一途な編集者と猫好きな作家の話
障子戸を開けた直後、僕の目に飛びこんできたのは倒れた先生の姿だった。
着物姿の初老男性が部屋の中央で、深緑の大きなクッションに背中から沈んでいる。畳敷きの部屋に血痕は残されておらず、調度品の乱れも見受けられない。ロマンスグレーの髪は重力に従い流れ、二つの眼は安寧に閉じられたままだ。無造作に投げ出されたスマホは、メッセージの受信を訴える光の明滅を繰り返している。僕が幾度となく原稿の進捗を問うたものだろう。先生はそれを読むことなく、こうして倒れてしまったのだ。
いつの間に部屋に来ていたのだろうか。先生の愛猫であるミケが、だらんと力無く投げ出された腕にすり寄る。薄い耳が折れ曲がることも気に留めず頭を押しつける。そして催促するかのように、ミャアとひと声鳴くのだ。
そのとき先生の手が――、猫の額を撫でた。
「先生、仕事してください」
「……私は君に、常々説いていたね。人間には越えてはならない一線があると……」
先生は寝起きの掠れた声を絞りだす。まるでそれが、きわめて深刻であるかのように。
「一線を越えてしまった結果がこのザマさ……。さぁ、存分に笑ってくれたまえよ……」
「笑わないので原稿に向き合ってもらえますか」
重力のかかるまま大きなクッションに
「もう駄目だ……、人間の形を保てない……」
「大丈夫です。先生はちゃんと人間ですから仕事してください」
それでもなお、すやりと目を閉じる先生に対して、僕は最終手段にでた。
「ミケちゃんのごはん代、稼がなくていいんですか」
愛猫の名を出すとさすがに効いたようで、先生は緩慢な動作で起き上がる。が、少し間を置いて、再び、今度は顔面からクッションに突っ込んだ。
「顔でも洗ってきてください。それから眠気覚ましに飲み物でもお持ちしましょうか」
「ああ、とっておきのアフタヌーンティーを頼むよ」
先生はそう言い残すと、のそりゆらりと、今度こそ本当に起きて洗面所へ向かった。僕はその背中に「まだ午前中です。寝すぎて時間の感覚バグったんですか」という言葉を投げたが、聞こえているのだろうか。ミケすら僕に構わず、尻尾をピンと立てて先生の後を追いかけて行った。
渋い
ミルクティーを持つ僕を出迎えたのは、八畳の静かな書斎、窓辺に活けられた牡丹の花、古びた文机、文豪然とした初老の男性、その膝でまどろむ三毛猫。
先生は、丸眼鏡をかけてラップトップに向き合っていた。視力両目一・五だろうがよ。何でも形から入るタイプかよ。でも執筆スタイルは文明の利器なんだよな。しかもシャンパンゴールドの妙に洒落たラップトップ。そこは原稿用紙に万年筆だろうが。
見慣れた光景に改めて内心ツッコミを入れつつ、文机にそっとミルクティーを置く。
「君もよく来るよね。今時、やり取りなんてオンラインでいいのに」
「直接、受け取りたいので」
先生は自我を失った紅茶に口をつけながら、「ふぅん」と適当に僕の言葉を流した。
この絶妙にムカつく文筆家を前にして、僕は甲斐甲斐しく世話を焼き、辛抱強く原稿を待つほかない。だって僕は、この人の書く物語を心から愛してしまっているから。
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