬鹿なことを言う。アイツは男だろう。和義が私と電話していたとき、カズキの声を聞いたことがある。既に芽吹いているよ」
「……あはは」
そうそう子どもは親のわからないところで育っていくもんだ。支配できるなんて思わないほうがいい。アイツもいつか結婚して子供が生まれる。そうすればお前も同じようにわかってくるはずだ。
私の父と同じ目をしている。死んだ魚の眼。
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