第8話 心の罠


灰原は虎之助を診察する。

やはり怪物ネズミによる切り口はさほど大きく無く、主に打撲のケガの様だ。

灰原はふと気づいた。

(ひょっとしたらネズミの攻撃力はあまり高くは無いのではないか?)


虎之助も黒丸も、他の猫たちも、死に至る重傷は負っていない。

むしろ自分から驚き慌ててぶつかり転がったケガに見受けられる。


攻撃力が劣る者が圧勝してしまう。

果たしてその様なことが可能なのであろうか?


真正面からの攻撃でそれほどの不意打ちを喰らわせるとしたら化け物ネズミは恐るべき達人である……としか考えられない。


灰原は虎之助に確認する。

「ネズミは常に部屋の角にうずくまって居るのですな?」


「そうである。吾輩の切っ先にも怯まず、気勢にも退かず、気で覆っても覆えず、気配も無く、いきなり飛びかかってくるのである」


「それはおそらく『相気(アイキ)』ですな」


「アイキ?」

黒丸はまた聞き慣れない言葉にぶつかった。


「試合中に『気』と『気』が同調してしまう事ですよ」


「おお、アレか!」

さすがに虎之助は術理を察した様だ。


『相気(アイキ)』とは剣道の試合において、お互いの『気』が通じ合い、拍子や呼吸などが同調し、お互いの形が合致してしまう事をいう。

つまりシンクロ状態である。

それを防ぐために剣道では『相気(アイキ)』にハマる瞬間、ふと間合を外したり、剣を叩いたりする事がある。

あれは『相気(アイキ)』を外しているのだ。


言い方を変えれば『相気(アイキ)』の状態では打撃のタイミングが相手に打撃の呼吸を把握されてしまう恐れがあるとも言える。


灰原はネズミの戦術は相気であると結論付けた。


灰原は解説を続ける。

「化け物ネズミは、こちらから攻めようとした瞬間、突然目の前に現れていた。

…といういう事は、

こちらが『念』が入る瞬間に、化け物ネズミはその『気』を察してカウンターで入身したのでしょう」


虎之助がうなずく。

「それはこちらの『気を読まれた』という事であるかな?」


「そういう事です。

厳密には『気の起こるさらに前を読まれた』という事です」


「気の起こるさらに前?であるか?」


さすがに気合術に達した虎之助ですら初めて聴く術理である。


「気を読んでから動いたのでは遅いのです。

気の起こるさらに前に罠を仕掛け待つ。

そこに攻め入ると必ずカウンターを取られる。

ネズミが先に仕掛けた罠にハマった。という事ですね」


「こちらが攻め込む呼吸を捉え、

その起こる前を打ち、

その力を利用して打ち返す。

だからどのような力技もスピードも通用しませんし、こちらが出したパワーがそのまま自分に跳ね返って来たわけです」


「なるほど」

虎之助は大きく頷いたが、黒丸が首を傾げる。

「罠なんて無かったぜ」


「仕掛けとは『心の罠』の事です」


「心の罠?」

黒丸は眉をしかめた。

おそらく黒丸は剣の打ち合いの強弱遅速以外、考えた事も無かったであろう。


「あの部屋の角こそが化け物ネズミの有利な場所だったという事です」


「うむ、しかし灰原どの。むしろ部屋の角は、兵法的には追い詰められる窮地ではござらぬか?」


「奥に行くほど狭まる地形だからこそ、こちらの動きも人数も制限されるとも言えます。『隘(あい)形』と言います」


「アイ形?どういう意味でぇ?先生さんよ」

とうとう灰原は黒丸の先生になってしまったようだ。


「途中から急に狭くなる地形の事です」

灰原は若者に兵法の理を諄々と語る。


「孫子曰く「隘(あい)」形に居れば、必ずこれを盈(みたし)て敵を待て。

(狭い入口部分を兵で満たして待ち構えよ)

だがもし敵が先に之に居り、

①盈(みつる)ならば、従がうこと勿(なかれ)

(狭い入口で待ち構える敵の誘いに乗ってはいけない)

②盈(みた)ざれば而(すなわち)これに従え。

(だが敵の構えに空きが有るなら、相手の動きを見て打て)

