第3話 HIgh Standard

「へぇ。坊主、あれがナックルって分かるんだ。いい目をしてる」


「ほ、本当ですか!」


「でもダメだ。俺のナックルはそう易易と教えられるもんじゃない。それこそ、今までの全てを捨てるくらいの覚悟がなきゃ、な」


 今までの、全て。


「な、分かったらさっさと帰った帰った」


 そんなもの、惜しくなんてない。俺の灰色の過去なんて、いくらでもくれてやる。だから、俺は力が欲しい。


「おじさん! 僕は二軍の3番手ピッチャーなんだ! これから入ってくる新1年生にも勝てないかもしれない。それでも、僕は試合に出たい。だからお願いだ。僕にナックルを教えてくれ! そのためなら、全てを投げ出す覚悟がある!」


 ありったけの思いをぶつける。口だけじゃだめ。目、鼻、腕。全身の筋肉を使って、俺の思いを伝えろ。


 ナックルには、それだけの価値がある。


「……坊主、高校は」


 おじさんは苦虫を噛み潰したような表情でそう言った。


「沼津南です」


「!」


 まるで何かを悟ったかのような顔。沼津南に反応するような。


「……そっか。沼津南か。合格だ。明日オフだろ。学校終わり次第ここに来い。いいな」


 え、これって。OKって事だよね。


 やった。やったぞ。俺の思いが伝わったんだ。俺の野球にかける思いが。


「はい! ありがとうございます!」


「俺の名前は寿ことぶき。覚えておけよ」


 寿さんはそう言うと、自身のグラブをケースにしまい、グラウンドを後にした。


「……お前、すっげーじゃん! あんな人に教えて貰えるなんてな!」


「僕自身びっくりだよ。まさか、OKして貰えるとは……」


「てかナックルなんて思い切ったな。うちのキャッチ、誰も取れねぇんじゃねぇの」


「でも、もしナックルで抑えられることを証明出来たら、監督だって使わざるを得なくなる。そうだろ」


「……確かにな」


 三浦は何か心に秘めたような表情をして頷いた。それについて聞くのは無粋だろう。


「じゃ、今日はもう帰ってまた明日だな!」


「うん、そうしよう」


 僕たちは別れの挨拶を済まし、その場を後にした。


――


「お、来たみたいだな」


 翌日、学校が終わり次第一目散に河川敷に向かうと、そこには既に準備運動を済ませ、グラブの手入れをしている寿さんがいた。


「始める前に確認しておくけど、君は本当にナックルを習得したいんだよな。ナックルを投げる、それ即ち他の全てを捨て、ナックルに全てを捧げるということ。その覚悟を持ってここに来たんだよな」


 寿さんは鋭い眼光でこちらを見つめる。思わず後ずさりしてしまいそうな威力だが、僕は大丈夫だった。何せ、それほどの思いがあるのだから。


「もちろんです」


「ま、聞くまでもなかったか。じゃあ早速。まずは握り方から――」


 そこから、寿さんによる指導が始まった。初めは基礎の基礎。だが、世間一般で教えられているようなナックルの説明とは濃さも密度も違った。


 この世にナックルを完璧に投げれる人がどれほどいるだろう。もちろん、回転の少ないボールを投げることができる人はそれなりにいるだろうが、それをナックルとは言えない。そんな人が書いた記事が、ネットでは堂々と『ナックルの投げ方』として紹介されている。


 しかし、寿さんは違う。本物のナックルを投げる投手だ。ナックルだけで相手を抑えられる、本当のナックルを人に教えることが出来る。


「……とまぁ、こんなものだな。1回投げてみようか」


 ものの30分で寿さんの基礎解説は終わってしまった。次は試しにやってみるフェーズ。寿さんはマウンドからホームまでとほぼ同じ距離を取ってグローブを構えている。


 俺は親と小指を除く三本指をボールに突き立てるようにして握った。そして寿さんのようなワインドアップを始点とし、目標と垂直になるような腕の軌道を描く。


「どりゃあ!」


 指で弾かれるようにして投じられたボールは中途半端な回転をしながら、ストンとグラブに収まった。


「ああ、ダメだ……」


 これじゃただのスローボール。ナックルとは程遠い。


「いや、悪くない。ここからどんどん感覚を磨けばいいんだ。さぁ、もう一球。ナックルは肘に負担がないからな。どんどん行くぞ」


「はい!」


 寿さんの言葉を信じ、俺は何球も何球もナックルを繰り返した。


 ナックルは技術のボールでもあるが、同時に感覚が大切なボールでもある。腕の振り、指の弾き、力感。これらが少しでも狂ってしまうと、それはナックルではなくなってしまうからだ。


 投げ続ける中で、そんな感覚はどんどんと研ぎ澄まされていく。投げ続けている内に、ナックルに近いようなボールを生み出せる時が見られ始めた。


「よし、そろそろ遅いからラストにしようか。思いっきり来いよ」


 時刻はそろそろ5時半を回ろうかという頃。僕は段々とだが、ナックルのイメージをつかみ始めていた。大体、5回に1回は無回転を投げられるくらいに。そして、遂に今日を締めくくる一球を投げる時が来た。


「これで決め切る」


 僕はボールをグッと握り込み、腕を大きく振りかぶった。この一球だけは、決める。


 魂を込めた白球を思いっきり弾き出した。


「くっ!」


 球が速すぎる。指に引っかかったか。これじゃあ、無回転なんかじゃない。ただの遅いストレートだ。


 そう肩を落とした時だった。


「!」


 なんと、突然ボールが意志を持ったかのように動き出したのだ。それは揺れながら落下し、寿さんの膝下へと消えていった。


「す、すげぇ……やるじゃねぇか、坊主!」


 後方に転がっていった球を気にも留めず、寿さんは歓喜の声を上げた。


「これが、ナックル……」


 今までのボールは無回転に見せかけたスローボール。ただ、今回に関しては本物のナックルだ。なぜ投げられたのかは分からない。ただ、投げられたという事実は変わらない。


「ああ。これは文字通りお前のナックルだ。球速で言えば110km前後。ほぼストレートと同じ速度のナックルなんて見たことがない」


「ほんとですか!」


「うむ。野球のセンスはなくてもナックルのセンスはあったみたいだな。ただ、これじゃまだ試合じゃ使えねぇ。さっきのボールを毎回投げれるようになってからが本番だ。練習、できるな?」


 寿さんはシワ混じりの顔をニカッと輝かせてこちらに視線を向ける。


「はい! もちろんです!」


「了解。じゃ、頑張れよ。毎週月曜日、ここ集合な。それじゃ」


「ありがとうございました!」


 寿さんは軽い微笑を浮かべながらそう言い、こちらに背を向けた。


 その日から、俺のナックルボールを完成させるための日々が始まった。

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