鈴③ ファントム

 すずとキスをした。

 唇を合わせるだけの軽いものじゃない。

 舌を強引にねじ込み、息が続く限り鈴の咥内を蹂躙し、ただ自分がしたいことだけをする。

 呼吸が苦しくなって勢いが減ると今度は鈴のターン。

 暴れん坊な鈴の舌を口に迎え入れて絡め合わせる。鈴の唇が俺の唇を優しくむのを受け入れる。


 唇が離れた一瞬で息継ぎしてはまた同じことを繰り返す。

 いつの間にか抱きしめ合って体を密着させて口だけでなく全身でお互いを感じていた。





「「……はぁはぁ」」


 永遠と思われたキスもやがて終わりの時が来た。

 俺も鈴も肩で息をして消耗した体力を少しずつ癒していく。


 もっとキスしたい。

 間違えた。


 ……?


 えっと、あぁそうか。

 映画見てたんだっけ。キスにのめり込んで夢中だったから全然展開分かんないや。

 とりあえず一時停止を押す。

 ちょっと今は映画どころじゃない。


「キス、すごい」


「ね」


 今からもう一度したいと視線が鈴の唇に向かうけどまた止まれなくなっても困るので泣く泣く断念。

 でも鈴は絶対キスを気に入ってくれたと確信があるので次の機会はすぐに来る。


「私のファーストキス、どうだった?」


「食べられるかと思った」


「それはお互い様だよね」


「だってほら、口の周りベタベタになっちゃったし」


「だからそれもお互い様だよ。むしろちゃんと目つむってた私の方が言いたい台詞!」


「いや、俺だって初めてだったしいっぱいいっぱいだったんだよ」


「それは知ってる」


 知ってたか。

 そりゃそうだ。

 俺だって鈴がキスに夢中だったことを知っている。

 あれだけ没頭していたら当たり前だ。


 軽口を叩きあいながらたかぶっていた心を少しづつ落ち着かせる。

 酸欠気味の頭をぼーっとさせながら現実に戻っていく作業。

 そうして俺は鈴とキスをしたんだと徐々に実感する。


「まぁ、うん。ハマった」


「えへへ。私も」


「鈴、好きだよ」


「私も。洋くん」


 鈴にもらったウェットティッシュで顔を拭く。

 準備いいなぁ。今度から俺も持っていよう。

 火照った顔が気化熱で冷めていく感覚が心地よい。


「奪っといてなんだけど理想のファーストキスとかあった?」


「昨日までは他にも考えてたけど、今は恋愛映画を見ながらキスシーンの時に唇奪われちゃって映画そっちのけで盛り上がっちゃうのが最高だと思ってる」


「既視感あるシチュエーションだね」


「不思議なことにね」


 いや不思議でもなんでもない。

 大満足いただけたようで何よりだ。

 期待以上だったのは俺だけじゃなかった。


「続き、どうする?」


 鈴の言う通りそっちのけで盛り上がっちゃったからいまいち映画に対する集中力が上がらない。

 こんな状態で見るのは作品に対して失礼かも、なんて思ってしまう。



 ここまでは平和だった。

 引き金だったのは俺達がキスをしたこと。

 歯車が狂った訳じゃない、起こるべくして起きた出来事。


「うーん、でもあとちょっとだし、ここで終わりだとちょっともやもやすっ!?」


 急に右足を抑えて蹲る。

 初めて見る仕草。


「どうし……」


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 目の前で大切な人が悲鳴を上げる。

 なのに俺はおろおろするだけで何もできはしない。


「ごめ、ちょっ。……。……足、揉んで」


 慌てて鈴の右足をさする。

 脂汗まで浮かんで苦しそうなのに何が起こっているか分からない。


「大丈夫? どこか痛い感じ?」


ぜんぶ!」


 その言葉でようやく何が起こったかを理解した。

 四肢の切断者の半分以上を悩ませている、存在しない部位の痛み。



 幻肢痛げんしつう



 症状は人によって千差万別で、現代医学でも痛みが発生するメカニズムは検証中、治療法だって明確に分かってない。

 痛みに耐えきれずに叫ぶ鈴に必死に声を掛けながら、早く治まるように祈るしかなかった。






 幸い鈴の幻肢痛はすぐにやんでくれた。

 だけど映画を見る気にもなれず、こんな気分ではデートを続けるのも難しかったのでタクシーを呼んだ。

 鈴はどうってことない、もう大丈夫というけど心配だ。

 目の前であんなに叫ばれてはもう平常ではいられない。


 抱きかかえて運ぼうかとも思ったけど恥ずかしいからやめてと言われて断念。


「……ひょっとしてパンツ見えちゃった?」


「見えたけど、興奮できるような状況じゃなかったよ」


 幻肢痛で暴れる鈴の脚をさすったり揉んだりなんとか痛みを軽減しようと頑張ったんだけど、残念ながらそこまで気を回す余裕なんてなかった。

 こんな状況でさえなければ、と思う気力もない。


「あー。それはちょっと申し訳ないなぁ。せっかく可愛いの穿いてきたのに完全な見られ損」


「強がらなくて良いから」


 強がることすらできない俺が言うのもなんだけど、今はちょっと明るくなれそうにない。

 大変なのは鈴の方なのに申し訳ない。


「あはは。ごめんね」


 困ったように笑う鈴。こんな顔にさせたかった訳じゃない。


 何もできない自分がもどかしかった。

 何も言えない自分がなさけなかった。


 自分を呪っても事態は進展しないと分かっている。

 なのに考えれば考えるだけ思考は自虐の渦に呑まれていった。


 鈴の恰好はもうスカートからジーンズに戻っている。最初と同じようにトイレで着替えようとしてたから俺の方がトイレに行くよとソファやらなんやらを使ってもらった。流石にトイレより着替えにくいということはなかったはずだ。


