∞第五話 白無垢と素人特製だし巻きタマゴ

∞第五話 白無垢と素人特製だし巻きタマゴ


「絶品だよね、一色のだし巻きは世界で二番目だ」と酔って顔を赤らめた商店街会長の松戸がのこりを一口でほおばった。

「ありがとうございます」と笑顔の一色。

 含みのある笑顔で、「なんだよ、一番は誰か訊ないの?」と松戸は物足りなさそうに首を傾げる。

 少々困った様にしながらも、コンロの前で一色はナベをかき混ぜながら、

「そんなの奥さんの六実さんのに決まっているでしょう」とさも当たり前という様相で笑う。

 ニンマリと頷くと「あたり」と松戸。


「だって松戸会長はさ、酔うと奥さんののろけばかりなんだもん。毎回聞いているから、もう覚えちゃいましたよ」

 商店街きってのおしどり夫婦である酒店の店主である松戸は、一色の言葉に嬉しそうだ。緩めたネクタイを更に緩めて笑う。

「駆け落ちの末、親を認めさせたあの話や、その駆け落ち時代の四畳半二人生活の話も興味深く聞かせてもらっているじゃないですか」

 一色の言葉に、

「そうだったかな? そんなことまで話したっけ」

 気持ちの良い酔いっぷりで松戸は満面の笑顔でお猪口の日本酒をすする。勿論、この店の日本酒の大部分は松戸の店から仕入れている。

「そうですよ」と笑う一色。


「残念なのが、結婚式を挙げていなことだ。男のオレは良いけど、花嫁の六実には悪いことをしたな、っていつも思うんだ。あいつは笑顔で、またそんなこと、って照れ笑いなんだけど。あとちょっとで五十歳だ。娘も社会人になった。それがオレの唯一の嫁さんへの引け目なんだな」

 彼の言葉が届いているかどうかも怪しい、松戸は意識の飛んだ夢見心地でうとうとしていた。

 後ろには、遅くなって迎えに来た娘の常葉とこはが黙って聞いてきたことを松戸自身は知らずにうたた寝だ。

 一色は目配せして常葉に、「十分ぐらいすると起きるから」といつもの松戸のうたた寝の習慣を教える。

 OLファッションの常葉は「じゃあ、私には珈琲を一杯下さい。アメリカンで」といって、仮眠の父を待つことにした。母に似て穏やかな性格の娘さんだ。

「一色さん、あの件、拓さんちには訊いてくれた?」と小声で訊ねる常葉。

 彼女の言葉に「グー」サインを見せながら、「拓さん、OKだって」と返す一色。なにか常葉と一色で企みがありそうだ。

 常葉は笑顔でお辞儀をすると「ありがとうね、今度お礼するから」と笑う。

「そんな水くさい」と笑う一色だった。



 モルタルの粗末な外壁と赤茶けてさび付く鉄製の階段に囲まれた築年数の大いに経ったアパート。大学出たての二人が愛の巣にするにはあまりにも詫びしい住居だ。

「結婚前に妊娠したっていうだけで家を追い出す親なんか、こっちから願い下げだ!」

 一升瓶を台所のシンク下の収納庫から取り出すと、松戸将馬まつどしょうまはコップ酒を始めた。

「もう、始めるの? おつまみになるものタマゴしかないけど、良いかしら?」

 怒りの頂点、二十代の若者らしく将馬はふてくされた。

 菊花六実きっかむつみはエプロン姿で台所に向かうとクスッと笑っている。

「どうして君は、僕の親のことも、君の親のことも怒らないんだい?」

 六畳一間の畳み部屋からのぞき込むように台所のダイニングキッチンに向かって声をかける彼。

 六実はまた優しく微笑むと、「だって私の分まで、あなたが怒っていてくれるじゃないですか。私はそれだけで十分幸せです」と卵焼き器と菜箸を上手にコントロールしながら言った。

 その彼女の後ろ姿に、「全く君って言う人は何処までお人好しなんだ」とため息と柔らかな落胆の声を出す将馬。

「それにおなかにいるこの子がいつも怒っている声を聞いていたら、気を悪くするわ」と軽くおなかを撫でて彼女は言う。

「そっか」

 将馬も頷いて、「怒りんぼのお父さんに思われたら僕も困るしな」と彼女の意見に賛同した。

「そうよ」

 そういって彼女は出来上がっただし巻きタマゴを角皿の上に飾るとテーブルの上に置いた。

「それにしても君のだし巻きタマゴは絶品だよな。どんなステーキや刺身料理よりも美味しい」

「あらやだ。褒め過ぎだわ。一周回って背徳感になっちゃう」

「なんでさ? 褒めてるんだ。本当のことだから」

「そうですか。ありがとうございます。そしてお粗末様です」と深々とお辞儀をする六実。



 大学を出てすぐの六実がすでに身ごもっていたのは、どちらの実家にも伝えた。

 といっても六実の家はもともとは名家だったが、時代の流れで商売が傾き、お世辞にも裕福とは言えない家になっていた。世間並み以下といった感じで、やっとのことで彼女を大学まで出した家だった。父は既に他界、母が残されたわずかな遺産で切り盛りしているような状況だった。

