∞第八話 運試しの運河
∞第八話 運試しの運河
潮風食堂からは結構離れた場所にある
その釣具店の店主、
「よっこらしょ」とかけ声をかけて扉を開ける。デニム生地の前掛け姿に白髭の彦六は、にんまりと一色に笑顔を見せると、
「今日は久々に一色の鮎の塩焼きを食べたくなってねえ。そろそろシーズンだろう?」と笑う。毎年この時期になると、決まって鮎を食べに来る。
「鼻が利くね。昨日入荷したよ。天然物の利根川の鮎。今年は型も良いよ」と一色もまんざらではない。自信を持って出せる品だ。
笑って答える一色。今日は珍しくホールに出て知人と談話しているところだった。
彦六は、いるのが誰かと思って覗いてみると、一色の笑顔の向こうに見覚えのある顔がいることを悟る。偏光グラスに黒のジャケットで穏やかに会話している男性。
「おう、粟斗じゃないか」
かつて船橋に住んでいた一色の先輩である
「おお彦六さん、久しぶり」と右手を挙げる夏見。
ふとテーブルを見ると、ピカピカの漆が塗られた竹の継ぎ竿が置いてある。
「なんだよ。ここで品評会か? ウチでも買ってくれよ。良い竿が結構入っているから」と彦六は物珍しさにそのテーブルに加わった。
その竹竿、付け根の部分に草書体で『竿師 源五郎』の文字が入れてある。
その顔色がはっと変わる。それがなんであるか彦六にはすぐに分かった。
「おい、粟斗。これって、源五郎竿師の渓流竿か?」
夏見は頷いて「そうだよ」と言う。少しニンマリとした表情だ。
「どうやって手に入れた? 偽物じゃないよな?」
「本物だよ。本人から直に渡されたものだ」
そういって竿の入っていた桐箱も見せる夏見。
箱にも墨入れ文字で『野州足利 竿師 源五郎』と署名が入る。
「ちょっと見せてくれ!」
七本継ぎの竿は手応えもスムーズにスッと竿と竿の継ぎ目が綺麗にしなやかに結合する。音もせず、渋みや弛みもない、精巧に出来た万全のクオリティが窺える。
全ての部位を繋いで一本の竿にすると、彦六はビュンビュンと竿を上に向けてしならせ、車のワイパーのように左右に動かして竿の反応、即ち調子を見ている。穂先が力強く反り返る先調子と言われる種類の竿だ。そして彼の視線はまるで検査官のような鋭いものだ。
「テンカラ用か」と納得する彦六。
暫くじっとその竿全体を眺めていた。
すると突然「なあ、粟斗、三十万円でどうだ?」と企みの顔をする彦六。
「売らないよ」と門前払いの粟斗。あきれ顔で見下す表情。
「ぐぬぬ。足下見やがって。じゃあ四十万円なら?」
夏見はしかめ面で「お金の問題じゃなく、売らないよ」ときっぱりと言いきる。
「なんで?」と彦六は残念そうに竿を夏見に返す。
「源五郎さんはさ、オレの遠縁なのよ。五年先まで注文が入っていて、やっとオレの番になって作ってもらったの。転売なんて、そんなのムリ。これで尺イワナ釣るのよ、オレは」と継ぎ部を次々と外しながら桐箱にしまう夏見。
「くう、いいなあ」と本音が出る彦六。釣具屋故の良い竿に出会った感想だ。
一色は笑いながら厨房に入ると、「まあ鮎の塩焼き定食でも食べて、気を取り直してよ、彦六さん」と宥めた。
「そうそう」と笑う夏見。
「仕方ないか。そうしよう」と悄気た素振りを見せる彦六。
竿の話が一件落着すると、ガラガラと戸を開けて二十五歳くらいの女性が入ってきた。
「
声をかけたのは彦六だ。
「お父さん、またこんな時間に一色さんのところで油売って……」と怪訝そうな顔である。
「いや、今日はお昼の時間がとれなくて、おそいランチなんだよ」と言い訳めいてその女性にこびる。
「のりちゃん、こんちわ」と一色。
