∞第七話 あっさりしたアサリの思い出

∞第七話 あっさりしたアサリの思い出



 ホテル・ザ・クレセント21は港区にある格調高い都市型のホテルだ。そこのブランジェ営業主任を兼務する宿泊係の月読かえでは、モヤモヤした気持ちで地下鉄に乗り込んだ。自分の落ち度ではないミスを上司に押しつけられたのだ。彼女の胸ポケットにはさっき書いたばかりの辞表が刺さっている。相当なダメージ、理不尽さを感じているようだった。

 彼女は自宅のある西葛西の駅に戻ってきた。ここは自然豊かな葛西の臨海公園側とは違って、目抜き通りと繁華街の町が続く。そんな喧騒で賑わう下町、そこに生まれ育ったちゃきちゃき娘のかえでは会社組織の理不尽さに不快な気持ちを露わにしていた。地下鉄を降りたときの眉間しわがそれを物語っている。


 彼女は何も考えずに自宅とは逆の海岸方面に歩いていた。まだ日も高い。お昼時、午後半休をとって帰ってきたので、ちょっと西葛西からは距離はあるが、散歩がてら水族館でも行って気分転換を図ろうというのだ。幼少期から通い慣れたあの空間は心を落ち着けるのには最適だった。その途中でこぢんまりとした商店街を通る。その一角にウエルカムボードに書かれた本日のランチという写真付きのメニューを見つける。そこには炊き込みごはんの様な写真サンプルが貼ってあった。


『潮風食堂? そういえば以前父に連れられて何度かきたなあ』


 その日の日替わりランチメニューは深川めし。いわゆる生姜をあえた醤油煮アサリ飯である。遠浅だった江戸時代の葛西から深川一帯の人々は海苔の養殖や貝漁と沿岸漁で生計を立てていたため、それが名物としてそのまま現代にも残っている。いまでは東京駅の駅弁などでもお馴染みだ。


 彼女はガラガラと扉をあけると『潮風食堂』の中へと足を踏み入れた。

「いらっしゃい」

 静かに柔らかな笑みを浮かべる奥さんらしき人物、零香は「おひとり?」と訊ねてきた。

「はい」とかえで。

 零香は「今の時間は、カウンターでもテーブルでも、小上がりでも、好きなところにどうぞ」と笑顔で言う。

 彼女はテーブルに落ち着くと「ランチの深川めしで」と注文を告げる。

「はい、深川めしね」と厨房の奥から元気な声で返事が返ってきた。そして「お客さん、何度か来てくれているよね。オレの記憶が正しければ静六せいろくさんの身内の方じゃないかな?」

 意味深なような、カマをかけるような、なんとも煮え切らない感じでこの店の大将は話しかけた。


 彼女は驚いたように「はい」と頷く。静六は父親だ、五年ほど前に他界している。葛西の海岸が埋め立てをする前の昭和四十年代前半まで網元をやっていた漁師だ。その頃はこの辺りの運河近くに住んでいたと話には聞いていた。もちろんかえでが生まれるずっと前の話だ。歳行ってからの娘で結構可愛がってくれた父親だ。しつけに厳しかった母とは対照的な父だった。

「晩年のことでしたが、五年ほど前かな。父はたまにこのお店に連れてきてくれました。それで前を通りかかったので、ちょっと懐かしくて入ってみました」

 あたりさわりなく素直に返すかえで。


「ありがとうね。静六さんは物静かで優しい人だったよね」と一色。厨房のナベを見ながら懐かしそうに笑う。

 まさか父の思い出話に遭遇するとは思ってもみなかったかえで。

「父は大将と親しかったんですか?」

 一色は少し笑うと「オレと言うよりも、ウチの父親と漁師仲間でね。若いときは一緒に船を出していたそうだよ」と言う。

「ええ、沿岸漁と網元時代の?」

「うん、地引き網の話ねえ、いつもそこのカウンターに座って、常連だった麻子さんと写真屋の拓さん、そしてウチの父親と一緒に、昼時になるとこの店に集まっては思い出話をしてましたよ。昔はこの近くに月読家の旧宅があって、そこで船や網、釣り具の手入れとかしていたから」

「ありましたね。まだ小学校入りたての頃によくそこに連れてきてもらってました」とかえで。


 懐かしい話の途中で、深川めしが出来上がる。零香が「どうぞ」とテーブルに載せた盆には、醤油味のあさりをあなごの切り身と生姜であえたごはんが広口椀に入ってのっている。横にアオサの味噌汁と茄子の浅漬けが付いている。

「いただきます!」

 その懐かしい味に舌鼓を打つかえで。まるで童心に戻ったように、江戸っ子にとっての食べ慣れているはずの故郷の名物が格別なご馳走に思えた。


 その懐かしさに気が緩んだのだろうか、かえでは心地よい睡魔に襲われる。

『あれ? ふわふわする』

 そんな無意識のなかで目を擦ると潮風食堂のテーブルの向かいには父の姿があった。

「おとうさん?」

 静六は静かに優しい目を向ける。

「会社辞めるのかい?」

「迷ってるの」

「そうか。誰しも人生は櫛風沐雨しっぷうもくうにあるからね。自分の道は自分で決める方がいいけど、麻子ちゃんのところの健作くんに相談してみると良いよ。なんせここの一色くんと健作くんとお前は幼少期にご近所で仲良しだったから。お前の生まれた場所はここ南葛西なのだよ、きっと守ってくれるよ、この町が」

