明治三十五(1902)年 とある病夫の話

 やまいとはヒマである。

 布団に寝そべり見飽きた天井を眺める。木目が連なるのを見て、あれは馬に似ている、あれは松の木だ、握り飯だ、などと考えるのはとうの昔に止めた。何とはなしに鴨居に目をやるが、そこに変化などあるはずもなく。開け放たれた障子の外では憎たらしいほどに晴れた夏空が広がっていた。まっ白な雲のなんと健康的なことだろう。そこに燕の一匹でも横切れば多少の楽しみもあるが、滅多に通ることはない。青く澄んだ晴天は痛みをまぎらわすには退屈すぎる。

 それでも調子の良いときは本に親しみ、文筆家の真似事をしていた。生きた証を刻みつけるように、俺自身の脳髄を叩きつけるように、筆を走らせた。書かずにはいられない衝動が俺を突き動かし操る。もっとも、起き上がることすら難しい今となってはその気力も消え失せてしまった。何も成せず、何者にもなれぬまま、死ぬまでの暇つぶしにすぎない日々が無情に過ぎ去る。

 無情な時間は、俺だけに訪れるのではない。

 風一つ吹かないだるような夏の日。布団の傍らに座りうちわで仰ぎ続ける女房のなんとあわれなことか。ただ静かに、仏のような面持ちで佇んでいる。俺を気遣い隣室で針仕事を進めることもある。そして「水を飲みませぬか」「粥を食べませぬか」と甲斐甲斐しく面倒をみては、せわしなく家政に勤しむ。こんなことをするために生まれてきたわけでもないだろうに。病人の世話に明け暮れ無為な毎日を過ごして何になる。

 これは愛ではない。慈悲だ。抜苦ばっく与楽よらくを体現したこの女は見返りを求めることもなく、ただ目の前の苦しみが取り除かれるべきであると願っている。例えば、とこに伏せるのが俺ではなく彼女の老いた父母だとしても、幼い我が子だとしても、そして兄妹きょうだい知己ちきであっても慈しむだろう。あるいは彼女が男に生まれていたとしても、今より幼くとも老いても、変わらず慈悲深いだろう。そういうひとだ。心の芯に刻まれた性質なのだ。

 それが心地良くもあり、心苦しくもあった。

 彼女は一人でも生きてゆける。俺以外の誰かと寄り添い、対等な関係を築き幸福な人生を歩むこともできる。しかし、かといって、俺に自ら命を絶つ勇気はなく、この世とこの身体に執着し生きながらえている。およそ慈悲とはかけ離れた存在だ。執着は苦しみを産む。

 天命を迎えるその日まで無意味な暇つぶしは続く。病巣の痛みと薬剤の苦味だけが俺に“セイ”を実感させた。いかにも卑俗な生命いのちだ。

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