第9話「上手の位」


親分さんの手下の猫たちが背負っている老猫が、どうやらネズミ退治の名人らしい。


黒丸が手下の一人に尋ねる。

「なあ、アレかい?名人ってのは?」


「へい、ここから六七町先に住んでおられる無類逸物と呼ばれていた老猫でさあ」


「ほう…あのお方が」


見ると名人猫は、たしかに立派な筋骨をした大猫である。昔はさぞや強かっただろう。

だが普段着と思われるヨレヨレの着流しに短い杖を着き、刀も差していない。

少し背中が丸まった姿は……どう見ても現役の武芸者とは思えない。

「ロクに稽古もしていないのではないか?」と言っていた虎之助の言葉が頭をよぎる。


「なんでえ、ちっとも強そうに見えねぇな」

相変わらず黒丸はストレートに言って

くる。


「であるな」虎之助も相槌をうつ。


「いや、失礼ですよ皆さん」


「じゃあ先生よ、アレのどのへんが強いんでぇ?」


「さあ、それは私にも…」


じっさいの強さとは、お互いに剣を交えてみない事には分からないものだ。

いや、剣を交えても分からないものなのだ。


この様な話がある。

 勝海舟の師匠である島田寅之助は、若いころ、日本一と言われる剣豪男谷精一郎に試合を挑んだ。

 男谷から三本勝負のうち一本を取る事ができた。

日本一の剣豪から一本取れたわけである。

勝負では負けているのであるが、本人は一本取れたことで勝った気になってしまったのだろうか、寅之助は意気揚々と次の井上伝兵衛に挑んだ。

だが井上にはさんざんに打ち負かされてしまった。

井上は寅之助に男谷道場に行く事を勧めたが、寅之助は

「男谷道場は評判ほどではありませんでした」

と答えた。

井上は「もう一度行ってみろ」と紹介状を持たせ男谷と再度立ち合わせたところ、

今度は寅之助は男谷に圧倒されてしまったという。

つまり男谷は手加減していたのだ。

そして島田寅之助ほどの剣士でも男谷の実力が全く分からないものなのだ。


同様の逸話は山岡鉄舟と浅利又七郎。

小田孝朝と中条頼平(長秀)など多数ある。


さて、ここで疑問がある。

なぜ名人上手の実力というものは見抜けないものなのか?


それは達人たちは紙一重で勝利したように見えても、じっさいには綿密な手筋を駆使して勝つからだ。

だから名人の一打は、なにげなく打った様に見えても絶対逃れえない必殺の一打である。


なぜなら名手は戦う以前から、山の様に大量の仕掛け(罠)を準備している。

いざ勝負のさいには、その仕掛けの大山が崩るる様に打って勝つ。

そして打った後は、何事も無く元の位に戻り術を納める。

そのため、敵は「なぜ負けたのか?」と、負けた理由を理解できない。

柳生宗冬はこれを『上手の位』なり。と言った。(※庄田喜左衛門「宗冬兵法物語」)


一般に『上手』と言えば

剣の駆け引き細かく、さまざまな術を使い、

拍子も良く、品もあり、見事に見える人が「上手だ!」と喜ばれる。

だがこのていどの華やかな芸だけでは中級レベルであると宮本武蔵は言う。

では上級レベルの兵法とはどの様なものか?

それは

 強からず、弱からず、早からず

 見事にも無く、悪くも見えず、

 大いに(身位)直して、静かに見ゆる。

これが上段(上位)の兵法なり

よくよく吟味して違いを見分けられる様にせよとの教えである。(宮本武蔵「兵法三十五箇条」兵法上中下の位を知る事)


つまり見た目だけで「これは強い!」「じつに見事な!」などという勝ち方は実(まこと)の勝ちでは無いという。

なぜか?


その理由を孫子はこう語る。

世間一般の人々が称賛する誰にでも分かるような勝ち方は最上の勝ではない。

だが戦えば人知れず必ず勝つ。

なぜならば、それは「既に負けている敵」に勝つからであるという。


すでに勝つまでの道筋を作ってから、相手の変化に従って、その虚実を見極めて打つのだ。


相手の変化を見ながら自分もまた変化する。

そのため動きは曖昧模糊となる。

だから見事に品良く動けるはずも無く、

強くも弱くも早くも見えないのだ。



さて地面に降りた老猫は、誰に状況を聞くでもなくノロノロと歩き出した。

そのまま勝手に入口の扉を無造作に開けてノロノロと部屋に入って行ってしまった。


「え?!危ない!」と誰もが驚いた。


(いくら名人でも、あまりにも無謀すぎる!)


灰原たちは慌てて戸口へ走り寄るが、すでに老猫は部屋の中ほどまでノロノロと進んでいた。

(危険だ!)

とっさに灰原たちは立ち入ろうとしたが、そこで奇妙な光景を見た。


化け物ネズミは部屋の奥で小さく身をすくめていて動かない。


はて?あのネズミはあんなに小さかっただろうか?

じっさいに先ほど目の前で戦った感触とはだいぶ違って見えた。


老猫は何の事もなく化け物ネズミの前までノロノロと進み行く。

やはりネズミは小さくうずくまって動かない。

老猫は、いきなりポカリと化け物ネズミを殴り倒し、

ズルズルとネズミを引きずって戻って来たのである。


その場で観ていた猫たちは唖然とした。


老猫が庭にネズミを投げ捨てれば、猫たちは『化け物ネズミ』を一目見ようと取り囲んだ。


「これが…化け物ネズミですか…」

「で、あるか」

「え?こんなに小さかったのかよ??」


皆がガヤガヤとざわめくのを他所に、老猫は庭の真ん中で何事も無い様にたたずみながら夕陽の空を眺めている。

全世界が夕陽の色に染められて一つに溶けようてしている。


親分猫が涙を浮かべながら、その姿に向かって深く礼をした。


〜〜猫の妙術09「上手の位」〜〜 完

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