∞第三話 バタークッキーとバーターの人生
∞第三話 バタークッキーとバーターの人生
「ああ、こんな人生だったのか……」
「こうやって私のしわも伸びないかしら?」とぼやく白絵。子供と旦那さんを送り出し、掃除・洗濯・炊事と早業のようにやってのける。適当にやれば、その分は必ず自分に返ってきてしまう。だから手抜きは出来ない。それの繰り返しの毎日だ。
「はあ……」と再びのため息。
「ねえ」と声が階下の道路から聞こえてきた。自転車に大荷物を載せて、それを押して帰ってきた主婦がいる。
「あら
そこには隣の主婦、
「午後から零香さんにもらったお茶菓子を開けるんだけど、一緒にどう? 今日忙しいかしら?」
白絵は振り向いて室内の時計を確認する。午前十一時五十分を回っていた。
「午後二時くらいなら時間取れそうだけど」と洗濯ばさみを止めながら返す。
「わかった、じゃあ二時にウチに来て」と言って手を振ると、美甘はそのまま踵を返し、自転車に乗ることなく、押して自宅に向かった。
「さあ、曇らないうちに干し終えちゃおう、と」と独りごちる白絵。
「独り言増えたわね」と苦笑いだ。
「普通は一人暮らしの人が独り言増えるっていうけど、私、普通に家庭の主婦なのに、独り言だらけ」と独り言の連発である。
洗濯を終えると、掃除機をかけて家の右半分を動き回る。古くて広い旧家なので、一日で全部は無理なのだ。明日は家の左半分に掃除機をかけることになる。
それが終わると夕食で使う冷凍食材の解凍だ。カチカチに凍っているので、完全解凍まで三時間かかる。そこから料理に使うので逆算して五時間前に解凍である。そうすれば五時、六時の料理始めには間に合う。
一通りの仕事を終えて、大代家の玄関先に二時半過ぎに立っていた。この家は建て売り一戸建てだ。百五十年も過ぎた古民家、白絵の家とは違い過ぎる近代的な家だ。システムキッチン、床暖房、太陽光個別発電、インターネット家電などが備わる最新式の家である。
仲良しぶっているが、実のところ、彼女は大代美甘とはあまり関わりたくはなかった。無理をすれば一時半には訪問できたのだが、おおよそ彼女がお茶に誘ってくるときは、自慢話がある時と決まっている。前回は旦那に買ってもらった超高級ブランド品のアクセサリー、その前は姑にもらった着物、その前は小姑と一緒に食べに行った人気フランス料理店の話である。
「はあ」
気が重い分だけ、玄関の門扉も重かった。
彼女の中に美甘をうらやましいと思う気持ちは一つもない。もともとが質素な家の出なので欲しがるような高級品はないのだ。鞄はものが入れば良い。靴は履き心地が良ければ良い。電化製品はシンプルで長持ちすればいいのだ。四時過ぎには息子が学童クラブから帰ってくるので理由を付けて切り上げやすい。一時間程度も聞けば、彼女の自慢話など十分おつりが来るほどだ。
ドアが開き、玄関を見ると、靴がもう一足。今日はいつもと違う。どうやらもう一人来客があるようだ。
「いらっしゃい。今日はね、ほら商店街の『潮風食堂』の奥さん、零香さんも来てるの。今日は夜だけの営業だっていうから、お誘いしたのよ。まだ三十歳前なんですって。若くて綺麗で良いわよね」
大代家のキッチンの手前、ダイニングに通されると、黒いエプロンにデニム生地のスカートにフリース姿の零香が会釈をした。
「あら、こんにちは。買い物に行くとき、たまにプランターにお水をあげている姿を拝見してます」と白絵。
「まあ、そうなんですね。今日はよろしく」
白絵は内心ホッとした。美甘が二人いるような状態だけは避けたかったが、幸い零香は無口そうだ。
メンツが揃うと、ご自慢の封を切りバタークッキーを菓子皿に移し替える。ティーポットに土瓶で沸かしたお湯をわざわざ入れ換える。茶器が高級品なので、本場のしきたりなのだろうか? 芸が細かい。
「うちの子ねえ、先週、
清瀧学園は私立の中でも、幼稚園から大学まで一貫教育の超エリート校だ。白絵は内心『あっ、始まった』と思った。
「零香さんはまだ東京が短いから分からないでしょうけど、子供が出来たら早いうちにいいところに入れた方がいいわよ。余計な修正をしないで育ってくれるから」というアドバイスが入る。
「はあ、そうなんですね」
お茶をすすりながら頷く零香。
「だってね。主人なんてプロポーズの時は格好良いこと言って、パカッって一流宝石商の鑑定がついた指輪なんか開けてさあ、大事にするよ、って言ったのに、今じゃ、飯、風呂、寝るってそんな扱いよ。もう頼れるのなんて子供だけよ」と身の上話がスタートした。ところが今日の話は、彼女にとってはいつもと変わらないのだけれど、白絵にとっては全く違うものとなった。
「そうじゃない? 白絵さんのところも」と同意を求める美甘。
「ううん。ウチはお風呂は主人が洗って焚いてくれるの。ほら薪風呂だし。ご飯は私がパートの日は作って待っていてくれるから、折半って感じよ」
「まあ、いいわねえ」という言葉には、うらやましさより「あ、そう」という相づち程度の反応しかない。自分の話を聞いてくれればいい人なのだろう。
「すっかりご馳走になって」
夜の準備があるので、零香が帰ると言うことで白絵も帰ることにした。
