第七話 老人は灰になった
河田龍子は、決してケンカに強い人物ではなかった。
漫画家という職についているため学生や本職の格闘家のように過酷なトレーニングをすることは不可能である。
毎朝の軽い筋トレとジョギング、週に三回やる型稽古、寝る前のストレッチ。
その他の時間は概ね漫画を描いている。打ち合わせや取材もあった。
趣味でやってるのと大差ないのだが、祖父・海舟から受け継がれてきた技だけは腐らせることはなかった。
龍子は稽古の途中、佐那に言った。
「勘違いされがちなんだけど、一子相伝の秘義とかじゃないのよね。単に、個人が開いてる空手道場なんてのにお客はこないだけよ。技術ってのは広めてなんぼなわけだから教えるのに抵抗はないの」
だから坂本龍馬にも教えたし、千葉佐那にも教える。
自分を水だと意識して、攻撃を絶対にガードせず、筋肉を固めることもしない。
ガードをしないというガード。
「ダメージを点で受けるのではなく、立体、全身に分散させる。水面に波紋が広がっていくイメージよ。そこからさらに地面へと伝わっていく事をイメージするの。これが実践できれば免許皆伝ね」
「……龍馬は、実践できたんだな」
「あいつは私より上手い。体操やってたからか、身体が柔らかい。その柔らかさを存分に活かしてるの」
佐那も柔軟は得意であるが、さすがに体操選手と比べられるほどではなかった。
「ボクサーとのデスマッチを見たけど、ラストのカウンターを綺麗に無効化できてたわね。私ならああはできない」
「できない?」
「パンチの無効化ならできる。問題はカウンターよ。どうしても攻撃する瞬間は筋肉を固めてしまう。だけどあいつには届かなかった。なぜ?」
問われて、佐那は考え込んだ。
「単純に考えるなら、龍馬は本当の本当にインパクトの一瞬だけしか筋肉を固めない。常日頃から水を意識した状態を維持してるってことになるかと」
「そうよね。でも、もう一つ、ある」
龍子は呆れているのか嬉しがっているのか、読み取りにくい表情で言った。
「あいつにとって、あれはまだ攻撃じゃあないのよ」
◯
六月一日――。
この日、坂本龍馬と土方源三郎の決闘が行われることになった。
決闘の地は理天会館が所有する廃村の道場。かつて、源三郎が空手を習った始まりの場所である。亡くなったらここで眠りたいという要望だったのだ。
内容が内容だけにテレビ放映もネット配信も厳禁だが、身内の数名だけは招待できるように土方才助と坂崎紫瀾が取り決めた。
佐那は龍子とともにそこにやってきた。
廃村と言うだけあって人の気配はない。虫や動物の鳴き声と、風に揺らされる木々のざわめきしかなかった。
道場には、すでに紫蘭と才助、医者と看護師が待機していた。
そして、土方源三郎も。
「あれが100歳だって?」
龍子が小声で呟いたが、佐那も同じ気持ちだった。
佐那は源三郎とはさして面識がない。
物心ついたころには介護をされる老人であった。空手は続けていたが、そこに迫力はなく、筋肉も痩せており、暴力とは遠い存在だった。
年始には挨拶に出向いていたが、そのたびに源三郎の姿は衰えており、大学に入ってからは顔を見ることもなかった。
寝たきりの生活となり、自力で風呂に入ることもできなくなっていたのだ。そんな姿を見られたくないという、ちっぽけな意地だった。
ところが、今の姿はどうだろうか。
畳張りの上で、真っ白い道着に黒帯を締め、型の演舞をしている。
正拳を打ち、虚空に蹴りを放つ姿は教本のように正確で、鋭いものだった。
皮と骨だけの枯れ枝のようだった身体には筋肉と脂肪がついていて、カサカサだった肌は瑞々しく、張りが出ている。
その双眸にも生命力が充実しており、激しい光が宿っている。
髪の毛こそ生えていないが、その姿を見て100歳の老人だと思うものはいないだろう。
高く見積もっても、50代にしか見えなかった。
