死という創造物

138億年から来た人間

第1話

人間の認識は、生命の存続の為には絶対不可欠なものであり、仮に周囲への認知が出来ない生物として人間が生きているとすれば人と人は只の物体として扱われたであろうか。


そこにものがあると認識出来れば当該生物は障害物として認識するか、外敵として排除されたであろう。


「おはよう・・・では、又。」

此れは相手を認知した上での挨拶だが、認識力が全くない人間にとってはそれすら現実では無いのだ。

誰か、何かを差し示すことさえできない。


人、動物。虫。空、海、陸、太陽etc視界の中の物質はすべて存在がない。

認知の出来ない生物には知識が存在せず、かくいう人間の能力も存在しないかもしれない。


火、道具、電気、ガス、水道、家、車。

この世を無くす為に必要なものは、個人の認識であると思えないだろうか?


全ての認識を消してしまえば世界はその存在を無くし、現実という事実さえも存在しえない。




では死とはなんだろうか?


命が無くなる事、生命活動が止まること。あるいは滅ぶ事。命を無くした状態、生命活動が止まった状態、滅んだ状態。其れは認識が無くなった状態ではないだろうか?

また無くす認識が、生まれた時からなければ、既に人類は死の状態にあると言えないだろうか?


人間という生き物が存在しない世界、仮に其れをイコールの関係にしておこう。


人が人としての役割を持たず、生きている価値に気付かない世界。


無知であるとともに感情も生まない。

其処に人間という物が存在していない世界は既にこの社会が崩壊している状態と同じではないだろうか?


つまり人間が存在していない世界其れが死ではないのか?


1つの命に認識が手段を講じる事でこの世界は作られているのだ。

其れが無いと言う事こそ全ての人間の死というものではないかと私は考えるのだ。


詰まり、人間が死という創造物を作る事で、その存在を証明をした事にならないだろうか?

終わらない生命力を其処に残したのは、人間の認識であり、その死は命をも踏破したと思えるのだ。


次の話では、もう少し深堀したいと思う…




其れでは死とは人間にとって終わりの時なのか?という事について考えてみる事にしよう。

生命活動の終わり、息をする、心臓や臓器機能が停止する、脳停止。そこで人間は生きる活動をを終えたといえるのか?

一人の人間が周囲の認識のもとに成り立つとするならば、その人の顔を知っている誰かしらの記憶に残るその人間はどうなるのか?

記憶から抹殺され既にこの世にその面影というものがないという実際の人間からするとおかしな世界になる。

死を迎える、或いは死んだ人とはこの世から消える事ではなく、周囲の認識のもとにあり、擦れ違いにも似た合う事のない人として生き続ける。つまりその死はまだ訪れていないと考えられないであろうか?


死は人間の生命力の転換期としてその生を継続していくのだ。

つまり、人間は永久に生きながらえていきその死はないとするのは言い過ぎではないだろう。


死という創造物はもちろん誰かが作った死という言葉を当て込み、様々な枝葉を持ちながら、時には天国と地獄などと別世界を作り上げてきた。

現在にある異世界なども、死を転機にする場合が多い。


然し、その死というものをすべての人間が認識できなかったら、今あるこの世界に宗教があっただろうか?

また異世界という言葉など生まれてはいなかっただろう。

其れが本当の現実だったら、この世は人の最期は死ではなく、人間はいつか新たな人生を迎えるとしていただろう。


死は恐れおののくものではなくなるのかもしれない。


次のエピソードでは、人間の白骨化について考えを述べてみる。

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死という創造物 138億年から来た人間 @onmyoudou

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