訪夏

稲荷ずー

訪夏

 春が終わり、夏らしい陽気が続いている。窓を開けると、爽やかな軽い風がカーテンを揺らし、優しく首筋を撫でていく。布団から出している腕と袖の隙間から風が忍び込み、汗をかいた肌に心地よかった。

 春の初め、新学期を迎える時に、玉雲たまも川にある病院に入院した。全身の筋肉が徐々に衰えていく病気だった。始まりはたぶん、去年の冬くらいだったのだと思う。授業のときにペンを持ったり、掃除の時間に机を持ち上げたり、そういった事ができなくなる時があった。その時は、寒さで手がかじかんでいたせいなのだと思っていたけれど、今思えば、あの時から症状が出始めていたのだと思う。

 それから一年とちょっとが経って、私はここに入院することになった。友達と遊ぶことも、運動することもできず、退屈な日々が続いていた。こうして窓を開けて、本を読んでいる時だけは、退屈さを紛らわすことができた。

 ふと時計を見ると、針が五時を指していた。そろそろ、彼が来る頃だろうか。

 私は、そわそわした気持ちで、次のページを捲った。

「この。お見舞いに来たよ」

 耳に心地良い、優しい声が聞こえてきた。私は、読んでいた本を下ろして、声のした方に顔を向ける。

「いらっしゃい、たっちゃん。今日は何持ってきてくれたの?」

 たっちゃん――たつきは、むっとした顔で部屋に入ってきた。

「俺がなにか持って来てやってるのを、当たり前みたいに思うなよ」

「来るたびに言ってるよ、それ。ねえねえ、早くその袋の中見せて?」

 たっちゃんが、はあ、とため息をついて、枕元の小さな椅子に座る。ギギギと、椅子の脚が軋む音が聞こえた。

「それは?」

「花だよ。ずっと同じようなのじゃ飽きちゃうと思って」

 たっちゃんが、窓際に、小さな花瓶を置いた。でも、たっちゃんの体で隠れて、花が見えない。頭を動かしてもぞもぞしてるのに気づいたたっちゃんが、体を引いて花を見せてくれた。

「わあ、綺麗。なんて花なの?」

「カナリア。似合うと思って」

「ありがとう。嬉しい」

「あと、はい、新しい本」

「ありがとう。……こんなに持っきてくれたの?」

「うん。来週、テストがあって、お見舞いにはしばらく来れなくなるから。そんだけあれば一週間はもつでしょ?」

 本の背表紙を優しくなでながら、どんな本があるか見てみた。恋愛小説に、推理小説、詩集やエッセイなどもあった。前に、恋愛小説を読みたい、と言ってから、お見舞いに来る時には必ず、恋愛小説を持ってきてくれる。

 本当は、恋愛小説はそこまで好きではないのだけれど……。時間があるのなら、読み聞かせでもしてくれればいいのに。

「テスト勉強は順調?」

「んー、ぼちぼちかな」

「えー? 勉強してないの?」

 少し責めるように、少しいたずらっぽく、ほんの少し、期待を込めて言ってみた。

「いや、そういうんじゃないけど。ほら、バイトとかで時間がなくてさ」

 そう言った後、たっちゃんは少し慌てて、申し訳なさそうな顔をした。何かあったのかな? と思ってきょとんとしていると、たっちゃんがそれに気づいた。

「いや、何でもないよ。ごめん」

「ちょっと、隠し事はなしだよ」

 少し怒ったふりをすると、たっちゃんはばつが悪そうな顔をした。

「こののせいじゃないからね」

 意外な言葉に、私は少し驚いた。たっちゃんは無愛想に見えるけど、たまにこういう一面を見せてくれる。

 私はそれが嬉しくて、少し笑顔になって言った。

「ふふ。分かってるよ。たっちゃんは、私が何しても許してくれるもんね」

 たっちゃんは何も言わなかったけど、少なくとも嫌な気分にさせちゃったわけではないっぽい。そういう時、たっちゃんは少し怒った顔で、私の顔をじーっと見つめるから。

 たっちゃんは私の枕元に手をついて、窓の外を眺めていた。最近は日が伸びてきて、五時でもまだ明るい。たっちゃんの横顔に、青く澄んだ光がおり、産毛の一本一本まで白く照らし出している。

