第1章 月光の下

 ニアがいそいそと秋の上着を用意していた。テッサは「明日、これを着るわ」と言った。

 彼女は難行を敢行した。「領国主さま」と問われれば、愛想よく微笑み「ここではテレサ・リランドです。表向きの御用は領国府にお願いいたします」と返した。彼女は表向きでない用を散々頼まれたが、カレナードの助言どおり全てを丁寧に断った。


 人々の要望と欲望は彼女の想像以上に多種多様で根強かった。コネクションへの口利きなど実利の最たるもの、女王代理人のドレスや領国主の食卓など興味本位のもの、明らかに犯罪である官位の買収や賄賂をほのめかしたものまであった。


 1ヶ月もすると頼み事はぱたりと止んだ。そしてテッサは態度の変わらない友を得ていた。同級生のカナン・カンハンと留年4年生ゾラ・エルミヤ。ゾラは代々テネ城市特別警備隊に勤めてきたエルミヤ一族だ。彼女はテッサ自身が考えもしない性質を指摘した。

「あなた、とても素直よ」

カナンも同じことを言った「テッサのそんなところが大好き」


 当の本人は首をひねったが、2人が嘘をつく気配はない。何かの殻に身を隠す癖でもあるのだろうか。学校では忘れているカレナードの顔が浮かんだ。まだ彼女に心を開いていないのか。


 秋の晩、テッサは寝台で膝を抱えた。

「私はローザがグウィネスだと認められず意固地になっていた……」


 枕元の灯りだけの仄かな闇に、突然黒衣の人影が立ち上がった。

 蝋のように白い顔、帽子から垂れた細い三つ編み。グウィネス・ロゥが前のめりで立っていた。テッサは悲鳴を上げて寝台から飛び降り、奥の扉の鍵を外した。その先のカレナードの私室目指して裸足で走った。

「紋章人! 紋章人!」

部屋に転がり込んだテッサをカレナードが抱き起した。テッサは寝間着姿の紋章人にすがりついた。

「ローザが、グウィネスが、部屋に!」


 恐怖に震えている少女を抱えたまま、カレナードはニアを呼び、次々と指令を飛ばした。

「防御コード117から208の使用を許可。警備隊1班は寝室入口から、2班は私の部屋から突入。女官はテッサ殿の周囲に防御円陣コードを!」

 カレナードとニアはコードを幾つか唱え、少女を中心に球体グリッドを展開した。

 6分後、領主寝室を捜索した警備隊が魔除けの置き物を持ってきた。

「これに立体映像の仕掛けがあります」


警備1班の技官が促した。

「テッサ殿、ローザと言って下さい」

テッサは用心深く発声した「ローザ」

 仕掛けは反応しない。

「次はグウィネスと」

試すうちにテッサの声でグウィネスとローザの両方が続いた時だけに立体映像が現れた。少女は再び紋章人にしがみついた。

 紋章人は言った。

「心配いりません。これはあなたを驚かせるだけのものです。他の害はありません」

「の、呪いがかかったりしないか」

「大丈夫ですよ」


 テッサの体から力が抜けた。彼女はしがみついている柔かい体を感じた。顔を押し付けていた胸は弾力があった。腕を回していた腰は張りがあった。

「今夜はここで眠りたい」

「戸口に警備を置きます。前室にはニアもおります。安心してお休み下さい」

テッサはカレナードの袖を引っ張った「一緒にいて」

「私の寝台は少々狭いですよ」

「かまわない」

テッサは紋章人がかつて青年であったことを忘れた。


 ガーランドはマルバラ領国の調停完了式に向かって出航し、テネの空から消えた。

 秋が深まる夜にテッサはたびたびカレナードの部屋に通じる扉を開けた。

 ある夜、紋章人はいなかった。月明かりが差し込むホールに彼女の影が踊っていた。床を蹴る皮のダンスシューズが乾いた音をたてた。

 テッサは見入った。伴奏のない紋章人の踊りに目を奪われた。沈黙の中の踊り。かつて夏至祭の舞台でマリラと踊った10曲を次々舞った。動から静へ、静から動へ。あるいは静動静。ピタリとポーズを決め、一瞬のちには宙に跳んだ。滑るような足どり。汗が散った。


 最後の踊りは跳躍の連続だった。カレナードの心は男に戻っていた。振り上げた右脚が頭上を越え、降ろしたところに跳んだ左脚が待っていた。両足が空中で打ち合わされ、パンと空気が鳴った。軽々と跳ぶ紋章人は己を踊りだけに捧げていた。そして、踊りはマリラに捧げられたものだった。


 カレナードは皓皓と照る月に向かって膝を折った。息が荒かった。大窓の外に眼をやり「マリラ」とつぶやき、彼女は床で大の字になった。

 テッサは足音を立てずに近づき、カレナードを覗き込んだ。 


「はっ!」

カレナードは驚きのあまり、上半身を起こした。テッサはその横に座った。

「見事な踊りだった。声をかけてはいけないような気がして……ずっと見ていた」

「いつからご覧になっていたのです」

「廻り念仏に似た踊りから、5曲くらい」

「足音が聞こえませんでした。まるでシェナンディ家のフロリヤさんのようです」

「その人を好きだったの、カレナード」

「ええ、彼女は5年前に航空隊のパスリ少尉と結婚してヴィザーツの人生を選びました。専用飛行機を持っていて、山葡萄色の髪をして、ダンスがお上手で、私を育ててくれた」

カレナードは肩で息をし、もう一度大の字になった。

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