「こんにちは、一色さん」と丁寧な挨拶で返す乃梨子。
そして彦六の隣に夏見がいるのが分かると「ああ、粟斗さんもいるの。ご無沙汰しています」と会釈をした。
「のりちゃん。お久しぶり」と夏見も挨拶を返す。
乃梨子は、彦六の娘だ。母親は既に他界しており、今は父と娘たちだけの家族である。
一堂を見渡せるカウンター席に陣取ると、「どうせ鮎に惹かれてふらふらとこっちの端までやってきたんでしょう、お父さんのことだから。そういう季節よね」と乃梨子。ずばりそのままである。
「一色さん、私にも鮎の塩焼き定食ね」と注文する。
「結局おまえもじゃねえか」と笑う彦六。
「まあね」と言ってから乃梨子は、
「お父さん、今度の温泉旅行、草津にしようか?」と提案する。
「またムリしてないか?」
「してないわよ。親孝行させてよね」
「身の回りの世話してくれるだけで、今のままでさ、十分親孝行なんだけどな」
半分照れたように彦六は答える。案外謙虚だし、この二人は出来た親子関係である。
「
「あ、うん。任せるよ」
「じゃあ、佳乃子に日取りのメールしておこう。草津までの電車のキップ、佳乃子が夕方にでも予約してくる、って言っていたから」
「うん、任せるよ」と彦六。質素な言葉の割には顔には嬉しさが満ちていた。
一色は優しい笑顔で、
「いいねえ、彦六さん。娘姉妹の親孝行、嬉しいじゃないの」と魚を焼きながらカウンター越しに話す。
「まあね、こればかりは出来た娘たちに感謝だよ」
素直に肯定する彦六。
「かのちゃんも立派な女性になったよね」と笑うと、一色は二人の前に定食を差し出した。
「ほいっ!」
「ああ、母親がいなくなって、佳乃子が、ああなったときには、どうしようかと心配したけど、今は穏やかに娘たちの人生が流れているのが嬉しいよ」
出来上がった塩焼き定食を口にしながら、しみじみと彦六の言葉がもれる。
『ああなったこと』とは、海幸家の数年前の大事件のことだった。
その鮎を満喫した夜、彦六は家に戻るとうたた寝をしてしまう。そして佳乃子の「あの事件」のことを夢に思い返していた。
「お父さん、佳乃子がまた帰ってこないの。もう午後十一時なのに」
母親の真智子が亡くなって数ヶ月を過ぎた日のことだった。このところ髪を染めてきたり、行き先も言わずにフラフラとしたりと佳乃子の生活に乱れが出ていた矢先のことだった。
そしてその日も眠れないまま、乃梨子と彦六が混沌とした気分でうたた寝から目覚めた朝、海幸釣具店の電話が鳴った。
「はい、海幸です」と乃梨子。
「ああ、こちらは葛西海岸警察署です。そちらは海幸佳乃子さんのご自宅でお間違いないでしょうか?」
「はい、そうです」
「櫻華学園の制服に、茶色の脱色した頭髪で、持ち物の鞄には海幸佳乃子さんと書いてありまして……」
「間違いないと思います」と警察の電話に答える乃梨子。
「そのですね、少し前に、運河近くで佳乃子さんを発見しまして……」と電話の警察官。人の良さそうな下町訛りのアクセントから五十代の男性と推測した。
乃梨子は内心ドキドキした。緊張しまくって、頭の中が真っ白である。まさかの最悪の事態を想像してしまったからだ。
「いまお宅のお嬢さんを保護していまして、失礼ですがお家の方ですか?」
内心ほっとする乃梨子。『生きてた!』と安堵する。
「はい、姉の乃梨子といいます」
「つきましては身元引き取りをお願いしたく思いまして、お電話したしだいです」
乃梨子は、「はい、すぐに伺います。妹は生きているんですよね?」と鼻息も荒く電話口の警察官に向かって言う。
「とても元気にしています。いま向島の有名な菓子匠でお土産にもらった
