第2話 取り違えた鞄

 無事に家にたどり着いた女は、また悩んでいる。

 

(怒らせてしまったかしら……)


 机に向かって、助けてくれた男子高校生の事を考えていた。去り際の声は特別怒っているようにも思えなかったが、素っ気なかったようにも思える。きっと、お礼も言わずに文句を言ったせいだ。そう思った。


 こうしていて余計な事を考えていても仕方が無い。彼女はせっかく机に向かっているし、宿題に手をつけよう。と思い鞄を開く。そこで異変に気がついた。


「あれ? この鞄、私のじゃない?」


 入れた記憶のない教科書が出てきて疑問に思い。真っ黒いペンケースを出したところで確信に変わった。


「もしかして、さっきの男の子の……?」


 彼女はそう思って、教科書に記入された名前を探す。そこには、確かに自分とは違う人物の名前が書かれていた。


北川きたがわ真人まさと……くん」


 女は名前を指で軽くなぞって、さっき助けてくれた時のことを思い出していた。


「優しそうな人だった……」


 小さな声でそう呟くと、女は目を瞑り、天を仰ぐ。


 返す時には謝ろう。助けてくれたお礼もしよう。そう思いながら、机に出した教科書やペンケースを綺麗にしまった。


。。。


 一方、鞄を間違えて持って帰ってしまった真人も机に向かい、男性が使うにしては可愛らしい、ピンク色のペンケースとノートを机の上に広げて、悩んでいた。


「あの子、絶対困ってるよなあ……」


 こちらの教科書にも、きちんと記名されている。女性らしく少々丸っこく見える文字で書かれているその名前を見て、真人は彼女の顔を思い出した。ふわふわとした長髪が良く似合う、可愛らしい顔立ちの女の子だった。


(二年白組……。浜野はまの由美ゆみさんか。同い年の子だったんだな。しかも特待生)


 真人の通う男子校、洋極ようごく学園と、橋を挟んで隣にある女子校の藤波学園は、どちらもクラス編成が特殊である。


 クラス分けには全て色が使われていて、黒組は普通科クラス。赤組はスポーツ選考クラス。青組は五教科応用クラス。黄組は五教科以外の専門分野特化クラス。緑組は文武両道クラスで、白組は教師陣から何か特別な才能を認められた者だけが入れる、特別待遇クラスである。白組はその特殊な選出方法から、一番クラス人数が少ない。


 かく言う真人も、白組の生徒である。真人は小さな頃から人よりも頭の回転が早かった。恐らくは、大人の難しい話題も理解していたように思う。


 それが今は更に成長していて、真人は去年取ったレポートの賞により、教師から是非特待生に。と勧められた。そのレポートはとある大学教授の目にも止まったらしく、ぜひ進学を。との声がかかっているのだと、洋極学園の間では有名である。


(あの子はどんな特待生なんだろう)


 急に興味が湧いてきた。真人は、明日鞄を返す時のことを考えながら、広げていた教科書やペンケースを鞄の中にしまってやる。


「あー……。明日漢文提出じゃん」


 宿題のことまで同時に思い出していた真人は、机に突っ伏しながらスマホをいじり、仲のいい友人に電話をかけた。


「明日、朝練休むから言っといて」

「え? どうして?」


 電話はワンコールですぐに出てくれた。挨拶もせずにいきなり本題に入った真人に対し、電話の相手は驚いた声を上げる。


 相手は真人と同じ白組でもあり、同じ部活に所属している友人だ。


「何かあったの?」


 少し高めの、優しそうな声が電話越しに聞こえてくる。


「間違えて藤波の子の鞄持って帰っちゃったから…朝届けに行ってくる。って事で、明日の休み時間に漢文、写させて」

「えー? 別にいいけど……。その子って真人の追っかけの子?」


 ある程度どころか、かなり容姿が整っている真人は、藤波学園の女子生徒からもモテる。1年生の頃からサッカー部でもレギュラーとして活躍をしていたので、尚更ファンが多かった。


 よくフェンス越しに真人を見に来る女子達がいるので、彼の言う「追っかけ」とはそのことを指しているのだろう。


「違う。あんな子見た事ないし。幸雄は知ってる? 白組の子みたいなんだけど。浜野由美さんだって」


 電話の相手、白鳥しらとり幸雄ゆきおは情報通である。学園内外から政治界隈にまで手を伸ばしていて、彼に知らないことはないのでは無いか。と言えるほど、幸雄の情報は正確で幅広い。


「知ってるも何も、真人の父親と彼女の父親は同じ職場の人でしょ? 真人の方が知ってるんじゃない?」


 そんな答えがすぐに返ってきて、真人は驚いた。


「はっ!? てことは、警察の娘ってこと!?」


 真人の父親は県警の刑事で、警部をしている。父親の職場の人に、自分と同い歳の子どもがいるという話は聞いたことがない。うちの父親は職場ではプライベートのことをあまり話さないのかもしれない。と真人は思った。


「他人のために体を張る正義感は、父親譲りってことなのかなあ……?」


 真人は驚いた時に起こしていた体をもう一度机に預けて、スマホに耳を当てる。


「何かあったの?」

「今日、中学生の子をナンパから助けてあげたんだって。俺もたまたま見かけたから、少し手助けをしてあげてさ」

「そんで、鞄を取り間違えたと」


 幸雄の声から楽しそうな様子が伝わってきて、真人は軽く眉を寄せる。


「確か、可愛いって評判の子だよ。仲良くしておきなよ」


 幸雄は完全に楽しんでいる。真人は途端に不機嫌になって、反発する。


「俺は別に興味無い」


 幸雄からの返事は、少し経ってから返ってきた。


「そろそろ前を向いたら?」

「……うるさい。切るぞ」


 幸雄の言葉が刺さったから、真人は更に不機嫌を声に乗せてそう答える。幸雄はそれには軽く返事をしてから「また明日ね」と言い、幸雄の方から通話が切れる。


「……はぁ」


 真人はスマホを机に置き去りにして、すぐ後ろのベッドに倒れ込むようにして寝転がる。春の暖かさもあり、ベッドに横になるとすぐに眠たくなった。


 それに抗う気力も無かったので、真人はそのままゆっくりと瞼を閉じる。


『前を向いたら?』


 真人の脳裏に、幸雄の声が過ぎる。


(それが出来たら苦労はしない……)


 心の中でそう返答して、真人はそのまま眠りについた。

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