第六話 ある空手家の遺物
人口十万人の程々の大きさの街。山あいにあり、風が吹くと竹林がざあざあと波のように歌っていた。
そこの住宅街を女が歩いていた。
黒いジャージ姿の女だった。
長い黒髪をポニーテールにして、片手に地図を持ちながら歩いている。
研ぎ澄まされた鋭い目をしており、キビキビと歩く姿が獲物を探し求めている狼を彷彿とさせた。
やがて、彼女は止まった。
二階建ての小さな民家の前だ。
田舎らしい広い庭と、大きなガレージがある。白の軽トラックと中型バイクが停まっていた。
インターフォンはない。なので、彼女は大きな声で呼びかけた。
「ごめんください! 河田龍子さんはご在宅でしょうか! 私、理天会館より参りました、千葉佐那と申します! 河田龍子さんはご在宅でしょうか!」
二階の窓が開き、そこから女が顔を出した。
「でけぇ声出さなくても聞こえてるよ。あがりな、鍵はかかってないからさ」
◯
千葉佐那、22歳。
空手を始めて15年。160センチ59キロの軽い体であるが、人殺しの技を身に着けたという自負がある。
彼女には生まれついての衝動があった。
誰にも負けたくない――。
シンプルなそれは武を修練するものにとって必須な才能だった。
男が相手だろうと関係ない。
年上だろうと、関係ない。
いざ拳と拳、肉体と肉体とのぶつかり合いとなれば、絶対に勝たなくては我慢ならない。その精神性を教師も両親も非難したが、祖父の土方才助だけは喜んでくれた。
それが嬉しくて、空手に邁進した。
拳を、肘を、膝を、爪先を、人体を鍛えに鍛えて――――、一人の男・坂本龍馬にコケにされた。
まるで相手にされなかった。
かの男は、女の子じゃんかと罪悪感さえ覚えていた。
その目を見たとき、佐那は自分の人生ごとバラバラに踏み砕かれた気分だった。
見返してやらなければならない。
でなければ胸を張って生きられない。
でも、どうすればいいのか。
苦しむ佐那に、才助が言った。
「河田龍子を訪ねろ」
「誰ですか」
「彼女は、海舟という空手家の孫娘だ」
海舟――。
理天会館の創始者、土方源三郎の心に残っていた『誰か』。
「坂本龍馬のルーツはそこにあるかもしれない。探ってこい。そしたら、その苛立ちも少しはマシになるだろう」
佐那に必要なのは空手の練習ではない。
ランニングすることでも、サンドバッグや巻藁を叩くことでもない。
ゆっくり、ゆっくり、一つずつ、坂本龍馬に砕かれた心をつなぎ合わせていく時間だった。才助もそれをわかっていて、こんな探偵みたいな仕事を命じたのだ。
そして、実際にその河田龍子と出会った。
「悪いね。仕事が終わったから1日中寝てたんだ」
がらんとした居間にあがった佐那の前にやってきたのは、金髪の女だった。
タンクトップにゆるめのショートパンツをはいただけの格好だ。
女性らしい体型だ。胸は豊満で、へそが見えるくらいに裾を釣り上げている。臀部も大きく、尻肉がパンツからはみ出ていた。
だが、それ以上に爽やかさがあった。煽情的な魅力よりも、カラッとした気持ちの良い初夏の風を思わせた。
女はコーヒーを用意した。
「はじめまして。電話口でも名乗ったけど、私が河田龍子だよ。二十三歳、しがない漫画家をやってるよ」
「千葉佐那と申します。確認ですが、海舟という人物に心当たりはありますね」
「ありますあります。曾祖父さんさ。つっても、もう亡くなってるけどね。お察しの通り、空手家だったよ」
女、龍子はスマホを取り出した。
そこに管に繋がれた老人が映っている。かろうじて微笑んでいるが、もう先が長くないということは明白だった。
「こちら、いつぐらいのことなのでしょうか」
「もう二十年くらい前。私もガキだったからあんまり覚えてないよ。空手家だったってのは、あとから聞いた話だ」
佐那はずずっとコーヒーを飲む。
インスタントではなく豆から煎れている。香りが広がっていく。
「あなたの曾祖父さんと理天会館の創始者、土方源三郎との関わりについて、教えて下さい」
龍子は首を左右に振った。
「そんなのわかんないさ。曾祖父さんが空手家で、昔々、決闘もしていたってことだけを聞いた。それ以上のことは謎。そっちの爺さんみたいに有名じゃないし、記録を残してるわけじゃあないからね」
「では、坂本龍馬についてはご存知ですか」
龍子がずずっとコーヒーを飲んだ。
「歴史上の人物のことじゃあないよね」
「もちろんです」
「知ってるよ。あいつに空手を教えたのは私だ」
龍子はゆっくり語りだした。
始まりはおおよそ、十年ほど前のこと。
この田舎町に引っ越してきた家族がいた。
どういう都合なのかはわからない。いまどきそんなことを調べるような物好きもいない。
至って普通の家族だった。
父親は電機メーカーの社員で、母親はパート。
一人息子は中学で一年のころから体操部に入り、優秀な成績を修めていた。
それが坂本龍馬だった。
「私も同じ中学だったけど、このときは接点なかったよ。えっらい顔がいいやつがいるな~って遠くから見てた。何人か告白したけどフラレちゃったってのもいたけど」
河田龍子と坂本龍馬に接点が生まれたのは二人が高校二年生のときだった。
このときすでに龍子は漫画家としてデビューをしていた。