玄関先で美甘はまだ話したりないという感じは受けたが、自慢話が絶頂に達する前に帰れたことが白絵の今日のなによりの幸せである。
「ねえ、美甘さん。今度ご主人とお子さんと晩ご飯、ウチの店に来てみて、悪いようにしないから。高い店じゃないし、サービスするから」と零香。
零香の言葉を横で聞いた白絵は、『そんなこと言ったら、彼女ずっと店で自慢話するのに……』と思っていた。しかし悪く言うわけにも行かず、白絵は黙ることにした。
午後の終わりの傾きかけた太陽を背に、帰り道の途中、零香はぼそっと白絵に言う。
「彼女、何か夫婦以外のことに気持ちを向けていないと、きっと涙がこぼれちゃうのね」
「えっ?」
予想だにしない感想が零香から発せられた。並んで歩く道すがら、河川敷の堤防際の道で止まった白絵。
「どういうこと?」
白絵の問いかけに、
「旦那さんは全く子育ても家事も協力的なじゃないの、あの家。見れば分かるわ」と答える零香。
「美甘さん、いつも自転車でスーパーまで買い物に出かけるの。余所のご主人は自家用車でショッピングモールに休日になると出かけるから、一週間分をまとめて買い込んでいるお宅が多いわ。でも一人で大荷物を抱えて、自転車の
「うん」と白絵。
「あの家、ご主人、休日になると決まって一人で遊びに行っちゃうのよ。ゴルフだ、散歩だって言って。だから彼女は劣等感のかたまり。常によその家と比べて良いところを言っておかないと心のバランスが保てないみたい。極度に劣った部分を補うだけの、自分へのアドバンテージを見つけてその足りない部分を埋めておかないと、自分が惨めでいたたまれなくなる。言葉の上でだけの幸せを演じているわ。あれ以上あのお宅にいたら、私泣いちゃったかも」と零香の視点は鋭いものだった。自分の感情ではなく、彼女の心情を計る的確な心のバロメーターを掲げていた。
「それで外食をしにいらっしゃい、っていったの?」
白絵の言葉に、
「それもあるけど、本質はそっちじゃないわ。苦労を分かち合って、喜びを分かち合っての交換条件。旦那さんに、いわば、こころのバーター関係を気付いてほしいだけなの。ウインウインだってことを知ってほしい」と微笑む。
「うん」
この零香の視点に気付かなかった白絵自身も、反省する部分を感じる帰り道だった。
それから美甘の提案で週末に『潮風食堂』に大代家の三人がやって来た。飲んで食べて会話しての穏やかな時間を過ごす親子。幸せな時間に感じたのは言うまでもない。
「ご主人、これオレからの差し入れね」と一色は平皿に載ったアジの一夜干しを出す。
「大きいね」と笑う夫の
「これね、簡単なの。塩水で洗って、浸して、そのまま笊の上で干しておくだけ。誰でも出来る。それで奥さんは晩ご飯の用意大助かりなのです」と笑う。
「へえ、今度やってみよう」
「ぜひぜひ」
一色に礼をして、「いっただきます」と美味しそうにその干し魚のあぶりをお酒と一緒に楽しんだ柚喜。
その晩のことだった。柚喜は夢を見る。
夢の中で柚喜は二十歳の女子大生、美甘とデートをしていた。
「今日はデートしてくれてありがとう。君みたいな可愛い子と一緒に一日過ごせたなんて夢のようだったよ。また誘っても良い?」
もじもじしながら美甘も「うん、またどっか行こうか?」と返す。
「やったー!」
小躍りしながら歩道を飛び回る柚喜に、「あぶないよお。大げさだし」と笑っている。
就職三年目のプロポーズのシーンでは「オレの体調管理と家計のやりくりしてほしいんだ」と言ってクリスマスの夜に指輪を渡した。
うっすらと涙をこぼす無垢な乙女の美甘は、「わたしでいいの?」と可愛く聞き直す。
「君じゃなきゃ、嫌なんだ!」
きっぱりと、自分で
朝の光で目覚めた柚喜は、隣に眠る少々やつれ気味の自分の細君の寝顔に罪悪感を覚えた。
「ん。なに?」と美甘。
彼は美甘を抱きしめると、
「ごめん、我が家は子供、一人っ子なのに、君に子供二人の世話をさせているような家庭にしてしまった。ものでツル事をしたオレが馬鹿だった。可愛かった君に戻ってきてほしい」と優しく口づけをした。
そっと触れたぬくもりのある唇を離すと、涙ながらの美甘が、
「その言葉、待っていたんだよ。寂しかったよお」と横になったまま枕に涙を落としていた。彼の背に手を回し、しっかりと抱きついている健気な妻の姿がそこにはあった。
商店街の朝、さらさらの髪を風になびかせ、しわのない真新しいスカートを翻して美甘が行く。可愛い奥さんに戻った美甘だ。横には柚喜もいる。二人でサイクリングがてらスーパーに買い物に向かう大代美甘と柚喜が走り去る。きっと帰りには二人で分担して、大きな買い物の荷物を自転車のかごいっぱいに詰め込んで来るのだろう。
その後ろから白絵が買い物かごをぶら下げて、商店街を歩いていた。零香を見つけると、前を自転車で走り去るふたりの姿を、無言で小さく指さした。「見て、見て」のサインだ。
プランターの菫とアヤメに水をあげながら、頷く零香。少しだけ嬉しそうな口元が白絵にも分かった。
葛西の商店街の小さな幸せが、またひとつ育っているのである。
了
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