第2話 可愛く美しく覇気のない――最強

ボクシングが日本に根づいて幾星霜。

多くの世界チャンプが誕生し、もはや日本のお家芸とさえ言われるようになった。

だが、それはあくまで軽量級の話である。

階級が上がれば上がるほど選手層が薄くなっていき、スーパーミドル級(76キロ)から上になると日本人は未だ世界チャンプになっていない。


そこに現れたのが藤堂三郎。

身長193センチという大柄な体格。

80キロを超える体重とは思えない軽やかなステップワーク。

長い腕をムチのようにしならせるパンチ。

デビューから無敗、無被弾のままに勝ち続けていざ日本王者に――、というところで減量に失敗した。


試合には勝利したが、ベルトはもらえずライトヘビー級は空位となった。


どうして失敗したか、ジムの会長兼コーチには看破されていた。


「本気じゃないんだろ」


「だって俺のほうが強いっすからね~」


ふざけたことを言っているが、事実だった。

闘うのが好き。鍛えるのが気持ちいい。

その精神性と肉体の才能もあって、あっという間に強くなりすぎてしまった。


アマチュアでもプロでも、相手になるものがいなかった。

ベルト保持者だろうと、彼は片手間に捻ってしまった。


退屈――。

それが彼の弱点。


そこに『一億デスマッチ』の話がやってきた。


「うちってそんな経営危機だったん?」


「ちゃうわ。あの坂崎って社長から連絡があったんや。ルールはボクシングでいいからってな。正直、断るつもりやったが…………」


会長はため息を一つついて、言った。


「藤堂三郎をボコボコにしてあげるって言われたんや。さて、どないする?」


この口説き文句で三郎は承諾した。


それでも、まだお遊び半分だった。

田舎の高知県を観光するついでに試合をする、そんなつもりだった。

一億なんて大金はもちろん興味を引いた。ボクシングのファイトマネーでいうと世界戦にまでいかないと出てこない。

だが、まさか本当に貰えるとは思っちゃいなかった。破産するからとなんだかんだで値切られるんだろうなと想像していた。


しかし、当日の朝、ドラゴンマンは高知公園でスケッチしてるよなんて耳にしたのでからかってやろうかと思って出かけた。


そこで、予想を超えた大物が現れた。


三郎の腹の深いところに、生まれて初めて火が点いた。


   ◯


県立体育館。

プロレス団体『土佐海援隊』の興行は昼間から開催されている。

高知県なんて辺鄙な田舎だ。プロレスで客を集めるなんてのはひどく無謀なことであるが、観客の入りは悪くない。


客層は、中年層がメイン。

パイプ椅子ではなく、ゴザに座布団を敷いて客席を作っている。

軽食も提供していて、団体スタッフがきびきび動き回っていた。


そうして午後六時、藤堂三郎が先にリングに上がった。


本番の試合同様、マウスピースを装着し、グローブをはめて、ブーツを履く。

ウォームアップも入念にしたおかげで、全身にほんのりと熱が回っている。鍛え抜かれた肉体が滲んだ汗で輝いており、見知らぬ観客たちからも歓声が上がった。


「続きまして、我が土佐海援隊が誇る最高最強プロレスラー、ドラゴンマンの入場です!」


アナウンスのあと、坂本が館内に姿をあらわすと怒号のような歓声が響き渡った。


「ドラゴーン! ドラ、ドラゴーン!」


「りょうちゃーん! りょう、りょうちゃーん!」


主におばちゃん層に大人気だ。

龍馬はペコペコと頭を下げながらリングに向かってくる。

花吹雪が舞い、クラッカーが鳴り、ラッパを吹いている観客もいた。子どもたちが花道に駆け寄っている。


よっこいしょとリングに上ってきた彼に、ついつい三郎は言った。


「狂ったような人気やね」


「全然慣れなくて困ってます」


「迷惑?」


その問いは否定された。


「こんな僕を好きでいてもらえるのは、嬉しいですよ」


「そうかい」


ぽんぽんっとグローブを合わせた後、コーナーに戻った。


社長の坂崎紫蘭が観客に向かってルールを説明する。


「今回の一億デスマッチ、ルールはボクシング。1R3分、12R制、R間の休憩は一分となります」


三郎はそのアナウンスを耳に入れず、まっすぐに向かいのコーナーにいる龍馬を見据えた。

ジャージではなく同じパンツ姿。

グローブを嵌めて、ブーツを履いている。

おかげでその肉体がよく観察できる。


華のある顔立ちや、穏やかな性格とは裏腹に、ギチギチに鍛えた肉体だった。

爪先から頭の天辺まで余分な贅肉はない。可動域を邪魔するようなプロレスラーらしいふっくらとした筋肉もない。

野生の獣のような美しさがある。

闘うために生まれてきたような男だった。


アナウンスが終わり、坂崎が腕を振り上げる。


「ファイッ!」


ゴングと同時に三郎は飛び出した。

発情した猿のように待ちきれず、長い腕を伸ばした左ストレートを放った。


不意打ちのタイミング。

確実に当たる。

そのはずだったが、龍馬はするりと避けてしまう。


(予想外。そして、期待通り)


三郎は更に距離を詰める。

龍馬はコーナーから動けない。

そこにラッシュを叩き込む。

こうなったら避けることはできない。


フック、ボディフック。

ストレート、ボディストレート。

アッパー、ボディアッパー。

様々な打撃をランダムに選んで叩き込む。


観客席から悲鳴が上がるが、ものの十秒も経たずに三郎は恐怖を覚えた。

ガードをされても構わない。

その上からノックアウトしてやる。

そのつもりで拳を振るっているが、すべてが防がれている。


上下左右に打ち分けても、クリーンヒットがない。

磁石が吸い付くように完璧に防がれる。


(こいつは一体なんだ!)


攻め続けているはずの三郎のほうが気圧されてしまった。

いつまでも連打を続けられず、ひゅっと呼吸をするために身を引く。

そのとき、パンッと風船が破裂するような音がして――――、三郎の視界が急に下がってしまった。


あれ?

あれ?

三郎は何が起こったかわからずにぽかんと間抜けな顔をさらしてしまう。

事態に気づいたのは、心配そうに見下ろしている龍馬を見たときだった。


(――――ダウンしてんじゃねーか!)


