第2話 プロローグをあなたへ
南中した太陽の光が、開けているとも閉めているともいえないカーテンの隙間から入り込み、涙の流れた跡の残る頬を刺した。
俺は寝返りを打ってうつ伏せになり、唯一の安息の地ともいえる夢の世界にもう一度潜り込もうと試みたが、覚醒と同時に蘇ってきた不安、焦燥、恐怖、劣等感、悔しさ、怒り、悲しみ——そういったものを全てまるっと内包したもの、つまりは絶望がそれを許してはくれなかった。
仕方なく起き上がると、手の中にある紙切れを広げて、昨夜見たそれにもう一度目を通した。
握り締めたまま眠ってしまったのだろう、手の中のそれはぐちゃぐちゃに皺が寄り、ところどころ破れていた。
昨夜見たそれは、錯乱した精神状態が見せた幻覚だったのかもしれない。いや、そうであってほしい。
そんな期待を込めて内容を読み返してみたが、昨日何度も何度も目を通した文面と一字一句違ってはいなかった。
再び溢れ出しそうになる涙をどうにか鼻水に変えて、死の宣告にも等しいその通知書で盛大に鼻をかみ、覚束ない足取りで洗面所へと向かった。
洗面所の鏡には、ボサボサの髪に無精髭、ヨレヨレのシャツにくたびれたジーンズの男が写っていた。
瞼は腫れぼったく、その中に落ち窪む瞳は充血して濁っている。頬には垂れ流した涙と鼻水と涎の跡がくっきりと残っており、俺が笑顔を作ると、それに合わせて、鏡の中の男も歪に顔の形を崩した。
「これはもう駄目かもわからんね」
鏡に映るあまりにも惨めな姿をした男に、俺はそう悪態をついて、鼻水まみれになった紙切れに再び目を落とした。
多分、いや、確実に、昨日は俺史上最悪の一日だった——
⚫︎
ズッコーン!
とは、親友が女性に想いを告げるも敢え無くフラれた際の友人側の心情を現した擬音語である。
そういう意味では使い所を間違っているのかもしれないが、そのときの俺の背後では、いもしない仮想親友たちが、衝撃をもってその言葉を叫んでいた。
「小田先輩が付き合ってくれって」
幼稚園来の幼馴染たる
「ねえ、どうしたらいいと思う?」
由花のその問いかけに、俺は間髪入れずに叫んだ。
「自分のことは自分で決めろよ!」
なぜだか俺は怒っていた。
それは、大切な決断を俺に委ねようとする由花に対してだったかもしれないし、小田先輩のイケメンスマイルに対してだったかもしれないし、あるいは、「ズッコーン!」と喧しく騒ぐ仮想親友に対してだったかもしれない。
もしかしたらそれは、そんな態度しかとれない俺自身への怒りだったのかもしれない。
いずれにせよ、すべてのケチのつき始めがこれだったのは間違いがない。
その場から逃げ出すように一目散に自宅まで走る。
その道中では、カラスには威嚇されるし、黒猫には無視されるし、信号はことごとく赤だし、終いには雨まで降り出し、不吉と不幸の天丼で散々な目にあったわけだが、そんなことはどうでもいい。いや、良くはないけど、もういい。
地獄に片足を突っ込んだかのような気分だった俺の背中を最後に思いっきり押したのは、この次に待っていた出来事だったのだから。
自宅に届いていた一通の手紙。
濡れた手のまま乱雑に封を開け、そこに入っていた一枚の書面に目を落とす。
「これはもう駄目かもわからんね」
乾いた笑いとともに、涙がこぼれた。
昨今の経済状況の急速な悪化が云々……
事業縮小に伴う採用活動の見直しが云々……
弊社としましても苦渋の決断でしたが云々……
涙で霞んで、うまく文字を読み取れない。それでも——
『内定取消のお知らせ』
その文字だけは、はっきりと脳に焼き付いたのだった。
そして冒頭に戻るのである。
⚫︎
さて、主観的には絶望的と思えるような物事も、客観的に見れば、そう大した問題ではないということは往々にしてよくあることだ。
この『客観的視点』というのは、俺がこれまでの大学生活で培ってきた武器の一つで、就活の面接時にもそうアピールした。
その『客観的視点』でもって今回の事象を改めて見てみるに、状況は最悪。端的に表すなら『絶望』の二文字だ。
ふむ。完璧だ。安心したぜ、俺の武器まで錆び付いてはいなかったようだ。
改めて絶望的状況を再確認したのと同時に、スマートフォンがけたたましくアラームを鳴らし、それに少し遅れて俺の腹の虫が鳴いた。
いかに絶望の中にあれど、今日も今日とて飯を食わねばならず、明日も明日とて生きていかなければならない。
「バイト、サボりてえなあ……」
ほんの一瞬そんな考えがよぎり、実際に声にも出てしまったが、俺はすぐに頭を振った。
「俺が行かないと、ばあちゃん一人じゃあの店回らないしな……」
それにここでバイト先とバイト代まで失うと今度こそ本当に『暗井明(くらいあきら)終了のお知らせ』が届きかねない。
「仕方がないか……」
心も頭も全く晴れていないが、仕方ない。
とりあえず今日だけ、今日一日だけ頑張ろう。先のことはまた後で考えればいい。
そう心に決めて、着替えだけ済ませてから、玄関へと向かう。
「さて、行きますか!」
小さな決意を呟いて、俺はドアノブに手をかけた。
そして——
玄関の重い扉を開けると砂漠であった。
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