∞第六話 約束のクロワッサンは三日月《クロワッサン》の思い出

∞第六話 約束のクロワッサンは三日月クロワッサンの思い出


「どした? 浮かない顔だな」

 いつもと違いマグロのづけ丼を平らげた杵搗きねつき健作は、

「ほら隣の商店街に本格的なフレンチコース料理の店が出来たでしょう? ウチみたいな中途半端なキッチン風のフランス料理はダメなのかなってね」

「そんなことないよ。麻子さんがしっかりと土台を作って常連さんも多いじゃないか」

 カウンター越しに厨房の青砥一色が励ます。

「でも最近は何をやっても裏目にでるんだ」

 健作はそこそこヘコんでいる感じに見受けられた。思い当たる節のある一色は頷いて無言。難しげな顔で口をへの字にした。

「隣の商店街の店では八種類の本格的なフルコースをやっているんだよ」と加える健作。

 一色は「正式なメニューコースのあれかい?」と訊ねる。

 頷きながら、

「そうさ、正式なフレンチ料理のコースであるオードブル、スープ、魚、アントレ、ソルベ、ロティ、サラダ、デザートの八種類の皿を用意しているんだよ」と指を折って数えながらも苦い顔で考え込む。

「やっていることも、客層も違うような気もするけど、心配なんだね」と困った顔の一色。

「お袋はさあ、もともと菓子やパンの方の人だから、そういうのはレシピとしてそれほど多くは残してくれていないんだ」

 葛西仏蘭西かさいフランスダイニングは健作の母麻子の開いた庶民派フランス料理キッチンである。高度成長期に開店した庶民でも手の届くフレンチがあの時代にはちょうど良いメニューだった。なので、そもそもそういったフルコース・メニューには対応していない。コースの略式であるオードブルとスープに、肉か魚の選択一品とデザートというメニューだけで対応しているのだ。それもメイン皿のメニューは数種類のローテーションだ。

「そうか」

 頷きながらも一色は手を動かして、一本の葡萄酒ワインをグラスに注いだ。そして「もらい物だけど、試してみて」と言って健作に勧めた。

「白ワイン?」

「うん、ウチで出しているフランスにちなんだモノはこれくらいだから」と笑う一色。彼を励ましているようだ。

 少しだけ香りを確かめる健作。

 そして「これ結構良いワインでしょう? 香りでわかるよ」と言った。

「もらい物だよ。オレにワインの味はわかんないけど、君なら分かるだろうから」と言う。

「じゃあ、遠慮なく」

 軽くグラスを持ち上げる仕草をすると、一気にクイッとグラスを空ける健作。

 健作はその味も香りも美味な葡萄酒に魅了されるように、少しだけ眠気を感じていた。


「なあ、麻子。この二人で作り上げたクロワッサン、僕の店で出してもいいかい?」

「ええ、私はブランジェに興味はないの。帰国したらフランス風のスナックバールみたいな軽食堂を作るつもりだから、クロワッサンはプレーンなモノしか出さないつもり、時が経つまでこのレシピ書きをあなたに預けておくわ」