 将馬の家は逆に随分と景気よくなり始めた。酒屋のほかに居酒屋などの飲食業にも進出してその界隈では有名な店になっていた。

 そのせいか、彼の父は挨拶に来た二人、特に六実を見下すような態度で追い返したのである。にわか成金のような父の豹変ぶりを将馬は不快に感じていた。

 将馬はそれを思い出して、顔をしかめる。そして一気にコップに注いだ冷や酒をグイッと飲み干す。しみるような酒の感触に顔をしかめる将馬。


 それから数年後の事だった。二人の元に一通の手紙が届く。

『飲食店の経営が芳しくない。手を貸して欲しい……』との旨が延々と綴られたものだった。


 将馬は「フッ」と言ってほくそ笑んだ。

「あなた、どうしたの?」

 彼は手紙を旗のようにヒラヒラさせながら、

「勝手なモノだ。自分たちから縁を切るような言いぐさで僕たちを追いやったくせに、自分たちの立場が変わるとコロコロと態度を変えてくる」とあきれ顔を見せる。

 手紙を手にすると六実は、

「あなた行っておあげなさいな」と笑顔を向ける。

 驚いたのは将馬だ。

「だってあのトンチンカンな親父、君を蔑ろにして出て行けと言ったんだぞ」

 不思議そうに六実を見る。あれだけやられて何故手をさしのべるのかが将馬には分からなかった。

「それはそれ、これはこれです」

 ため息と心配そうな面持ちで手紙を綺麗に折りたたみ封筒に戻す六実。没落してもこころはやはり名家の出。ノブレス・オブリージの精神は自分と一体化し会得されたものになっている人なのだ。育ちの良い嫁は家全体を幸福にしてくれる。

 将馬は彼女をそっと抱きしめると、

「どうして君はそんなに優しいんだい」と頬を彼女の頬に当てた。

「相手を思いやる気持ちさえあれば、いつかわかり合えます。その時が来るまで怒りや恨みは全て捨ててしまうのが幸せのための条件よ」といつもの口調で頷く彼女。

 彼女に諭された将馬は角口で「君がいうから行くんだぞ、親父のためじゃない」と言う。

 聞こえないふりの彼女に将馬は、再度、

「いいかい、親父のためじゃない。君がいうから、君のために行くんだぞ」と念を押した。

 将馬の言葉に温かく微笑むと「はい」とだけ答えた六実だった。


 そして将馬夫妻が店の跡継ぎになると言うことで、信用金庫からの一時融資が得られて、将馬の実家は事なきを得た。



「お父さん! 起きて」

 娘、常葉の声にしわくちゃの顔を伸ばすように上体を起こす将馬。

「ああ常葉。うとうとしてしまった」

 カウンターから身を起こして、目を擦りながら首を傾げる将馬。

「帰るわよ、明日は例の計画を実行するんだから」

「例の計画? お父さん聞いてないぞ」

 むにゃむにゃと寝ぼけ眼で娘に支えられながら答える将馬。

「帰り道に教えてあげる」

「なんだよ、常葉。今教えてよ」

「だめよ、お父さんは口が軽いからギリギリまで内緒なの」

「内緒は良くないぞ、親子なんだから」

「何を訳の分からないこと言っているの。酔っ払いの分際で」

 トンと背中を叩くと常葉は父のことを背後から押して店を出る。

「そうか?」

「そうよ。お母さんの嬉しそうな顔観たくないの?」

「見たいよ」

「じゃあ黙って家に帰るわよ」

「うん」

 暖簾を潜り、娘に支えられながら、将馬はよたよたと数十メートル先にある自宅へと歩いて行った。零香と一色は静かに二人に礼をして見送った。



 拓さんの経営する運河写真館。将馬の酒屋の斜向かいの店だ。

「ほらほらお母さんも、お父さんも一時間で済むから」と言って今日も背中を押して写真館に向かう常葉。


 撮影スタジオには、いくつかの紋付き袴と白無垢が置いてある。

「さあさあ着替えて、お母さんも四十代のウチなら白無垢、まだぎりぎり似合うわよ」とせっつく常葉。

「ええ?」と父。

「ぎりぎりって?」と母の六実。

 常葉の大胆な計画を聞いたあの日の帰り道、酔っていた将馬も、一気に素面になった。なんと大胆にも、二人の結婚写真を二人の結婚記念日に撮って残そうという娘からのサプライズプレゼントだった。


 そして写真館のホールの奥に設置されたテーブルの上には、一色からの差し入れの立食パーティー用のオードブルが用意されていた。サンドウィッチに、唐揚げ、ピザに、シャンパン、ビールまで。そしてそれらの料理を取り囲むように、パーティーの開始を待ちわびる商店街の店主たちの面々がそこに並んでいる。自分の店などほっぽらかしての参加だ。


「ほら会長も六実さんも写真が終わらないと披露宴パーティーが始められないから撮ってしまいますよ」と拓さん。白髪頭に白い髭で古い中判カメラをのぞき込んで露出の加減を計っている。

「純白の白無垢は露出が繊細になるんだ。早く並んでね」と拓さんも今日は何故か楽しそうだ。彼が二人と今は亡き酒屋の主人、将馬の父のケンカの仲裁を買って出たそのひとなのだ。誰よりも若者二人をよく知り、誰よりもこの二人を心配していたのが拓さんだった。そんないきさつを知っているためか、この二人の晴れ姿が自分のことの様に嬉しい写真館の主人だった。


 六実は白無垢の姿で娘の常葉を恥ずかしそうに見る。

「お母さん、綺麗だよ。二十年分の幸せをありがとう。私からの恩返しだからね」と笑顔で返す。

 ファインダーの中の二人の瞳には、潤んで今にもこぼれ落ちそうな水滴が溜まる。

 でも一番に嬉しいのは、これを企画した常葉自身だった。姑との狭間で苦労して自分を育ててくれた両親への感謝の思い。感無量である。

 そんな家族のやり取りを横に、一色はスーツ姿で写真館に現れると、特大の大皿に盛っただし巻きタマゴをオードブルの中央に置いた。その後ろから質素なパーティ-ドレスで零香も嬉しそうに顔を出した。この娘が両親へ贈った「晴れの日」に一番必要なアイテムが、もちろんだし巻きタマゴと一色と零香は知っていた。

                 了

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