 鈴は明らかに気落ちしていた。

 それは幻肢痛のことだけじゃなくて俺の対応も含めてのことだと思う。


 動揺した。

 最善の行動なんて今も思いつかない。

 それでも鈴の反応から俺が失敗したことだけは分かってしまう。

 俺は鈴が落胆するようなことをした。なのにそれが何か全く分からない。


 少なくとも一般的に失態と呼べるようなことはしていないと思う。

 幻肢痛は即座に治るようなものじゃない。少なくともAEDみたいな誰でも対応できる万能の応急処置は存在しない。

 これをやらなかった、これができなきゃいけなかった、そんな幻肢痛への対応の誤りはない。


 いやまぁ、取り乱し過ぎかなぁと思う。

 既にケロッとしている鈴を見るともう大丈夫なんじゃないかと期待しそうになる。


 仕方ないじゃんか。

 鈴のあんな姿を見てしまったんだ。平静でなんていられない。


「最後はちょっと残念だったけど、また来ようね」


「……」


 また。

 また来て、次も再発したらどうしよう。

 今まで一度も起こらなかったことが今日起きた。

 幻肢痛が何故今起こったのかは分からないけど同じ場所で同じ行動をとればまた同じことが起こってしまうんじゃないかって怯んでしまう。


「えっと。鈴は他に行きたい場所ある?」


「……。そうだなぁ。試験終わったら夏休みだしどっか遠出したいね」


 外した。

 ツーアウト。

 会話下手くその悪いところだ。鈴の顔がさらに曇ってしまった。一時停止でもしてじっくり考えたいところだけど映画と違って現実はそうもいかない。


 遠出かぁ。

 今日は近場だったしすぐに帰るという手段をとることができた。

 でも一息で帰れない場所だったらどうしようもない。その時俺はどんな行動をとるのだろう。


「ハハ。遠出は学生の身だとちょっとキツイかもね」


 鈴の望みを肯定できない。

 そんな自分が嫌いだ。


 薬を飲めば治まるような発作だったら良かった。

 けど、そんな単純なものじゃない。

 幻肢痛は脳の処理によるものだから余計難しいけどそうじゃない他の病気だってゲームのようないわゆる万能薬は存在しない。

 不幸の根元を断つことがとても難しい。

 ただ過ぎ去るのを待つだけ。


「一応薬とかってあるんでしょ」


「幻肢痛? あるにはあるよ。飲んだこともある。今は飲んでないけどね」


「どうして?」


「副作用と釣り合わなかったから」


 毒と薬の違いは量だ。

 体に影響を及ぼす物質は無数にあり、さらに服用する個人の差も合わせればプロでも判断は難しくなる。素人が口を出して良い分野じゃない。


「神経鈍らせて痛みを止めるだけの価値を感じないんだよ」


「そんっ……」


「私の場合、幻肢痛が起こってもすんっっっっごく痛いのは確かなんだけどそれも長くて1分程度。頻度も高くない。洋くんとのデートの前に思考を鈍らせる薬なんて飲みたくないよ」


 言いたいことは分かる。

 来るかどうか分からない、来たとしてもたったひと時我慢すれば良いだけの痛みのために常時デバフがかかった状態になるような薬なんてそれこそ毒と呼びたくもなる。


