文久二(1862)年 とある絵師の話
「おまえは李白にでもなるつもりかい」
男は部屋を訪れるなりそう言い放つと、そのあたりに広がる画材の合間に遠慮なく腰を降ろした。藤鼠の袴に紺の羽織という
部屋の主である祐之丞は、藪から棒に何を言うのだと片目を
「以前、
「そうかい。見ての通り俺はこの絵の仕上げで忙しいんだ。お前も暇ではないのだろう」
「まあ聞け。波に月は、名作だとおれは思うよ」
群青の空に浮かぶ明けの三日月。月からあふれる
などと、柄にもなく言葉を尽くして褒めそやす男を見て、なにかよくないものでも食ったかと祐之丞は内心わずかばかり心配になる。
「画狂で酒好きのおまえのことだ。李白のごとく舟遊びにでも興じるのかと思ったわ」
男はそのまま、「どうせ毎夜、自分で描いた絵を見ながら酒をちびりちびりと呑んでいたのだろう」と言葉を続ける。図星を突かれた裕之丞は、バツが悪そうに目を逸らした。そうして心配などして損をしたとでも言いたげな態度で、耳だけを傾ける。
「ああ、一応弁明しておくが、若いころの作品も勿論好きだ。特に牡丹を描いたのが良い。おれは
調子よく、「見回り役に絵師に、さらに紙
「それから、孔雀も見事なものだ。特に雄の尾羽根。金泥と群青とで描かれたあの目玉のような模様には感心したね」
「あれは尾羽根じゃない。腰から生えている
あるときは市井の小鳥屋へ出向き観察、あるときは迷い鳥を見物し写生。熱心な研究と優れた観察眼に裏打ちされた絵師は、訂正の言葉をかけずにはいられなかった。が、目の前の男は残念ながら聞く耳を持ち合わせていなかったようだ。
「見入っていたら魅入られたんだ。絵から尾羽根が浮かび上がって、あの繊細な羽根先でそよそよと頬を撫でられるような心地がしたよ」
「今日は嫌に褒めるじゃあないか」
祐之丞とて褒められて嫌な気持ちはしない。ゆるむ口元を誤魔化すために長い溜息をつく。それから照れ隠しでもするように白髪混じりの髪を撫でつけた。
「言えるうちに言っておかねばと思ってな。国元に戻ることと相成った。なに寂しがることはない。世の中も何やら騒がしいが、国元での諸事が落ち着けばまたこちらに戻れよう」
「男同士五十路にもなって寂しいもなにもあるか。息災でな」
簡素な別れを告げ、知己は部屋を後にした。あとは祐之丞ひとり、再びひたすらに絵へと向かう。
◇
小田原藩士で絵師の岡本
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