「え? 大将と私、知り合いなの? 健作くんって誰?」


 我に返り、ふっと上体を起こして辺りを見回すかえで。すると優しくタオルケットを肩にかける男性がいた。

「あれ?」

 男性は微笑む。

「ご無沙汰してます。クロワッサンの時はありがとうございました。おかげで売れ行き上々です」

 彼女はすぐにピンときた。

「ああ、葛西仏蘭西かさいふらんすダイニングの……」

「オーナーシェフの杵搗きねつき健作です」と健作はあらためて自己紹介した。フランス風の喫茶、スナックバールの店主だ。

 その笑顔を見たときに、フッと脳裏をかすめた懐かしい記憶。

「健作……って。ええっ、ケン兄ちゃん?」


「ああ、ついに思い出しちゃった」と笑う健作と一色。

「じゃあ、ひょっとして大将って、いち兄ちゃん?」

 二人は顔を見合わせると優しく頷いて「そうだよ」と声を合わせてまた頷く。

「かえでちゃんが小学校に上がった辺りまでは俺の妹の美和みわもまぜて四人でよく左近川の岸辺でお花見や釣りをしたよね。時間を見つけては、公園に立ち寄って麻子さんがよく見守ってくれていたっけね」

 一色の言葉にかえでの幼少期の微かな記憶が蘇る。そよ風の中で花吹雪のように左近川の川辺に桜の花びらが舞い散る光景だ。近所の商店街の人たちが入れ替わり立ち替わり何かと様子を見に来ては差し入れもくれていた。

「覚えているわ。麻子おばちゃん、美和姉ちゃんのことも、あといっぱいのお菓子を写真館のおじちゃんが持ってきてくれたこととか、酒屋のおじさんはジュースをくれた。ひょっとしてあのフランス料理の店って、麻子おばちゃんの店だったの?」

「オレ息子だからそういうことになるね」

「知らないで商談していた……」と驚き顔の彼女。

「ムリもない、まだ幼稚園とかそこらだろ、誰が誰なんて人間関係は理解できていない年頃だよ」

「でも写真屋と酒屋は覚えているんだね」と一色。

「うん。格好良いカメラ持っていたり、酒瓶の配達途中に自転車に乗ってジュースくれたんで覚えている」


「はは、拓さんと松戸会長だね。麻子さん以外は、みんなまだまだ元気にしているよ」と一色。

「おかえり、葛西潮風商店街の思い出に」と健作。

 それが分かると、かえでは「あれ?」と首を傾げる。

「ごめん。ってことは、ケン兄ちゃん、私と商談をしていたときに、私があの・・かえでって分かっていて商談していたの?」

 かえでの素朴な疑問に「もちろん」と笑う。

「なんでその時に言ってくれなかったのよ」

 かえでの言葉に「もし商談が成立したら、なんか知人だからという理由で仕事が採れたと思われるのは嫌かなと思ってね」と返す健作。

「そりゃまあ、そうだけど……」


 すこしバツ悪そうにしているかえでに、話題を変えて一色は、

「すこし商店街を案内してもらいなよ、健作くんに。きっと写真館の拓さんも、酒屋の会長も君のことは覚えているよ。昔のアオヤギやあさりをごちゃ混ぜにして煮た頃の深川めしをみんなで炊いた思い出もあったねえ。子供会のキャンプファイヤーかな?」


 懐かしい面々がまるでタイムマシンにでも乗ってかえでの元に現れたような不思議な体験だった。

「あった。酒屋のおじさんが酔って『プレイバックパート2』歌ってた。本屋のおじさんも一緒になって歌ってた」

 その言葉に一色と健作は大爆笑だ。「松戸会長と久住さんだね。あの頃よく二人で百恵ちゃんを歌ってたよね。百恵ちゃんの現役時代はオレたちまだ物心ついてないから知らない、っていうのに」


 ひとしきりの笑いがやむと一色は健作に言う。

「まあ健作くん、その商店街の大スターのみなさんに顔合わせしておいでよ。静六さんの娘さんがこんなにべっぴんさんになって戻ってきたよ、ってね」

「うん、じゃあ紹介してくるけど、今日中にここに戻ってこれるかな?」

 いたずらっぽい目の一色は「さあね」というと、いままで無口だった零香が「ムリね」と笑う。

「だって私、ここの店で働くことが決まったときに、そう私の紹介の時も明け方まで付き合わされたわよ。あの一番鶏って言うカラオケスナック。途中で美和ちゃんが会長さんに半分切れかかっていたわ」

「でも塞ぎ込んでいるっぽい様に見えたから、いまのかえでちゃんにはちょうど良いかもなあ。何もかも忘れちゃえ!」

 一色の言葉に皆は頷くと、健作はかえでを連れて商店街に向かって言った。


 いつの間にか夕焼け空である。午後半休の短い時間にとてつもなく長くて遙かな、失った時間を取り戻したかえでだった。

 葛西の潮風食堂とそこに集まる人々の作る世界。それは今の彼女にとってとても懐かしく、優しい世界だった。無知で無垢だった幼少期の自分が近所のお兄さんたちに可愛がられながら、そして近所の大人たちに守られていた、そんな穢れのない世界がたしかにあの時ここにはあったのだ。屈折した会社組織や人間関係に縛られることのない優しい日々。自分にも、そんな無条件に愛される優しい時代があったのかと嬉しい再発見だった。そして夢枕の父に、あらためて感謝するかえでだった。


    了

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