大正十一(1922)年 とある女学生の話

 私には、どうにも愛欲というものが気色悪く感じられて仕方がないのです。

 洋子さんのことは勿論、これ以上ないくらい愛しております。肩を並べて雑誌を読み、お揃いのハンケチーフを懐に忍ばせ、二人だけのささやかな秘密を共有する。すると私の心は麗らかな春の日のように凪ぎ、ずっとこの暖かさに浸っていたいと思うのです。心地良さに身を任せ過ごす日々はたまらなく甘美でありました。他の誰でもない、洋子さんは、私にとって特別な御人なのです。

 けれども、睦み合うとなると途端に拒む気持ちが湧きい出てしまうのです。何故、唇と唇で、肌と肌で、触れ合わねばならないのでしょう。そうでなくては愛し合っているとは言えないのでしょうか。私が洋子さんを愛おしく思うこの気持ちは、偽りなのでしょうか。青春期における気の迷い、女生徒同士の戯れに興じているだけだと断じられてしまうのでしょうか。

 私もいずれは学校を卒業し、顔も知らぬ殿方の元へ嫁がなければなりません。元より良妻賢母になるべく教育を施されてきたのですから。そうして産めよ増やせよの号令の元、一人でも多くの壮健な日本臣民を産み育てることに勤しまねばならないのでしょう。しかし、そこに付随する行為には反吐へどが出るような思いがするのです。

 兄のように慕っていた隣人に迫られたときも、ひとけのない教室で先生に手を握られたときも、私は心の底から絶望いたしました。獲物を狙うようなぎらぎらとした目に貫かれる不快感を誰が喜びましょうか。目の前にいる私ではなく己の欲ばかり瞳に宿す獣を、私に害を為そうとする醜き獣を、受け入れることなど到底できないのです。

 いいえ。私がそのような不幸に襲われなかったとしても、きっと、この嫌悪は内から自然と湧きい出てたことでしょう。さがとでも言いましょうか。私は産まれながらに、そのように運命付けられていたのです。そうに違いありません。

 この先の私の人生に於いて、この極めて原始的で生物的な行為に身を投じるくらいなら、いっそのこと奈落にでも身を投げてしまいたいとさえ思うのです。接吻をしたいとねだる洋子さんからも逃げ出したくなってしまうのです。こんなに悲しいことがありましょうか。私たちは互いに恋しく、愛おしく、想い合っているというのに。洋子さんの御心はきっと清らかで、私を傷つけるものではないはずなのに。それに応えられない私をどうかおゆるしください。

 触れ合うことで愛を育み、幸せになる御方も大いにいらっしゃることは紛れもない事実なのでしょう。私に頬を寄せる洋子さんの喜色に満ちたお顔を見ているとそう思えるのです。先に学び舎を去られたお姉さま方も、夫君の隣で微笑んでおられるのです。

 私は婦徳の欠落した女なのでしょうか。けれども、家庭に入らずとも、愛欲をいだかずとも、ただ私として生きていたいのです。選ぶべくもなく道を進まされるというのは、あまりにも悲しいことではありませんか。私は、私が幸せになれる道を選びたいのです。それが叶わぬのならば今生に期待することなど何一つとしてございません。遠き未来では、私のような存在も幸せに暮らしてゆければ良いと切に願っております。

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