 窓から風が入り、花瓶のカナリアが少し揺れる。

 たっちゃんも私も、何も喋らなかったけど、とても居心地が良かった。爽やかな静けさが続いている。

 私はゆっくり起き上がると、ベッドの縁に座った。

「起きて大丈夫なの?」

「平気平気。することがなくて寝てただけだから」

 ベッドをぽんぽんと叩く。たっちゃんが立って、私の隣に座った。たっちゃんの重みで布団が沈んで、私の体も少し傾く。

「友達とも会えないから、たまに人肌が恋しくなるんだよね。由梨ゆりたちは元気?」

菊池きくちさん? うん、いつも通りだよ。あんまり話すことないからあれだけど。お見舞い行きたいけど、時間がない、ってはなしてた」

「電車使わないと来れないもんね。あーあ、向こうの病院に移れないかなぁ」

「そしたら俺がお見舞いに行けなくなるだろ」

「たしかに? じゃあ、このまんまでいっか」

 窓の外には、陽の光を弾いてきらきらと光る川が見える。その河川敷では、毎年、花火大会が開かれる。

 たしか、あの花火を一緒に見たのは、今年の夏だったと思う。最初で最後の花火を、二回。私とたっちゃんが疎遠になったあとも、たっちゃんは毎年、あの花火を思い出してくれていた。

「じゃあ、俺そろそろ帰るよ」

「え〜、もうちょっといればいいのに」

「テストがあるって言ってんでしょ」

 たっちゃんがのっそりと立ち上がって、持ってきた荷物を手に取る。

「元気そうで良かった」

 たっちゃんが初めて笑顔になった。恋愛小説に出てくるイケメンがするような、爽やかな笑顔ではなかったけれど、心優しいたっちゃんの、その笑顔が好きだった。

 そんなに多くの言葉を交わすわけではないけど、部屋から彼が去ったあとはいつも、この部屋が空っぽになってしまったように感じる。

 そういう時、彼が残していってくれた物だけは、温もりのようなものを感じる気がして、眺めてみたりしていた。本は、その温もりと一緒に、この陰鬱な気持ちまで紛らわしてくれる。

 この日は、たっちゃんは、本だけじゃなくて、花も残していってくれた。そよ風に吹かれて揺れる、小さくて可愛らしい花。正直、夏の青さに、この花の黄色は不釣り合いなように感じたけど、でも、あの日見たあの黄色は、今でも、目をつぶればまぶたの裏に鮮明に浮かんでくる。

 あの日、たっちゃんが部屋を出てしばらくしたあと、カナリアの花について調べてみた。外はもう暗くなってて、真っ暗な夜空を背景に、黄色い花がぽつんと咲いていた。

 たっちゃんがくれた花の花言葉には、快活や希望などがあるらしい。それを知った時、たっちゃんらしくないな、と、思わず笑みがこぼれてしまった。たっちゃんはそんな明るい言葉をかけてくれる人じゃないから。花屋で店員さんにこの花を勧められているたっちゃんを想像すると、面白かった。

 あの日のこと、君は覚えてる?

 君にとっては、何気ない日常の一つだったのかもしれないけど、私はすごく嬉しかった。日記には、カナリアの鳥言葉について、少し愚痴を書いておくことにしようかな。

 私は今でも、あの夏の日を思い出す。触れれば壊れてしまいそうなほど儚く、そして、人生で最も輝いてた、あの夏を。

 パチパチと爆ぜる音が、小さく聞こえる。夏の夜風が入り込む。

 あなたの背中を撫でて、小さくきれいな花が咲いていたあの夏をおもう。想いを夜風に乗せて。

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訪夏 稲荷ずー @inari_zooo

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