佐那と龍子が壁際に立つ。
しばらくすると、坂本龍馬も入ってきた。
彼は白い道着に白帯を締めた姿だった。
準備運動もしていないのか、汗を一滴もかいていない。
いつものように明るい栗毛の先端がくるっと巻いていて、その宝石のような瞳も穏やかなもので、決闘に赴いた戦士ではなく買い物に出かけているようなのんびりとした雰囲気しかなかった。
しかし、彼を前にした源三郎はちがった。
「修練を積んだな、海舟」
嬉しそうに笑っていた。誇らしげにさえ見えていた。
海舟という人物は亡くなっている。そのことに唯一人、彼だけが気づいていない。
龍子が佐那に尋ねてきた。
「おじいさん、今が何年なのかわかってるの?」
「わかってません。何月何日なのかも、なにも。私たちが誰なのかすら」
再三繰り返すが、源三郎は正気を失っている。
坂本龍馬に海舟という人物を当て込んでいるだけ。認知力は衰えているどころではない。最早存在しなくなっていた。
それ故に、彼は充実している。
長き時間の流れに消え去った灼熱の青春を謳歌しているのだ。
「灰になるまで、やるぞ。海舟」
試合開始の合図はない。
龍馬が彼の眼の前に立ったときが始まりだった。
源三郎は、弾けるように飛び出して突きを放った。
空手の基本技・刻み突き。
驚異的な速度だった。佐那はまばたきもしていなかったのに、いつ距離を詰めたのかがわからなかった。
龍馬も才助の刻み突きはかわせたが、源三郎のそれは防ぐことも避けることもかなわず、まともに顔面に入ってしまった。
「フラッシュフィスト」
佐那が呟いた。
「なにそれ」
「大お祖父様の代名詞。光より速い拳って意味です」
源三郎の突きは、そばから見ていても気づかぬほど速かった。
打たれた方は本当に光より速かったとすら思っただろう。
龍馬もなすすべもなく大きく飛ばされて――くるりと回転して着地する。
彼の顔には打たれた痕はない。鼻血すら出ていなかった。
手品、いや、魔術の領域にまで至っている。
佐那は背筋が凍えてしまった。
隣の龍子は、微笑んでこう言った。
「亡霊対妖怪だわね」
まさしく、だった。
源三郎は自身の突きが効果なかったというのに歓喜の表情を浮かべていた。
「理想を叶えたか。見事だぞ、海舟」
今度は一気に詰め寄らず、拳を構えてジリジリにじり寄っていこうとする。
ところが、逆に龍馬のほうが一気に前に出た。
至近距離に入ると同時に拳を放つ。
鞭のように速く鋭かった。佐那の目には見えないほどだったが、源三郎はこれを払った。空手の受け、サバキ。
龍馬の拳は一発では終わらない。連打。
源三郎は体ごと回しながらその全てを捌いていく。
その衝突のたびにハンマーで岩を叩くような音がこだまする。
源三郎も反撃する。
受けながら大きく足を振り上げた。
股下に入った。金的であるが、無音。龍馬はその場でふわりと浮き上がって回転する。
「骨掛け」
佐那が言った。
睾丸を体内に収納する技術だ。
これも源三郎は予想していた。
龍馬が着地したところに踵落としが襲っていく。
だが、わずかに遠い。
その遠さが源三郎の狙い。
踵落としは龍馬の脳天ではなく、爪先に落とされた。
ぐちっ。
血が飛び散った。
ガラスの破片、のようなものも、飛んだ。
爪だった。
龍馬の左足、親指の爪が飛んだ。
「打撃は無効化される。でも、床と挟めば衝撃の逃げ場がない。しかも先端であればあるほど、衝撃を分散できない。おじいちゃん、見事なものね」
淡々と龍子は解説する。
「あなたの弟子が押されてるんですよ」
「まあ見ていようよ」
龍子はニヤニヤと笑っていた。
激痛があるだろうが、龍馬の表情は崩れておらず、汗も浮かべていなかった。
彼の姿勢がゆらりとなった。
すかさず源三郎の突きが繰り出される。
拳ではなく開手。
掌底ではなく指を向けていた。
目突きだ。
さすがにそればかりはダメージを殺すことはできない。