「ありがとう。これを目玉にフランスやヨーロッパのおしゃれなパンを扱って店を開きたいんだ」

「成功を祈っているわ、友和」


 健作の見たその夢は、どこかの国のレストランの厨房である。ほかのモブの人たちは皆金髪や瞳の青い者たちだった。


 ほんの数分だったと思う。でも結構な意識のとびかたでもあった。フッと顔を上げると一色と零香以外、あたりの客が入れ替わっていることに気付く。

『あれ、お客さん、みんな御愛想したのか。結構眠ったのかな』

 軽いノビの後で、辺りを見回す健作。



葛西仏蘭西かさいフランスダイニングってどこだか分かりますか?」

 潮風食堂で夕食を済ませた老紳士が店主の妻、青砥零香に訊ねる。

「ん。葛西仏蘭西ダイニング?」

 聞き慣れた自分の店の名を、見知らぬひとが口にする。

「それはウチですよ」

 潮風食堂の奥でうたた寝から覚めた彼は自ら名乗りでた。

「あらケンちゃん、起きたのね。ちょうど良かった」と嬉しそうに零香は、老紳士に彼を紹介する。

「あちらが葛西仏蘭西ダイニングの息子さんで、今のオーナーシェフです」


「おお君が健作くんか。若い時分の麻子さんの面影があるね」と老紳士は嬉しそうに健作を見た。

 首を軽く傾けながらも、

「母とお知り合いなのですか?」と微笑む健作。

「ええ、高度成長期の四十年代に一緒にフランスのレストランで修業をした仲で、右佐木うさぎ友和と言います」

「右佐木さんですか?」

「はい」

 母親からそのような名字の人物を聞いたことはない。だが自分の名前と母の修業時代を知っているし、嘘とも思えなかった。

「それでウチにどの様な御用で?」

「あなたはココアナイト・クロワッサンやフルムーン・バケットってご存じですか?」

 突然の問いだったが、健作も料理人の端くれ、それだけ有名な食品名を知らないわけがない。

「はい、プリンセス・ホテルで出される人気の超高級のパン類で、そのレシピは門外不出とされているモノですよね」

 その言葉に、「はい、ありがとうございます。世間ではそう言われています」とお辞儀をして返す友和。

「そのパンがなにか?」と健作。

「その二つの商品は、私と麻子さんがパリで修業していた頃に二人で作り上げた逸品なんです」

 彼のその言葉を聞いて、健作はさっきの夢が脳裏に蘇った。

『あの光景だ!』

 母の残像夢ざんぞうむのような断片的な映像が、健作の脳裏をかすめた予知夢だったということだ。

「それで借りていた権利をそのまま麻子さんに返そうと思って、当時預かったままのレシピ書きを持参してきたというわけです。生憎私には跡継ぎが出来ませんでした。そのままあのブランジェは私一代でおしまいなので、あの商品も終わりなのです。跡継ぎがいると言っていた麻子さんにバトンタッチをして、プリンセス・ホテルにも二つの品を焼いて納めて欲しく思い、お願いしにやって参りました」

 小さく頷いた健作は、「事のしだいは把握しました。ただ残念ですが母は既に五年前に他界しており、お会いになることは出来ません」

 健作の言葉に、友和の顔は急に暗くなる。

「なんと……」

「一応母の関係者にはその旨をかつて送ったのですが、お手元に届かなかったようですね」

 無念そうな顔は消えない。友和はため息で、

「ちょうど五年前からパリに住んでおりまして、工場は弟子に任せておりました。弟子たちも高齢で私が退けば一緒に退職するという職人たちばかり、それならばと工場と会社をたたんで、閉鎖することに決めたのです。困ったのはプリンセス・ホテルさんで、同じ味を出せるひとを紹介してくれとのことで、執拗にねだられましてね、レシピの持ち主である麻子さんのところに、とにかくはと思い、来たのです」

「なるほど」と健作。ため息と困惑表情は拭いきれない様子だ。

 


 仏壇の母の写真は今日ばかりは、『してやったり』の大きな笑顔に見える健作だった。

「やってくれたな、母さん!」

 生前に出来なかった親孝行と思い、彼は右佐木の申し出を受け入れた。その連絡が彼の取引先に伝わったのだろう。今日は朝早くから店を開けるハメになった。工房が変われば自分の店にもチャンスがあると踏んでのことだろう。多くの食品関係者が訪れてきた。


 そして葛西仏蘭西ダイニングの店内ホールにはクロワッサンを求めるバイヤーが溢れかえっていた。

「ウチの店舗なら売り上げの五パーセントを頂くだけなので……」

「いや、うちは月五万円の家賃だけでいいので……」

「出店がダメなら、商品を納品して頂ければ、あとは売り場で何とかしますので……」

 総勢十名ほどのバイヤーが健作の横で売り込みを始めていた。百貨店、土産物店、高速道路のサービスエリア、SCのデザート・セレクトショップの肩書きの名刺を次々と出される健作。そんな名刺の束からポロリと一枚の名刺が落ちた。

「あ、健作くん、落ちたよ」と拾い上げる一色。

『ホテル・ザ・クレセント21 ブランジェ営業主任 月読かえで』と書いてある。その名刺を見て、密かに一色は微笑んだ。

『あの未来の兆しは、ここで接点になったのか。健作くんの晴れの日も近いな』と嬉しそうに独りごちる。そう一色だけしか知らない健作の未来の出来事と関係があるようだった。


 ひとだかりの中から用事があって商店街のチラシを持って来た一色の顔を見つけると、

「一色さん、助けて」と駆け寄る健作。

 一色はニンマリと笑いかけると「嬉しい悲鳴じゃないか」とからかってみせる。

「いや、本当にそんな大量生産できるモノじゃないんだよ、あれは」

「じゃあ、彼らにジャンケンでもしてもらって、ひと月ごとに交替で商品下ろせば」

 一色の提案に「うぬぬ、他人事だと思って」とあきらめ顔のまま、腕組みで考え込む健作。

「それは冗談だけど、一時預かりにして、各社一社ごとに日をあらためて商談面接をするアポだけ取って、今日のところはお引き取り頂けば良いじゃない。麻子さんならそうすると思うよ」とウインクの一色。

 吹っ切れたように健作も「そうだね」と笑う。

「あ、それとこれ、そこで落としたよ」と例の名刺を健作に渡す。

「ああ、ありがとう」

「良い出会いがありそうだね」と意味深な一色。そして軽く右手を挙げて「じゃあ」と店の出口に向かった。


「うん、良いアイデアをありがとう、一色さん」

 そう言って、健作はバイヤーの人混みの中に帰って行った。

                   了

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