慌てて飛び上がって両手を広げ、全然平気とアピールする。

レフェリーの紫蘭が近寄ってきて、じっと目を見つめてくる。


「なにが起こったか気づいているか?」


「わかってる。話しかけんな」


「せめてゲームにはしてくれよ? ――――スリップ!」


レフェリーの裁定は、ノーダウン。

三郎は間抜けに転んだだけで、ダメージはないと宣言した。


これに観客はブーイングをするが、紫蘭は聞こえねえなあと耳に手を当てるジェスチャーをするだけだった。


「ファイッ!」


試合再開。

三郎は息を整え、素早いステップワークからジャブを繰り出した。

矢のように鋭いジャブだ。その一発がかすめただけで常人ならノックアウトされてしまう。


紫蘭は盛り上がりのためにスリップなんて裁定を下したんじゃない。

実際にダメージはなかった。

三郎が後ろへ下がろうとした際に軽いジャブが飛んできて、その勢いで尻餅をついてしまっただけなのだ。


故に、その動きに乱れはない。

ないのだが、そんなこととは関係なかった。


龍馬はガードをしない。

両腕をだらりとぶらさげている。

そこから上体をそらすスウェイバック。

体を屈めるダッキング。

首をちょっと傾けるだけ、なんてので打撃を避けていき――ジャブを打ってくる。


腰も入っていない。

速度も乗っていない。

力も入っていない。


だからダメージなんてものもないが、嫌悪感が募る。

人間、肌を触られるだけで嫌なのだ。


第1Rはこれで終わった。


続いて第2R、第3Rも同じ展開だった。


第4R、藤堂はしびれを切らして前に出た。

試合開始でのラッシュまではいかずとも、強いパンチで状況を変えようとした。

しかし、拳を打つ寸前に、みぞおちに龍馬のストレートが飛んできた。


「がっ――、ひゅっ、ひゅっ」


ダウンは免れたが、これで藤堂は進めなくなった。

彼には踏み越えてはいけないラインが見えてしまう。

元々アウトボクシングこそが彼の闘い方ではあったが、あくまでインもアウトもどちらでも選べるという状況あってこそだ。

完全に、詰みに入った。


そのまま、第5、第6Rが終了する。


休憩のさなか、ついに三郎は愚痴をこぼした。


「強いやつと会ってみたかった。にしても、強すぎないか、あれ……」


彼にとって初めての弱音だった。

ガキのころから喧嘩なりなんなりで負けることはあった。

それにしても、ここまでの絶望感を味わったことはない。


だが、セコンドの会長からは思いも寄らないことを聞くことになる。


「ドラゴンマンは強い。むちゃくちゃ強い。認めざるを得ないが、お前も弱いんだよ。弱くなってるぞ、お前」


「…………どういうことやねん」


「本気でやれ。ちゃんと、真面目に、ボクシングをやれ」


言っている意味がわからなかった。

本気? 本気だ。

全力で相手を倒そうとしている。


それが伝わったのか、会長はさらに続けた。


「本気でやるってのは、がむしゃらにやるとか、熱くなるとかじゃない。三郎――、ボクシングをやれ」


第7Rが始まった。

会場は、ドラゴンマンへのコールで満ちている。

状況をコントロールされているのが素人目にもわかるのだ。


三郎は、前に出なかった。

息を整えた。拳を構えず、坂本と同じように両腕をぷらんぷらんとさせた。

酸素を取り込んでいき、ゆっくり、ゆっくりと、頭を冷やしていった。


「そう、そうだったな……」


ボクシングが男二人の殴り合いだった時代は大昔だ。