「ああ、そうですか。お世話おかけします」
「つきましては、形式的に拝見させて頂くのですが、お姉様の身分証明書と、あと三文判で良いので印鑑もお持ち頂けると助かります。署の受付では児童少年課の
「はい、ではすぐに海岸警察署さんにお伺いします。いろいろとありがとうございました」
電話の前でお辞儀のしっぱなしになった乃梨子はすぐに着替えをしに自室に入った。
Tシャツにジーンズという姿で、乃梨子は自転車に跨がると一目散で海岸警察署に向かって走り出した。
生きていると分かった途端、乃梨子はふつふつと怒りも覚え始める。
「あのバカ、呑気に桜餅なんか食べて。こっちの気も知らずに」
警察署の前には大きな八重桜の木があって、いままさに大輪の花を咲かせていた。五月から六月あたりに満開を迎える桜の種類だ。まるでついていない出来ごとなのに、なにか幸運へのスタートを伝えるような暗示にも見えた。
警察署各処の人たちに、平に頭を下げまくってから、家に戻った乃梨子は、リビングのソファーに佳乃子を座らせた。着崩した制服にぼさぼさの髪、到底女の子とは思えないだらしない身なりで部屋の一角に膝を抱えてポツンと座る佳乃子。
「あんた学校にも行っていなかったんだってね。先生から電話が来てたわよ。何処をほっつき歩いていたのよ」
ソファの向かいに腰を下ろし足組をする乃梨子。
「どこだっていいじゃん」
「いいわけないでしょう。どれだけ心配してると思っているのよ」
「頼んでないし」とふてくされる佳乃子。
どうやら警察の人の話によると他校の生徒と一悶着合ったときに、たまたま通りかかったパトロールの交番巡査がその様子を目撃したという。一対三の言いがかりをつけられた佳乃子にとって不利な状況の現場で、佳乃子の安全を考えて保護したと言うことだった。
「なんで口論になったのよ」
「運河に……」
「うんが?」
「運河にいたボラの大群に向かって、あの子たちが石を投げ込んでいたからよ。潮の増減や水温、気温の変化であの子たちも河口の汽水域と沿岸部を行き来するのよ。ゆっくりさせてあげたいじゃない。鳥に掴まって食べられちゃう子だっているのにさ」
その佳乃子の魚に対する優しさを黙って聞いていた彦六はただ目を閉じて肯いていた。
それとは別に佳乃子にはもう一つの問題もあった。自宅の食卓の上には八四円切手が貼られた一通の通知書。勿論消印も押されている。郵送で学校から「佳乃子の退学処分の職員会議が行われている」という旨の知らせが届いていた。
いろいろな書類に署名して、佳乃子を連れて警察から帰宅した乃梨子は、
「警察のご厄介になるし、学校は退学にされそうだし、あんた、自分の人生なんだと思っているのよ」と少々キツい口調で妹に諭す。
そこで父、彦六は絨毯の上での
佳乃子は「お父さんゴメン」とだけ言って
彦六は軽く笑うと、「怪我とかはないよな」と訊ねる。
「うん」とだけ言って佳乃子は頷く。
「じゃあ、よかった。みんなで今日は外食でもするか。鮎でも食べに一色の店にな」と笑う。
納得のいかない短大生だった乃梨子は「甘過ぎだから」とボソッとひとりごちた。
一色の店に着いた三人は、テーブルに着くと皆で鮎の塩焼き定食を注文する。
料理を待つ間に優しい目の彦六は、
「なあ、佳乃子。お前、高校はどうする? お前の気持ちを知っておきたいから素直にいってごらん」と訊ねる。
「もう行きたくない」
「学校嫌いか?」
父の言葉に佳乃子は無言で頷いた。
彦六は「はあ」と深いため息の後、
