ふうりん
キャニオン
ふうりん
大学三年生の夏、大好きな彼氏に振られた。
彼との出会いは大学のテニスサークル。だいたい一か月くらい、テニスをして、夕食を共にして、他愛の無い話をして、二人とも、なんとなく両想いな気がして、彼から告白してきた。それから二年とちょっとの間、恋人として色々なことをした。デートも沢山したし、二人きりで飲みにいって、そのまま彼の家に泊まって、体を寄せ合わせたりもした。
多分この人と結婚するんだろうなって、私は思っていたし、彼もそうだと信じてた。でも、全部、私の独り相撲だったみたいだ。
「悪いけど、あんまり楽しくなかったから」
酷い話で、私自身がどんなに幸福だろうと、彼には届かなかったらしい。私が勝手に共有していたつもりで、そこには、地上と深海ほどの長い長い距離があった。デート帰り、日も落ち切った午後八時くらいに、東京湾と都市灯りに挟まれた海浜公園で、無機質な言葉が放たれて、そう、思い知らされた。
彼は言葉を捨て置いて、すぐに帰ってしまう。私の驚いた顔なんて、これっぽっちも見てない。その後に悲しんだとか、動揺したとか、涙を流したとか、全然、気づこうとすらしない。帰るっていうのは、そういう事。
私の心は、寂しさでどうにかなりそうだった。こんなに心臓が揺れているのに、こんなに息を荒くしているのに、こんなに泣いているのに、苦しい胸は、苦しさを増すだけで、一向に救われない。酷くちくちくした真っ青な針が、胸の奥底で暴れ回り、吐くたび吸い込む空気でさえ、淀み始める。
なんで、どうして、これからずっと、本当の意味でずっと、人生を共にするつもりだったのに。なんで、突然そんなこと言うの?なんで、二年間も付き合ったの?なんで、そんな私に告白したの?なんで、なんで……
そう、口から洩れてしまった瞬間。
ちりんちりん。
よく、聞き覚えのある音がした。それは、聴覚という次元ではなく、体全体で、血液中の何かがそう音を発したように、その音の波が、つむじから足先まで振動するように、きこえた。
そして、私は、無になる。
心の中でうごめいていたものがすぅーっと抜け、一緒に大切なものもそうじゃないものも関係なしに、無差別に抜けていく。残された私の身は、脳みそのついた肉塊であった。
特に何かを考える事をせず、普通に、スマートフォンの写真フォルダから、数百枚の写真を削除した。それらは『
真っ暗闇の東京湾からさざ波の音がして、少し気持ちがいい。白とか赤とか緑とかにぼやぼや光っている東京の光も、やけに遠くから響く車の音も、アスファルトの硬い匂いも、なんとなく心地が良くて、一人の自分が、楽しくなってくる。そんな小さな喜びが、その時の私に芽生えた、最初の花だった。
それからというもの、彼とは普通に話す。テニスもするし、夕ご飯を食べたり、彼の家に泊まったりもする。体を寄せ合って、快感だけを得ることもある。
でも、当然のことだが、彼の写真が、零から一になることは無かった。
***
私は、大学三年生、二十一歳という年齢になって初めて、ふうりんを
小学四年生の夏休み。おばあちゃんの家は異常に暑かった。やけに湿度が高くて気持ち悪いし、クーラーなんてないから、扇風機を回すしかなくて、でも所詮は人工的な風でしかなく、大して涼しくない始末。
さらには、母と喧嘩をしていた。おかげで気持ちまで蒸し暑かったのだ。それは、記憶に残らないほど些細で、しょうもない、子供の喧嘩だったに違いないのだが、当時の私には耐えがたい苦痛であった。幼子にとって母とは、絶対的な存在であり、この世の全てであり、心の安全基地である。それが、一時的とは言えども失われているのだから、その時の感情は、今でも鮮明に思い出せるほどだ。
不安感がずっしりとのしかかり、暴れ、騒ぎ、喚きたい衝動に駆られ、でも、行動する気力が起きない。そんな監獄の中で、一人佇んでいる。どうしようもなくて、畳み部屋に寝そべり、庭越しの山を眺め、文字通り五月蠅いセミの音を聞いて、あつい、あつい、と唸り声を上げていた。そうやって、無意味に時間ばかりを浪費していく内に、何もかも上手くいく気がした。いや、そうでないと困ると、祈っていた。
しかし、現実というものは無情で、何時間、ドロドロとした汗水が頬を舐めようとも、何一つ変わらないのだ。ただただ、私の中に焦燥感が湧き出るばかりで、依然として気持ちの悪い蒸し暑さが、私を唸らせている。
そうしているうちに、ふと、風が吹き抜けた。
ちりんちりん。
正真正銘、天然の風だった。庭から、ひいては山から、さらりと吹き抜ける風は、ふうりんを揺らしてから、私の肌を優しくなぞっていく。産毛がなびいて、鼓膜がゆっくり振動して、全身が浮き立ち、空をふわふわ舞っている気分だった。
風がやんで、音がやんで、それでも私には、涼しさが残っている。まだ、私は、ひんやりとした薄水色の空気に包まれている。あまりに気持ちのいいもので、そのまま、そっと目を閉じてしまった。
夜ご飯だよ、と起こしに来た母は、今に思えば心配そうな顔だったのだが、その時の私は何を気にすることも無く、ごくごく普通に母と接した。喧嘩をしたことも、不愉快な暑さも、なにもかも、流れ、飛ばされていた。
***
十年越しに訪れたおばあちゃんの家に、ふうりんはなかった。にも関わらず、そこには、確かにふうりんがあった。窓の隅に小さく吊るされた、綺麗な曲線を描くガラス細工が、差し込む日差しを虹色に反射して、ぴかぴか光っている様が、私には、鮮明に見ることができた。それでもやはり、そこにふうりんはないのだ。
言葉にすれば二律背反なこの事象に、もし、彼と別れる前の私であったら、異様な混乱が喉元でつっかえたまま、苦しんでいたに違いないだろう。でも、今の私は、一切の苦しみを感じることなく、すっきりと、ふうりんを眺めていた。それほどまでに、ふうりんの存在が、自分の中で、解決していた。
きっと、ふうりんの音は、私を、少しだけ大人にしたのでしょう。
そう、自分に言ってやった。
ふうりん キャニオン @harup39
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