現代は進歩した。

フットワークを駆使して狭いリングの上を動き回り、的確な一撃を打つ。


「見るのは顔じゃない。全身だ」


じっくりと舐めるように観察する。

爪先から脛、膝、太もも、腹から胸へ、胸から首、首から顔、その双眸。

筋肉の動きや呼吸の流れ、皮膚の渇き具合、産毛のそよぎにまで目を凝らす。


三郎が右に動けば龍馬も右に動く。

その歩幅、歩数。右足と左足、どっちから出すのか。移動中の構えはどうなっているのか。そのすべてを観察する。見逃さない。

動いて動いて動き回り、針の穴よりも細い隙を探り出す。


二分を過ぎたとき、三郎が動いた。

龍馬がストレートを打ってくるが、身体をぐるりと半回転させて避ける。

避けながら、拳を返す。


ストレートとジャブの中間のようなパンチ。

威力は足りない。

ただ、しっかりと龍馬の顔に入った。


すぐに距離を取る。


龍馬は自分の鼻をなでて言った。


「こないの?」


「いかんよ。ボクシングはラッシュするスポーツじゃないからな」


三郎はボクシングを始めたとき、鉄則を教え込まれた。


『蝶のように舞い――』

『蜂のように刺す――』


三郎がゆるりと動いた。

応じ、龍馬もゆるりと動く。


互いに射程圏内に入った瞬間、拳の応酬が始まった。


「ひゅ――――」

「ふっ――――」


呼吸が重なり拳を削り合わせていく。

一方的なゲームにはもうならない。

打って打って、避けて避けて、打たれて打って。


観客の熱は一気に爆発した。

一方的な試合でも龍馬のファンが歓喜していただろう。

しかし、ギリギリの、ワンミスが命取りになるゲームこそが最高のボクシングなのだ。


第7R、終了。


第8Rに入ると、観客の中には三郎へ声援を送るものも出てきた。

強いと、認められたのだ。


だが、ジリ貧だと三郎自身は感じていた。


ダメージの蓄積もあるが、ここまでやってなお、龍馬のほうが強い。

三郎の拳が一発入るまでに、龍馬の拳は三発入ってくる。

軽いパンチに重いパンチを組み合わせてくるので余計に効く。

最終ラウンドにいけば、ずるずると負けてしまうだろう。


第8Rが終わって、会長に助言を求めた。


「どうすれば勝てる……」


「一つ、ここでのみ使えるやつがある。卑怯だが、やるか?」


「やるよ。本気で勝ちたい。初めてそう思えてる」


「なら、待つんだ」


第9R、開始。


三郎はコーナーから出なかった。

ポストに背中をもたれさせて、なにもしなかった。


会場に困惑が広がった。

会長が彼に託した作戦は、裏技だった。

ドラゴンマン・坂本龍馬が所属する『土佐海援隊』の目的は一億を守ることではない。


興行の成功である。


仮に、一億を守りきってもぐだぐだの試合になっては意味がない。

歓喜、熱狂、発情して、また次の試合も見たいと思わせることが狙いなのだ。

そのため、ぬるい試合は厳禁。

判定なんてもってのほか。


なら、どうする。

こうやって三郎が攻めっけを出さずに待ちに徹したら、どうする。


「まいったなあ」


ぼそりと龍馬が呟いて、歩いてきた。

そう、そうするしかない。

自分から前に出て、攻めるしかない。

そこをカウンターで返す、というのが会長の作戦。


だが、さすがにすぐに打ってくるようなことはしなかった。

射程圏内に入ったところで龍馬は足を止める。

すぐには打たない。

じっと見つめてくる。


ならばと三郎はじりじりと足を進ませた。

