第2話

 改めて中から見ても、広い城だった。聖堂のような吹き抜けの廊下、ここだけでちょっとした舞踏会が催せてしまえそう。見上げると左右にニ階、三階の通路があり、この廊下を見下ろせるようになっている。

 視界がどことなく、かすみがかったようにくすんでいるのは、ほこりのせいだ。手入れはおろか、人の出入り自体が少ないんだろう。

 こんなにすてきなお城なのに。

 独特のアーチを重ねて作られた窓から昼下がりの光を、中央の壁画が真正面から受けて照り返す。その周囲や床には美しい格子の影。きっと偶然じゃなくて、すべては計算されたもの。この城の設計者は、光と影のどちらも愛していたんだろうなあ。

 そんなふうにうっとりと、クロース殿について大きな通路のまんなかを歩いていたとき。

 肩に衝撃があった。床に乾いた音が跳ねる。

 痛みよりもまず、驚いた。肩をおさえながらわたしにぶつかった物を見る。

 手のひらほどの木切れ。

「リルザイス殿下!」

 クロース護衛官の咎める声。そこでやっと、木切れを投げつけられたんだ、って理解した。

 その人は左手の二階通路から、わたし達を見下ろしていた。

「クロース、なにやってんの?」

 くすくす、無邪気な笑顔。いたずらをした子供みたいな。陽光を背に受けた彼の髪は先が透けて、濃い色なのにとてもやわらかそうで。

「なんてことを、怪我をさせる気ですか!」

「ごめんなさい……」

 とたんに、彼はしゅんとして、おとなしく謝った。御歳23のはずだけど、それよりずっと幼く見える。無造作な頭や、装飾のないくたびれた白い服のせいだろうか。

「でもおまえに当たらなかったんだから、いいだろう?」

「私じゃありません、ユーラ様に当てたでしょう!」

 そのとき初めて、彼、リルザ様がわたしを一度も見ていないことに気づいた。クロース護衛官の言葉が理解できなかったように、リルザ様は少し不思議そうに首を傾げる。

 そして、あらぬ方を見ると、小さな声でつぶやいた。

「バン・シーが泣いてるよ」

 ささやきほどでしかなかったのに、この広い場所で、不思議なほどよく聴こえる。

「泣き女が泣くのなら……この城の誰が死ぬのかな……」

 禍事を蒔き、この城の王子様は、ふらふらとどこかへ姿を消していった。


 クロース護衛官はぶつけられた箇所を診るかと申し出てくれたけれど、首を振ってお断りする。さすがに肩をさらすなんてことはできない。でも、ってことはここ、お医師も女官も全くいないってこと?

 彼は申し出を引っ込め、視線遠いままにぼそりと語りだした。

「……リルザイス殿下は、2年前、毒を盛られ、心をさらわれてしまいました。まるで子供に戻ったように自由に振舞い、時折狂ったように物を壊します」

 それについては、すでに聞いていたこと。改めて語られる事実を聞きながら、この機に彼の横顔を見つめる。

 黒い髪。黒い瞳。黒国は緑国と親交の深い国だけど、でも、王子殿下の護衛が外国の人間だって事実には違和感を覚えてしまう。

「執務がこなせなくなったこと、また身に危険が及ぶかもしれないという理由から、この城へと移ることになったのです」

 クロース殿が、わたしに向き直った。彼のほうから、意図を持ってわたしと目を合わせる。

「リルザイス殿下には、近づかれないほうが御身のためかと。何か思うところがございましたら、ご実家でも、我が緑国王でも、すぐに早馬を飛ばしますゆえ、このクロースにお言いつけください」

 わたしは返事をしなかった。ただゆるく視線を返し、そのまま外した。

 つまり、離縁したくなったら自分に言え、ってこと。

 口を開きかけ……、あわてて飲み込んだ。そうだ、わたし、話しちゃいけないんだ。

 花呼びっていう、緑国のならわし。花嫁は、嫁ぐ日、夫となる相手に声をかけてもらうまで、口を聞いてはいけない。さっきのリルザ様を思い出す。

 あれ、わたし、いつしゃべれるようになるの?

