黒い猛獣に襲われる亭主の話

「諸君、猫は猛獣である」と記した文豪は誰であったか。猫ではなく犬だったかもしれないが、今そこは問題ではない。危機は目前に迫っている。

 あの猫の鋭い牙を、隠した爪を、見るがよい。少しの油断もあってはならぬ。いつなんどき怒り狂い本性を暴露するかわかったものではない。飼い主でさえ噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を、放し飼いにしてウロウロ徘徊させておくとは、いったいどういう了見か。

 僕は今、まさに黒い猛獣に襲われようとしている。何故このような危機に瀕しているのか。それは数分前にさかのぼる。


 帰宅すると見慣れぬ荷物が増えていた。いくつかのダンボール箱、荒い砂粒の入ったプラスチックの桶、高坏たかつきのような食器、麻縄を巻いた棒。そして笑顔の妻の、その手元にはペット用のキャリーバッグがある。ペット用のキャリーバッグ……? そこからナオナオと何とも言いがたい鳴き声が聞こえてきた。

 それは何だい、と問う前に妻がバッグを開けた。途端、真っ黒い猛獣がよちよちと飛び出してきたではないか! そして僕に襲い掛かる! 恐怖でおののき思わず後退りするが、なおも獣は追いすがる。

「妹が入院することになってしまって。しばらく預かることにしたの」

 僕は必死になってローテーブルの周りをぐるぐると歩き逃げまわる。足を止めることなく妻の言葉に耳を傾けた。

「あなたも動物好きでしょう? 仲良くしてね」

「僕が好きなのは犬だ。賢く、忠義にあつい、人間の最高のパートナーたる犬だ! こんな意味不明な毛玉ではない」

「まあ、毛玉だなんて。猫も可愛いじゃない。名前はクロマメよ、クロマメちゃん」

 なにが黒豆だ。真っ黒な毛に覆われた獣は、目だけをギラギラと金色に輝かせている。足音ひとつ立てずトコトコと歩くさまは、まるで狩人のようだ。

「待て。待て、と言っているのがわからないのか。その場で待機だ。動くな、ステイ」

「きっとクロマメちゃんもわかるのね、あなたが優しい人だって」

「優しくなんてあるものか。ろくに命令も聞けない獣だ、気まぐれで、何をしでかすかわからない爆弾だ。犬のように利口でない、人間のパートナーにはなれない」

「そうね。だって人間は皆、猫ちゃんの下僕だもの」

 楽しそうに微笑む妻の言葉に絶句した。なんだそれは。まったく意味がわからない。もう手遅れだ。完全に篭絡ろうらくされている。

 思考している間も足は止めない。逃げる、追う、逃げる、追う。刹那が一生に感じられるほどに逃亡を続け、ほとほと困り果てた。

「……ああ、やめろ。もうやめてくれ。僕はお前の友人でなければ親でもないよ。ごはんも持っていない。もちろん僕を食べても美味しくはない。追いかけたって何も良いことは無いんだ」

 言葉の通じぬ畜生に向かって必死の弁明を続ける。なんて情けないのだろう。妻は微笑むばかりで助けてはくれず、スマホのカメラをこちらに向ける始末。さては楽しんでいるな。獣に追われ無様に逃げる僕を見て楽しんでいるな!? 写真なり動画なりを義妹にシェアして、話に花でも咲かせるのだろう。まったく悪趣味である。


 そうして今に至る。

 諸君、猫は猛獣である。世の多くの飼い主はみずから恐ろしき猛獣を養い、この猛獣に心をゆるし、クロやミケやなどと気楽に呼んで、さながら家族の一員のごとく身辺に近づかしめる。狂気の沙汰である。不意にミャオといって喰いついたら、どうする気だろう。

 妻も義妹もこの恐ろしい猛獣に征服され尽くし、骨抜きにされてしまったのだ。この猛獣が本性を暴露するはずがないと、あるいは恐ろしい本性など存在しないと油断しきっている。

 やがてローテブルを囲んだ攻防にも、決着するときがきた。

 とうとう僕は力尽き、仰向けに寝そべった。獰猛な獣は僕の胸部にのしかかり、ゴロゴロと寝返りを打つ。遠慮なく頭や頬ををこすりつける。あっという間に服が毛だらけになった。どうしてくれるんだ。あまつさえ、ぷぅぷぅとマヌケな寝息をたてはじめたではないか! あれだけ好き放題に暴れておいて最後にはそれか。最早どうでもよくなった僕は、温かさを感じながら夢の世界へ旅立った。

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