元禄三(1690)年 とある武家の話

 俺の伴侶は、お妙という女は狂っていた。

 深井藤左衛門様の息女である妙は、礼節をわきまえ教養深く、いかにも武家の出らしい凛とした女子おなごだ。ただ、仏道をいたく信仰していた。元より深井家自体が、祐天ゆうてんなどという胡散臭い僧の信奉者であったから、お妙もまた幼き頃より念仏を信じ、“祐天上人からたまわりし六字ろくじ名号みょうごう”を肌身離さず尊び崇めていたという。

 齢十九で俺のもとに嫁いできた後も彼女は変わらない。大した信仰心を持ち合わせていない俺にとって、それは異質なものとして映った。


 ある時、お妙は侍女の死をいたみ熱心に念仏をとなえていた。

 お妙が幼少の頃より長年仕えていたという老齢の侍女だ。あるいは母のように慕っていたのだろう。お妙の深い悲しみは計り知れない。しかし彼女の声は涙で揺らぐことなく、朗々と辺りに満ちる。冥福の祈りは澄んだ水面みなもの如く、細波の一つも立つことはない。それでいて、遥か彼方よりの不可思議な波紋が伝わりくるような錯覚を覚えた。

 お妙は静かに、しかし鬼気迫る様子で念仏を称え続ける。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――」

 俺はその浮世離れした光景に、ぞっとするような思いがした。気付けば声を荒げていた。

「お妙、お妙……!」

 振り向いたお妙の両眼は、俺のことなど映してはいなかった。ここではないどこかを、ともすると浄土を見通していたのやもしれぬ。かと思えば、柔和な笑みを浮かべ、俗世のたおやかな婦女として振舞う。

「旦那さま。どうかなさいましたか?」

 目の前にいる彼女は、確かにこの世に存在しているはずだ。それなのに、何か繋ぎとめておくものが無ければ今すぐにでも御仏の座す場所へ逝ってしまうのではないか、と。俺はどうしようもない不安に駆られる。

 不安を払拭すべく、俺は彼女の両の手を包みこんだ。彼女が現世に存在している証左であるぬくもりを感じて、心の底から安堵する。そうして、このまま俺とこの世に居てほしいという願いを込めて、ほんの少し包みこむ手に力を入れる。

 彼女は相も変わらず慈悲深い笑みをたたえているだけだ。



 お妙が嫁いでより七年、俺たちは子を授かった。が、時を同じくして彼女は病に伏す。

 医薬を尽くし看病をしても一向に回復せず、日に日にやつれゆくお妙に、俺は焦らずにはいられない。焦燥に駆られる俺と、病床にありながらいまだ見ぬ我が子を慈しむお妙。俺は、次第に膨らむはらを見て、お妙の命が吸い取られていくような気さえした。


 臨月うみづきに及び、いよいよお妙の命の灯火は消えようとしていた。

 肌寒い八月の夜、の刻に差し掛かろうかという頃、俺はお妙の手を握りしめすがった。ふくらとした健康的な肌も、桜貝のような爪も、今や見る影もない。青白く骨ばった手が嫌でも死を意識させる。今さら俺に出来ることなど無いのかもしれない。しかし、それでも、どうにかしてお妙をこの世に繋ぎとめたかった。

「旦那さま、そんなお顔をしないでくださいませ。きっと健やかなお世継ぎを産んでみせましょう」

「違う……、違うのだ……。俺はお前のことが……」

 目の奥が痛み、声が喉に貼りつく。言葉をつかえさせる俺に、お妙はいつものように柔らかい笑みを浮かべた。

「それならば、なおさら心配することはございません。いったい何を怖がることがありましょう。死はむしろ、仏さまの救いなのです」

 死が怖くないはずないだろう。生きたいに決まっている。救いを求めるというのならば、今すぐに救われるべきだ。頼む。逝かないでくれ。愛する女を失うくらいなら跡目など要らぬ。父祖からの叱責は甘んじて受けよう。例え俺が末代になろうとも、お前と添い遂げたい。末永く共にりたいのだ。

 俺の言葉は何ひとつ外に出ることなく、俺の中でぐるぐると渦巻いている。

「例えわたしが死したとしても、はらの子はきっと生きぬくことでしょう。葬式を猶予してくださいませんか。どうか、一日だけでもお待ちいただきたいのです」

 そう言い残すとお妙は俺の手を離し、念仏をとなえ、称え続けて――合掌したまま息絶えた。


 俺は仏道というものに対して酷く失望した。元より信じてなどいなかったが、最期まで信じていたのだ。それを、どうして救ってやらない。女子一人をも救えず何が仏だ、念仏だ。

 お妙よ、お妙。どれだけ祈りを捧げようとも、その六文字はお前のことを、俺たちのことを救ってはくれないではないか。

 俺は、安らかな顔で眠るお妙に縋りついて泣いた。心の在り処がわかるほどに泣いた。


 いつまでそうしていただろう。障子越しに暁の光を感じる頃、赤子の泣き声が響き渡る。

 ――産まれた、産まれ落ちたのだ! お妙がその命と引きかえに産んだ子だ!

 これが御仏の奇蹟きせきだとでも言うのか。妻の命も、俺の心も、救ってはくれなかったというのに、我が子を慈しむ母の願いだけは叶える仏のなんと身勝手なことか。狂的に仏道を信じ続けた一人の女の結末が、俺の目前に広がっている。俺はこのやり場のない悲嘆をどうすればいい。

 俺はお妙の忘れ形見を、そっと抱き上げる。愛しい女が命懸けでのこした子を無碍むげに扱うことが、どうしてできようか。

 やわらかで、頼りなく、弱々しい、今にも吹き消えてしまいそうな灯火だ。しかし、確かに燃えている。火がついたように泣く赤子が、何かを探すように手を彷徨さまよわせ、やがて俺の指を握りしめた。紅葉のように赤々とした手がぬくもりを伝える。俺が求めてやまない安寧と同じ熱だ。

 せめて、せめてお前だけは俺を置いて逝ってくれるな。





参考:『祐天ゆうてん大僧正だいそうじょう利益記りやくき

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