 思わず呆然としてしまったわたしに、気づいたのか気づかなかったのか。クロース殿は表情そのままに、差し出口の非礼を詫びると、一礼をした。


 わたしに用意された部屋は、南の棟の最上階だった。予想通り、ひとりの女官も控えていない。

「何かご入用でしたら、私に。夕食の用意ができましたらお呼びいたします」

 欲しいものがあっても、口が利けない場合どうやって伝えたものやら。

 案内をしてくれたクロース護衛官は告げるべきことを告げると、また規則正しい足音をさせながら退室していった。

「あの人、文官みたいな格好してるけど……」

「ユーラ!」

「ひゃっ」

 華姫がわたしに向かって突っ込んでできた。いや、抱きついてきたんだけど、あまりの勢いにベッドにひっくり返される。

「い、痛い、華姫っ」

 さっき木切れをぶつけられた箇所を華姫につかまれ、思わず訴える。しまった。

「やっぱり! あのリルザって男、殺してくる」

「いやああっ、待って華姫、お願いだから!」

 ほ、本気だよね! 慌てて彼女をつかみ、大丈夫だと繰り返す。

「ボクが治癒できないの知ってるだろ。怪我なんてしないでよ、ユーラ」

 泣きそうな怒り顔で華姫が抱きついてくる。わたしは彼女の頭をなでながら、抱きしめ返した。

「ごめんね。心配させちゃったね」

 華姫は魔の眷属で、とても強い力を持っているんだけど、傷を治したりすることはできない。だから大事なものが傷つく前に、傷つけてきそうなものは全部排除しよう、って考える。わたしを思ってくれるのはうれしくても、全部排除されちゃうのは困る。トテモ。

 袖をまくって肩の具合を診た。少し皮膚が裂けて血がにじんだ程度。

「うん、こんなのすぐ治っちゃうよ。だからそんなに心配しないで」

 手荷物からハンカチを出して、包帯代わりに縛ったところではたと気づく(自分の肩に巻くのはなかなか難しい)。そうだよ、傷はともかく、服が汚れるのは困る。洗濯だって自分でしなきゃいけないんじゃない?

 このあとわたしの残りの荷物がここに運び込まれるはずだけど、なにを持ってきたっけ。生活をするって視点でこの部屋を見ると、なにもかもが足りない。……これは、大変かも。

「ユーラ!?」

「え? なに、華姫」

 対策を考えはじめた矢先の大声に驚く。なんだなんだって華姫を見ると、彼女のほうこそ、信じられないって顔。

「なに、じゃなくて! まさかまだこんなとこで暮らしていくつもりなのか!?」

「え? だってわたし、ここにお嫁に来たんだもの……」

「夫に木切れ投げつけられる妻がどこにいるんだよ!」

 華姫はわたしの腕をつかむと、宙へと浮かび上がった。

「ちょっと、華姫!」

「帰るぞ、ユーラ。あんなヤツのいるとこでなんか暮らせるもんか!」

「やめて、わたし帰らないよ!」

 じたばた暴れると華姫の手が離れ、わたしはまたしてもベッドに放り出される。

「わかんないわかんない! ユーラ、なんでそんなにリルザってやつが好きなんだよ!」

「やだ大きな声で言わないでよ、恥ずかしいじゃないっ」

 思わず華姫の口をふさぎ、周りを見回す。むがっ、てまぬけな声が上がる。

「離せよ、どうせ誰も聞いてやしないよ! この部屋の周りには誰もいない!」

 そりゃ、わたしが気にするまでもないんだろうけどさ。華姫のほうがわたしの何倍も、生き物の気配に敏感だ。

「そうだよ、誰も、ユーラのこと歓迎してない! さっきのやつだって、来たばっかりのユーラに、出てった方がいいって言ったんだぞ」

 まるで自分が痛いみたいな顔して、華姫が言う。

「……うん」

 そうだね。クロース護衛官は、わたしが木切れをぶつけられたとき、詫びながら殿下をたしなめはしたけれど、決して本気ではなかった。

「ボクはヤだよ! ただでさえユーラが他のヤツのものになるのヤなのに、ユーラを大事にもしないやつなんて、絶対、絶対」

「でもこれ、あっちの望んだ結婚じゃないのよ。わたしはいわゆる、押しかけ女房っていうやつで」

「なんでそうさめたこと言うんだよー!」

 どっかんと爆発する華姫。ああ、かわいい。うれしいなあ。君と一緒にいることは、わたしのわがまま。

「ね、華姫。この緑の国ってね、女は赤い服を着ちゃいけないんだよ」

「……なにそれ」

 立ち上がって、すそをつかむと、わたしは足でリズムをとった。

「それにね、高貴な女性は、踊りも踊らないんだって」

「ユーラ、踊るの大好きじゃん」

「うん」

 旋律を口ずさみながら、大好きな春の踊りを踊る。わたしの生まれ育った青の国で、春がきたことを喜ぶ踊り。

「緑の女性は学問もしないし、武術なんてもってのほか」

「つまんない国だな」

「ね」

 くすくす、笑う。

 腕をあげるとき、肩がちくって痛んだけれど、かまわず指先で空をなでた。

「なんで笑うのさ。ユーラの好きなこと、みーんな禁止されてるのに」

「いいんだよ」

「なにが!」

「いいんだよ。来たかったんだよ」

 この国に。あの人の、いる場所に。

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