月刊誌の読み切りだったが、読者の反応をもとにブラッシュアップをして連載を狙おうと編集と話し合っていた。
そんなときにふらっとやってきて、龍馬はこう言った。
『空手を教えてほしい』
「どっかで私が空手をやってるのを聞いたか見たらしい。なんでって思ったよ。それまで話したことのない相手だったし、私は漫画に取り掛かっていた。空手教室なんか他にもある。習いたきゃよそいけばいいだろって。でもね、」
「結局、あなたは龍馬に空手を教えたと?」
龍子はどこか恥ずかしそうに微笑んだ。
「あいつ、捨て犬みたいな表情するんだもん。あんな美形がしたら犯罪だっての」
見返りに、漫画の手伝いとちょっとばかしの月謝をもらうこととなった。
教えた内容は基本的な構えや技。
正拳突きやら回し蹴りやら、そういったものだ。
さすがに元体操選手というだけあって、身体の頑強さと柔軟さは抜きん出ていた。組手もやったが、すぐに龍子は敵わなくなってしまった。
それでも一つ、勝てるものがあった。
「あっち向いてビンタ」
じゃんけんして、勝ったほうがビンタをする。
これに耐えられなくなったら負けという一見するととんでもないクソバカゲームだが、件の海舟が考案した真面目な鍛錬法だった。
「このゲームに勝つ方法は、耐えることじゃないの。ダメージを消すことなのよ」
「スリッピングアウェーをしろと?」
「打たれた方向に顔をねじるってやつ? いんや、それは避けてるってことになるじゃない。避けたらダメなのよ。試してみる?」
龍子がコーヒーカップを脇に寄せた。
自分の頬をとんとんと触って、どうぞ叩いてみなさいとアピールする。
若干の躊躇はあったが、佐那は彼女の左頬にビンタをした。
「――――!?」
パンっと大きな音が出たが、佐那はビンタしたあとにくるはずの痺れを全く感じなかった。
人間の頭部という重いものを叩いたはずなのに、重量すら消えているかのようだった。霧を殴ったような気持ち悪さだ。
しかし、初体験ではない。
同じものを彼女は数日前に体験している。
坂本龍馬も『これ』をやっていた。
「教えて下さい。どういう『理』でやっているのですか」
「他流派の秘技を堂々と聞くのかい?」
「聞きます! あの男に、やり返してやらないと気が済まない! 頭だって下げます!」
「なにがあったのよ、あいつと君に。なんかされたの?」
佐那は迷ったが、いいえと首を振った。
「諸事情で私が仕掛け、返り討ちにあっただけです。でも、でも、あの男の私を見る目は……」
路傍の石だった。
龍馬は、足裏で踏みしめてからようやく気づく程度の石を見る目を、向けてきたのだ。当たりどころが悪ければ死にはしなくとも大怪我をしていたはずなのに、ムカついてすらいなかった。
佐那は『空手家』としても『武術家』としても『敵』としても見なされなかった。
それが悔しくて悔しくて、たまらないのだ。
身勝手な言い分だったが、龍子は笑わずにいてくれた。
「あいつ、性根が武術家じゃないからね。そこら辺の機微に疎いんだよ。仕方ないなあ」
「受けてくれるんですか、こんな身勝手なのを……」
「バカ弟子の尻拭いをするのも師匠の努めでしょ。いいよ、教えてあげる。どういう『理』があるのかを」
◯
龍子の家の庭先で稽古をすることになった。
彼女は言った。
重要なのは、柔らかさだと。
「柔軟って意味でもあるけど、それ以上に、緊張しないこと。筋肉を固めないこと。骨で支えないことなのよ」
「それだと立ってられませんけど」
「うん。骨で立っちゃいけない。水で立ちなさい。イメージするのは、水になることよ」
イメージしろなんて、抽象的な指導だ。しかし、武術、武道の世界ではこういうのも当たり前だ。
そもそも空手の発端とされる中国拳法も、基本的な構えをとるときは足の下から杭が伸びているとイメージするのである。
「水……。水、水ね、はい……」
「イメージした?」
「は――――」
はいと返事をする前にビンタが飛んできた。
不意を突かれたがなんとか踏みとどまると――、
「耐えちゃダメよ」
「だ、ダメって……」
庭は芝生でも土でもない。砂利が敷き詰められている。
「イメージを崩さないの。打たれる前も、打たれた瞬間も、そのあとも。転びたくないなら、水になったまま立ってなさい」
「難儀なことを言う」
「龍馬はやったわよ。いいえ、もっと先のことをやってる、でしょ?」
悔しさに唇を噛みしめる。すると、
「力を入れない」
ビンタをされた。
今度は踏みとどまらずに、倒れ込んだ。
すぐに起き上がる。唇を歯で切ってしまったが、拭う時間も惜しかった。
「じゃ、そっちからもどうぞ」
「ムカついてるんで強くやりますよ」
「オッケ~~」
加減せずに佐那は龍子の頬をぶっ叩いた。
感触はぬるっと滑ったようなもので、龍子は上体をわずかに揺らすだけに終わった。
彼女の顔には苦痛がなかった。
演技でもなんでもなく、本当にダメージがないのだろう。
「腹立ちますね」
「水はイライラしないよ」
ほほほと笑った龍子に、またビンタをされた。
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