という教えです」


「なるほど『あえて狭さを利用する』という戦術であるか」

さすがに虎之助は合点したようだ。


「そう。狭い角にネズミを追い詰めたつもりが、誘い込まれて技を封じられていたのは我々の方だったのかもしれません」


「さて、では灰原殿どうなさる?」


「まずネズミに『地の利』を使わせない事。

次にネズミに万全の守備をさせない事です」


「守りを崩すのであるな」


「はい、それにはまず間合の外から先に先にと『先々』の変化を仕掛ける事です。

そしてあちらが反応する『色』を見て、

その力に和して勝つのです」


「色仕掛けか!俺もさっきやられたからな!」

やれやれ黒丸は完全にカン違いしている様だ。


「『色』とは気が起こる事です。こちらから先に先にと仕掛けて『色』が起きる状況に誘導するのです。これを『先々の先』と言います」

まだ黒丸にはチンプンカンプンの様だ。



化け物ネズミの部屋。

灰原は戸口を開けて立ち止まり、慎重に周囲を見渡して入室した。


果たして真正面の部屋の角にネズミは居た。

ネズミにしてはかなりの巨躯だ。

まともに攻撃されたらたしかに虎之助でも弾き飛ばされるであろう。


「ヤツか…」

なるほど部屋の角に篭れば

こちらの攻撃も角に詰まる。

そして、静かに角から様子を伺い見れば、こちらの打ち込む呼吸も読みやすい。


化け物ネズミが『相気(アイキ)』を自由に使えるのだとしたら恐るべき相手だ。

こちらの打とうとする拍子や呼吸は全て把握する事が可能だとも言える。


だが『相気(アイキ)』を使うには条件がある

まず静かに相手の呼吸を読む事だ。


ならば、こちらはその読む呼吸を乱せば良い。


では相手の『気』を乱すにはどうすれば良いのか?


それは遠間から鋭く攻め立て、相手が防御なり回避なりの反応をさせれば良い。


つまり相手に『気』を出させるわけだ。


一度通った『気』は後戻りはできない。

そして発した『気』は見えやすい。

そうすれば自然に相手の呼吸や狙い所が見えてくる。


見えれば『和する』事ができる


さて問題は、化け物ネズミに先に『気』を出させるにはどうすべきか?である。


「ならばこれはどうかな」


灰原は鞘ごと刀を抜き取り、下緒を解き延ばして、その紐の先端を柄手に握る。

鞘を半分ほど抜いて刀身に掛けたまま、薙刀の様に構えて進む。


虎之助が唸った

「ほう、偽槍であるな」


「ニセ槍?なんでぇ?そりゃ?虎さん」


「鞘を長物の代用として使う術だ。吾輩も見るのは初めてだがな」


「あの鞘で突くのかい?」


「あの鞘はフェイントだ」


「フェイント?」


「小僧、もしお前があの様に鞘先のコジリを突き付けられた場合、お前ならどう反応する?」


「そりゃあの鞘を払うか、突かれても構わず飛び込むかだな」


「さよう。ネズミもまた

  避けて壁沿いに廻り込むか

  この鞘を打ち払って入身するか

この二通りのパターンが考えられる。

鞘を打ち払うならば、鞘を抜き払い刃で突く。

飛び入って来たなら、その勢いに乗じて組み勝つという事だ」


「なるほど、そういや先生は『柔(やわら)』も使えるんだよな」


「つまり灰原殿もまた『心の罠』を仕掛けているのである。

二段三段構えの戦術という事であるな」


灰原は刀の鞘を槍に構え、じっくり部屋の角へ近づいた。

ネズミはやはり角にうずくまっているだけだ。


さらに寄るがネズミは何の反応も示さない。

そろそろ間合に入る。

灰原は用心深くネズミに鞘を向けながら足の甲を一個ほど、わずかに右に槍裏へと寄せた。

これは微細なフェイントを仕掛けているのだ。


(次の一歩で間合に入る)

その瞬間に灰原は不意にネズミめがけて鞘を飛ばした。


真っ直ぐ飛んだ鞘が角の柱にぶつかり「カツン!」と音を立てる。

すかさず灰原は刀身の中ほどの棟(刀の背中部分)に左手を添え、刀で身を囲む様に切り上げた。

いわゆる剣術でいう『鳥居構え』である。


この様に構えれば刀が邪魔で相手は組み付けないものだ。

それでもネズミが飛び入って来たなら、その勢いに『和して』勝つ…ハズであった。

だが。


「…?!居ない??」

今まで目の前にうずくまっていたはずのネズミが居ないのだ!


まさか?!

ネズミ馬灰原が鞘を払い飛ばす一瞬の動作を見切っていたのか!


慌てて灰原はネズミを探して振り返る。

ネズミは背後に居た!


「うわあああっ!」

灰原が扉から転がり出て来た。


黒丸と虎之助が駆け寄って来た。

「よう、大丈夫かい先生」


「いや、これは参りました。よもや手も足も出ないとは」


「うむ。完敗である」


「チクショウ、やりたい放題しやがって」

黒丸がストレートに感情をぶつけている。


さて次の手を考えねば…とは思うが、あの化け物ネズミをどう倒すべきなのか?

さすがに灰原にも見当が付かない。


「お〜い、名人を連れて来たぞ〜!」

灰原たちが振り返ると、

あの元締めの親分さんと手下の猫たちが大柄な老猫を背負って、庭先から入って来た。


〜〜猫の妙術08「心の罠」〜〜 完

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