「中卒になっちゃうなあ。旧制中学なら格好良いが、新制中学卒だと、今の世の中、働く場所がないぞ。それに対する対処や考えはあるのか?」と優しく諭して訊ねる彦六。
「大検受けるよ」と佳乃子。既に自分の考えは持っているようだ。
「そういうのがあるのは知っているけど、やり方や手続きは分かるのか?」
父の言葉を遮るように、乃梨子は「結構大検は難しいのよ」と言う。短大の教育学科を専攻している姉だ。
姉の言葉を無視するように、父親に向かって佳乃子は、
「うん。あたし学校は苦手だけど、勉強は好きだからそっちの道で……」と言いかけた彼女の言葉をこれまた塞ぐように、
「あんたにそんな根性あるの」と懐疑的な目を向ける乃梨子。
プイと角口をする佳乃子。
「あたし、調べたし。高校の単位は二年まで真面目にやっていたから三年生の残った教科の数科目だけを大検の試験で受ければいいだけだもん。出来るよ」
すると父は、
「お前が決めたんならそれでやればいい。大検で資格を取って、入れる大学にどっかに入ればいいさ」と彦六は嬉しそうに言う。
乃梨子はまた不機嫌そうに「お父さんは佳乃子に甘すぎよ、浅はかな考えかもよ。成功するとは限らないし……」というと、
「そうだな。でもお父さんはちゃんとダメだったときの回避策も考えて言っている。もし佳乃子が職に困ったら海幸釣具店を継いで食べていけばいいさ」とおとぼけ顔で父親は笑う。
「それが甘いっていっているのよ」
あいかわらず渋い顔の乃梨子。そんな話をしていると定食が三人前テーブルに運ばれてきた。なぜか佳乃子の鮎の塩焼きにだけ、皿の横に
「あら、佳乃子のだけ箸置きが可愛い」と一色に乃梨子が笑う。
そして一色は「幸運のおまじないですよ」と言った後で、佳乃子に話しかける。
「そこの後ろの席にいるおじさん紹介するよ。彦六さんに頼まれたんで今日お呼び立てしたんだ」と笑う。その言葉に彦六、乃梨子、そして佳乃子が横の席を見る。とんかつを食べている男性がひとり。
そのスーツ姿の紳士はニコリと笑うと、
「
「お父さん、一色さん、ありがとう」
佳乃子は心から二人の大人に愛情を感じずにはいられなかった。
そこで彦六の夢がさめる。短大から佳乃子が帰ってきた。
「ああ、おねえちゃん。お待たせ。温泉宿の予約取れたよ。旅行会社でキップごと大丈夫だったから」とパッケージに入ったキップ類を乃梨子に手渡す。
「ありがとうね。助かる」
「ああ、かのちゃん、なんか採用の電話がきていていたわよ。昼間に確認の電話でね、早急に送った書類を記入して、送り返して欲しいって。M市にある水産試験場の事務助手に応募したでしょう?」
「うん」
「合格だったみたいね。良かったね、早々と内々定もらって。おおよそ短大も卒業できそうだし、これであんたの好きなお魚と一緒にお仕事できるしね」と笑う乃梨子。
そこにはあの事件の時とは全くの別人になったガッツポーズの佳乃子がいた。
その言葉の後でひとしきりすると怪訝な顔に変わる佳乃子。
佳乃子は部屋の香りをくんくんとかぎ、
「ねえ、二人ともお昼ご飯、鮎の塩焼きだった?」と恨めしそうに訊ねる。
「あらやだ、バレた」と口を手で被う乃梨子。
「ずるくない? わたしだけのけ者にして」とすねる佳乃子。
すると彦六は「今から食べてくればいいよ。利根川の活きの良いのが入っているらしいよ。お金は払ってあるから、一色くんに注文するだけだ」と佳乃子に伝える。
「まじ! いくいく、行ってくるよ」
そう言って佳乃子は商店街の北の端から南の端に向かって走り出した。
了
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