二人の距離が詰まる。

二人が拳を持ち上げた。


(打ってこい――)


まだ打たない。


(打ってこい――)


龍馬の目が光る。


(打ってこい――)


汗がリングに落ちた。


(――――いまっ)


「ひゅっ」


龍馬の右ストレートが飛んできた。

狙いは顎。

当たればノックアウト。

三郎は、踏み込んだ。

首を捻り、ストレートをかわして左フックを放った。


完璧なカウンター。

入った。

龍馬の頬に三郎のグローブが入った。


そして――――滑った。

骨を砕き、脳を揺らす感触がなかった。

龍馬にヒットした瞬間、三郎の拳がつるんっと滑ったのだ。


(スリッピングアウェー!? ちがう! なんだ、なんだ、なにをされた!)


ボクシングの、いや、ありとあらゆる打撃系の格闘技に存在しない『受け』の技。

三郎のカウンターは効果を消され――――もう一発のストレートが彼の顎を打ち抜いた。


「あっ、がっ……」


ふっと力が抜ける。

三郎は崩れ落ちた。


龍馬が背中を見せて遠ざかり、レフェリーの紫蘭が目の前にやってくる。


「ワーン! ツー! スリー!」


カウントが続く。

三郎は動けなかった。

彼はさきほどの打撃を思い返していた。


(俺は、カウンターを打った)


しかし、ヒットの感触はなかった。

初めて体験する謎の技術で威力を消されてしまった。

驚きの技術。ボクシングにはない技。


――それはいい。


三郎の心を砕いたのは、そのあともらったストレートだった。


(龍馬は俺のカウンターにカウンターを合わせてきた……)


カウンターを決めたら勝利する。

三郎はそこで思考が止まっていた。

逆の立場なら、絶対に避けられないパンチを打つと決め込んでいた。


龍馬はちがった。

龍馬は、さらにその先を見ていた。


(差がでけえな……)


「――――テーン!」


ゴングが鳴り響く。


勝者――ドラゴンマン。


   ◯


翌日、大阪へ帰る前に龍馬が三郎のもとを訪れた。

出発まで時間がある。ホテルのロビーでコーヒーを飲みながら少し話をすることにした。


三郎からも聞きたいことがある。


「お前、ボクシングをどこで習った」


「秘密です。ミステリアスってのが魅力になるらしいんで」


「まともなところで習ってたら、今頃チャンプだろうしな」


独学ではないのは確か。綺麗なボクシングだった。


「まっ、いい。それで、お前さんはなんの用事できたんだ?」


「社長に言われまして。ツーショット撮ってこいって。使うから」


思わず三郎は顔をしかめた。


「対戦ありがとうございましたってか。嫌なやつ」


「断られたら、ノックアウトの写真を使うってことですけど」


「本当に嫌なやつ! あの社長、ろくでもないぞ!」


完敗した瞬間を使われるなんてたまったもんじゃない。

しぶしぶながら三郎は写真を許可した。会長には話も通っているだろう。


撮影をすぐに終える。

このまますんなりと別れてもよかったが、三郎は言っておきたいことがあった。


「坂本竜馬、次は、ベルトを獲ったときな」


「……日本ですか? 世界ですか?」


「もちろん後者だ」


「待ってますよ。じゃ、ありがとうございました」


この宣言から半年後――。

藤堂三郎はライトヘビー級の日本チャンプとなる。

3R、TKOの完勝だった。

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