入ればそれで決着だったが、その指先は届かない。
吹っ飛んだ。源三郎が。
「――なに!?」
思わず佐那は身を乗り出しかけたが、すぐに正座に戻る。源三郎もすぐに起き上がった。
龍馬がやったのは張り手。
いままでよりも一段と速さを高めた張り手だった。
なぜそんなものが打てたのか。
さっきまでの攻防は手加減していたのか。
悩む佐那に、龍子が囁いた。
「龍馬の足元を見て」
「――――」
佐那はごくりとツバを飲んだ。
龍馬は畳に食い込むほどに、足を踏み込ませていた。右足も、親指が潰れて血が流れる左足も。
強い踏み込みで打撃の威力が上がるというのは常識であるが、それにしても強すぎる。
「龍子、あれもあなたの教えですか?」
「理屈は教えた。あいつはいま、水を撃ち出したの」
水鉄砲をイメージしなさいと龍子は言う。
「いままで龍馬は全身を水にしたまま闘っていた。けど、おじいさんが踏みつけでダメージを逃さないようにした。『攻撃』しないとやられるって思ったんでしょ」
「攻めの『水』ってこと?」
「言うなれば、ね。理屈は、あの踏み込んだ足から順番に全身の力を乗せていって、その手で撃ち出したの」
龍子の言っている『極意』は至って普通のことだ。
足の力を拳に乗せる。空手でもボクシングでも、中国拳法でも同じことだ。
違いは、相手の攻撃を完全に無効化する『水』を体現していること。
この『水』の技術を佐那はおおよそは理解している。
筋肉どころか皮膚も骨も血管も、細胞さえも緊張から解き放って、柔らかくすることなのだ。
龍馬が放ったのはその柔らかさを最大限に活かしての打撃。
想像を絶する威力、速度があることだろう。例えるならウォータージェットか。
「でも、龍子、それって相手の攻撃を無効化できなくなるってことですよね」
「そうよ。いま、おじいちゃんと龍馬は、」
殺し合える――。
そこから地獄が始まった。
二人は歩み寄って打撃を重ねた。
100歳の亡霊と22歳の妖怪。
逃げもしない。
防御もしない。
足を止めて、光の拳と水の拳で殴り合う。
その一撃一撃が道着を切り裂き、皮膚を削り飛ばした。
肉が裂けた。
血の華が咲いた。
骨が砕けた。
二人とも、とても立っていられないはずの怪我をほんの十数秒の間に負ってしまった。
なのに、脳内麻薬が溢れているのか、はたまた痛覚すら消えてしまったのか、どちらも止まらなかった。
苛烈――。
激烈――。
熱烈――。
「そんなに嬉しいかい――」
龍馬が言った。
打ち合いながら、自身も血みどろになっているのに、言った。
佐那には届いていた。
源三郎の親指の爪が弾けた。
龍馬が狙ってやった。
その指も折った。
なのに源三郎は拳を打ち続けた。
それは、暴力で表現する愛のようでもあった。
「でも、大お祖父様、そいつは、違うんですよ……」
源三郎の目の前にいるのは海舟ではない。
まったく関係のない弱小プロレス団体の坂本龍馬なのだ。
源三郎と海舟の間になにがあったのかなぞ、誰も知らない。
坂本龍馬も知る由がない。
なのに彼はそこに立って、灼熱のような愛を受け止めている。
行き場のない、愛を。
「カッ――」
龍馬が源三郎の右肩を刺した。
二本貫手。
人差し指と中指を道着の上から肉に刺した。
抜き取ると、二本の指は血で彩られていた。
左肩も刺した。
源三郎の腕が、鈍くなった。
「おじいちゃん、僕は坂本龍馬だ」
「――――」
「その黒ずんだ脳細胞に刻み込め」
血で濡れた拳をみぞおちに打った。
あれほど打ち続けていた源三郎が後ろに傾いた。
龍馬は笑った。
源三郎も笑った。
「またね、おじいちゃん」
最後の正拳は、源三郎の顔に届かなかった。
寸止めだったが、源三郎は音もなく倒れた。
火が消え、灰が残った。
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