大商人の息子、マーティン

中庭事件の夜。


マクラウド商会では、怒髪天を衝く勢いで商会長のトニーが息子マーティンを叱り付けていた。

それもそうである。

貴族への販路の窓口であった、婚約者のエリンギル伯爵家から婚約破棄の申し出が、慰謝料の請求と有責の証拠と共に突然送りつけられたからだ。

寝耳に水の出来事であった。

とはいえ商会は情報が命である。

良からぬ噂は耳にしていたし、マーティンにも何度も言って聞かせていた。

それに、仲良くしている、友人の範囲でという事は調べがついていたのだ。

急に事態が動いたのは、マーティンの侍っているアリス・ピロウ男爵令嬢が理由で、王太子の婚約が解消されたからである。

王太子が婚約解消されるくらいなのだから……と一斉に、アリスの周りを取り囲んでいた令息達の婚約者や、婚約を結んだ家門が動き出した。

特にマクラウド商会にとって分が悪いのは、こちらが平民と言うところだろう。

再三にわたる婚約者からの注意を無視した、貴族を虚仮にして名誉を傷つけたのである。

注意をしたという目撃証言や、婚約者以外への贈り物、過度の触れ合い、そのどれか一つをとっても大問題だ。

元々イライザが見初めたマーティンという存在くらいしか、伯爵家にとっての婚約の利点はない。

だからマーティンが魅力を失えば、即解消となるのも当たり前の契約である。

そして、名誉を重んじる貴族にとって、平民に受けた屈辱は婚約を破棄する理由に十分だ。


「何度も、何度も言った筈だ!お前の婚約者は貴族でも格式高い、平民のお前などが本来結婚できる相手ではないと、何度も!」

「でも、彼女は傲慢で…」

「それが何だと言うんだ。貴族が傲慢なのは当たり前だろう。馬鹿かお前は」


正論である。

婚約者のイライザが特に傲慢という訳ではないし、周囲から見て傲慢だと言われるほどの事もしていない。

貴族と言うのは高慢で傲慢な者が多い。

だが、そういう層と軋轢を生まずに商売をする事で、このマクラウド商会は大きくなり、潤っていたのだ。

マーティンは愛人の子だったが、母親である異国の踊り子と同じ褐色の肌と彫りの深い顔立ちに、エリンギル伯爵のイライザが興味を示したから、実子として認めた上で婚約を結び、今があった。

当時は数ある商会の1つでしかなかったのに、伯爵家の紹介で貴族の家門と幾つも専属契約を結び、平身低頭して仕えてきたのだ。

望むものを必ず手に入れるという商人としての矜持はあったが、平民の自分達が貴族に大金を支払わせるのに、高慢も傲慢も何もない。


「明日、この婚約破棄の撤回を願い出ろ。その身がどうなろうと、それだけは叶えるのだ。出来なければ我が商会の破滅だ」

「……分かり、ました」


父親の剣幕に、渋々とマーティンは項垂れた。


アリス・ピロウは可愛い女性だった。

抜けている所もあるが、柔らかい喋り方と笑顔にマーティンは親しみやすさと癒しを感じていたのだ。

凡そ貴族らしからぬそれは、周囲の人間から嘲笑と敵意を向けられはしていたが。

何でもハキハキと的確に答えて、必要があれば命じもするイライザとは全然違う。

婿入りをしたとしても、一生イライザの言いなりになるのかと思うとうんざりしていた。

だが、イライザと婚約してからと言うもの、家での扱いは大きく変わった。

衣食住、全てにおいて上級品が宛がわれて、母親も豪華な別邸に住んでいたし、マーティンも気楽にそこで暮らしていた。

異母兄達が父の教育で、商人として遠くに旅に出たり、あくせく働くのをのんびり眺めているだけで良かったのだ。

馬鹿にはしていなかったが、哀れんではいた。

あんなに大変な思いをして働いているのに、のんびりと暮らしている自分ほど良い暮らしはさせてもらっていない、と。


だがもし、明日婚約破棄の撤回を成し得なければ。

別邸は売り払われ、母は元のように端女として、下働きに戻されるだろう。

自分に待っているのは、荷運び人ならまだいい。

下手をすれば、美貌を見初めた女性相手の男娼かもしれない。

ゾッ、とマーティンの背中を悪寒が駆け上がった。


何故、今までそれを考えなかったのだろう。

ずっと、この甘い生活が続くと思っていたのに。


次の朝早く、マーティンは学園で目当ての馬車を待っていた。

エリンギル家の馬車が停まり、イライザが馬車から降りると、さっとマーティンは手を差し出す。

入学当初は、ずっとそうしていたが、アリスと出会ってからというもの、そういった触れ合いは減っていた。

イライザは金の髪を後ろで一つに高く結い上げていて、目つきは鋭い。

その濃い翠の瞳で射抜かれて、だが、興味を失くした様にイライザはその手を取ることなく、馬車から降りた。

今までのような責める目つきですら、なかったのである。


「あの、イライザ…」

「婚約者でなくなった貴方に名前を呼ばれる覚えはなくってよ」


冷たくそう言って、横を通り過ぎようとするので、マーティンはその場に額づいた。


「済まなかった……!どうか、考え直してほしい」


舗装された煉瓦に額を突けて、マーティンは答えを待った。

じゃり、と地面を踏みしめる音がして、頭上から冷え切った声が降る。


「止めてくださる?そういうみっともない真似。わたくし、何度も貴方に言った筈よ?他の女性と会話するのも、仲良くするのも構わないけど、節度と言うものを守ってほしいと。ねえ?何度貴方に言ったかしら?」


「それは……」


マーティンが顔を上げると、冷たい表情でイライザが見下ろしている。

数え切れない程言われてきた。

その度に曖昧に笑って承諾して、行動に反映させる事はなかったのだ。

でも、何度でもイライザは見かける度に、マーティンに言い続けていた。

思い出して、焦ったようにイライザを見上げていると、イライザは、不意ににこりと微笑んだ。


「さあ、立ちなさいな」

「イライザ……」


許されたのだ、と思って笑顔を浮かべて立ち上がると、イライザは笑顔のままで冷たく言った。

その笑顔は。

絶望するくらい、冷えた眼差しだった。


「外側が美しいだけの愚かな男と、何故わたくしが結婚なんてしなくてはいけないのかしら?ねえ?平民の分際で、貴方何度わたくしを虚仮にしたの?わたくし目が覚めたのよ。貴方はもう、いらないわ」


人差し指で胸をとん、と突かれて、思わずマーティンは一歩下がった。


「……あ、あの……エリ…」

「ああ、そうそう。わたくしにはもう二度と話しかけないでくださる?命があるだけ有り難いと思って、高望みはもう止めた方が宜しくてよ」


平民が貴族と婚約するのは高望みである。

子爵や男爵ならともかく、伯爵家なんて、平民が望んでいい相手ではない。


命があるだけ有り難いと思って。


マーティンの喉がヒュッと鳴った。

婚約を破棄された男というだけではない、貴族に喧嘩を売った平民でもあるのだ。

イライザが望んで命じれば、自分の生命などいつでも奪えるのだと。

そんな事すら此処に至るまで、マーティンは忘れていた。


授業を受ける余裕など無く、そのまま学園を後にする。

マーティンはまだ気づいていない。

エリンギル家が紹介した全ての家門の御用商人の契約の打ち切り。

全ての貴族の家から排斥され、商会として成り立たないくらいに打撃を受けた事を。

破滅は突然に、訪れたのだ。

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