 恨むぜ現代医学。

 完全な薬はない癖にまやかしの希望だけは存在する。

 もちろんないよりはあった方が良い。それは分かってる。逆恨みだ。


 幻肢痛は四肢を切断した直後から数か月が発生しやすく、その後時間をかけて頻度と症状が落ちついていくことが一般的だ。

 治るというより発生しなくなっていくもの。


 これは鈴に直接聞いた訳じゃなくてネットに切断者の体験談が書かれていたのを読んだだけだから正確には分からないけど今聞いたことと矛盾はない。


「映画の途中で寝ちゃうのもつまらないし」


「鈴の寝顔は一回見てみたいな。きっと可愛い」


「えー、起きてる時は?」


「起きてる時ももちろん可愛いよ」


「ありがとっ」


 とりあえず薬を飲むことは肯定しておく。

 選ばないとしても選択肢があるだけで救われる。俺の話だけど。

 多分こんな小細工しても鈴は薬を飲まない。もう飲んでいないのが何よりの証拠。せめて飲むことを強要できるくらい症状が重かったらもう少し効果はあっただろうけど今日見ただけじゃ薄そうだ。

 眠くなる副作用を持つ薬は数多くあれどそれを寝る前以外に飲みたくはないのも分かる。


 時間を見るともうタクシーが到着する時間。

 そろそろ出る準備に入ろう。


「鈴、立てる?」


 ソファから立ちあがり鈴に手を伸ばす。

 あんなことがあった直後だ。少しでも鈴を支えたい。




「もぉ。そんな心配しなくても大丈夫だよ」


 差し出した手が




 鈴は言った通り、危なげなく立ち上がる。

 当然だ。

 鈴にとってこの座った状態から立つという行為は特段困るような動作じゃない。


 だけど俺はそれが信じられなかった。

 それほどショックが大きかった。




 出会った直後も


   「ごめっ  「ふふっ。ありがと!!」  」



 水族館でカッコつけちゃった時も


   「じゃあ改めて、お手をどうぞ。我が姫」


   「うん。ありがとう、私の騎士様」



 初めてのデートの時も


   「ねぇ。手、繋がない? ほら私、足こんなだからさ」


   「えっと。俺はただ手を繋ぎたいんだけど良い?」



 付き合ってからは人目をはばかることさえせずに


    ――にぎにぎ、ぎゅっ





 ずっと、鈴と自然に手を繋いでいた。

 俺も鈴もスキンシップは好きで、恥ずかしさはあれど相手に求められたら即座に応じてきた。

 ひょっとしたら一緒にいる時は触れ合っている時間の方が長いかもしれない。そのくらい当たり前のことだった。



 そのはず……なのに。


 初めて、鈴に手を繋ぐことを拒絶された。






 そこから先はあまり覚えていない。


 鈴の家までタクシーで一緒にいって

 鈴のお父さんとお母さんに出迎えられて

 せっかくだから寄っていかないかという申し出を断り

 車で家かせめて駅かまで送るという申し出も辞退して



 とぼとぼと近くの駅まで歩き、そこで帰る気にもならずただ時間を潰していた。

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