エルナンナ 天罰

f

1.嘆きの臥所


「我を見よ、と孤独が囀る……」


 僕は古い歌を口ずさんだ。

 あたりは岩だらけの白い砂漠が広がるばかり。

 陽の沈みかけた空を見上げると、藍色のヴェールの向こうで星々が輝き始め、遥か高くから風の鳴る音が聞こえた。

 焚火の上のヤカンが湯気を吐いていた。僕は荷袋から乾燥させた香草を取り出し、ヤカンの中に落として煮えるのを眺めた。こんなやり方を見たら母は怒るだろうが、水は貴重だ。それに飲む相手はお茶の味にうるさくない……そう思いながら相棒のティリの様子を見れば、彼はとてもこんがらがった体勢で寝息を立てていた。


 ティリはゴルチャカという種族だ。その姿は何とも形容し難い。大きさは馬の二倍ほど、太い脚は鳥に似て、艶やかな毛皮と房のある尻尾を持ち、身体は猫みたいにぐんにゃりと動くことができた。ラクダのようにたわんだ首の先付いた顔は人間に似ているが、その眼窩を突き破るようにして蝶の翅そっくりなものが生え、瞬きのようにパタパタと動く。翅には目を模した紋があるものの、人と同じように世界を見ているわけではなさそうだった。頭にはロバに似た耳と弧を描く立派な角を生やし、その幅が分かっていないのか頻繁にどこかに挟まったり、無理やり引っこ抜いた低木などをぶら下げていた。口の中には舌と牙があり、食事には喉の奥から伸びる半透明の管を使った。

 彼らは腐りかけた死骸の体液を吸うことを好む。ゴルチャカとは【墓荒らし】の意味で、僕の先祖のバザガーニ族がこの地に来た頃、さんざん墓を掘り返されたためについた呼び名だった。しかし彼らは温厚な性格で、死体を食すが殺しはせず、人の言葉も学べた。彼らと会話できるようになると、バザガーニ族は弔いの儀式を終えた遺体を岩場に放置するようになった。結局、火や土に喰われるのとどんな違いがあろうか?

 一頭のゴルチャカと「自分が死んだら体液をすべて飲んでいい」という契約を交わすと、どこまでもついてくるようになる。僕はティリとその約束をして、一種の友情を育んでいた。


 お茶の香りに誘われたティリが「んぐう」と唸りながら目を覚まし──というか、眼窩の翅をパタパタさせ、長い首をもたげた。


「おはよう」僕は言った。

「ごはん……」

「もう少し待って」

「んー」

 

 ティリは首をそっくり返らせ、角がザクッと砂に突き刺さった。よく筋を痛めないと思う。

 僕は長い角杯を取り出し、半分ほどお茶を注いだ。それから先週寄った町で手に入れた蜂蜜の樽から金色の液体をたっぷりすくって杯に流しこみ、棒でかき混ぜた。ティリいわく、蜂蜜だけだと管が詰まるらしい。

 ゴルチャカは液体なら何でも食べたし、人間の食べ物も盛んに口にするが、何を好むかは個体差があった。ティリは蜂蜜が好きだが、スパイスの効いたスープを飲みたがるものもいる。


「できたよ」


 角杯を置くと、ティリは元気よく起き上がった。


「はちみつ!」


 彼が(正直、ティリが雄なのか雌なのかいまだに分からなかった)口をくわっと開いて管を杯につっこむのを見届けて、僕は自分の食事の準備を始めた。



 僕は《嘆きの臥所ふしど》と呼ばれる砂漠にいた。ここにはかつて魔法の王国が栄えていたが、激しい内乱によって言葉通り消し飛んでしまい、今では絲杉のような岩が佇み鋭い風が吹き荒れる呪われた地だ。砂の下に数多の秘宝が眠っているという噂はあるものの、何かが見つかったという話は聞いたことがない。

 バザガーニ族はその王国の末裔だった。

 僕らの魔力はほとんど失われていたけれど、生まれた時に精霊から力を与えられるという考えは残っていた。力の名は祈祷師によって明らかにされ、それが自分の名前となる。しかし力の意味は釈然としないものも多い。

 僕の力は【ウシュラーラ】というありふれた名前で、人だけでなく獣や自然と語り合う能力と言われている。確かに動物には懐かれるが、それが力のせいなのか確信は持てない。


 僕の父の前妻はよその男を愛し、子を孕んだ。赤子は産まれたが彼女は産褥で死に、相手の男も岩場で足を滑らせて命を落としたという。

 その赤子の力はエルナンナと宣言された。【天罰】あるいは【霹靂へきれき】を意味するが、どんな力か誰も知らなかったので、その親の身に起きた災いこそが力の証とみなされた。

 僕の父はエルナンナを自らの手で育てた。愛情からではなく、彼を見捨てることで自分に罰が下るのを恐れたのだ。

 僕は彼をダナと呼んでいた。【橋】の性質のためか、僕は誰とでも仲良くなれたが、特に彼を大好きになった。彼は優しく賢かった。彼の名の意味を知らない行商人から世界の話を聞き文字を教わり、たまに自分でも羊皮紙に何かを書き連ねていた。僕にも教えてくれたが、文字を一つずつ拾い、歪んだ形の自分の名を記すので精一杯だった。

 僕が何より好きだったのは彼の声だ。バザガーニ族の魔法は歌に宿るというので、ダナは自分の力が悪さをするのではないかと歌を聴かれるのを恐れていたが、その声はただ美しいだけで、何度も耳にした僕が傷つくことはなかった。


 三ヶ月前、ダナは失踪した。彼は僕に手紙を残しており、僕は苦労してそれを解読した。

 ダナは彼の父の故郷を探しに行ったらしい。

 村では誰もその男の話をしなかったが、ダナは何か手がかりを掴んだのだろうか。でも僕には何も話してくれなかった……僕は、彼にとって自分が置き去りにできる過去だということが寂しくなった。

 手紙には彼がこの先どんな道を辿るか、簡単な地図が添えられていた──はっきりした大きな文字と、丁寧に描かれた行商人の道とオアシス都市。ダナ自身の手で書かれたものだ。

 それを眺めながら、僕は考えた。彼は、本当は僕を誘いたかったのではないか? そう思うのは【橋】の名のせいだろうか?

 両親との一週間に及ぶ言い合いの末、僕は兄を追うことに決めた。彼を連れ戻す気はなかった……彼は不満を口にするのを恐れていたが、村の生活が幸福だったとは思えない。僕は彼が本当は何を思っていたのか知りたかった。むしろ、どこかの地で彼が幸せであると確かめるだけでも良かった。もし僕に何かあっても、上の妹は畑仕事に役立つ【芽覚めジャヘト】の名を持つので婿には困らないはずだ。

 七歳の時から十年一緒にいるティリは何も気にせずついてきてくれた。彼としては最終的に僕を食べられれば良かったから。



 《嘆きの臥所》はダナの手紙に書かれた最後の場所だったが、あまりに何もなかった。

 僕が途方に暮れながら固いパンと干し肉をふやかした薄いスープの食事を終えた時、ティリが長い耳をピクリとさせた。


「ララ」

「なに?」

「こえがする」


 耳を澄ますと、確かに風に乗って人の声が聴こえてきた。姿は見えないので岩陰にいるのだろう。

 明るい月に照らされて砂がきらきらと舞った。どうしようか考えていると、ズズズと音を立ててお茶を飲み干しつつティリが言った。


「おんなのこだね」


 こんな場所に女の子がいるなんて変だ。どうすべきか考えていると、彼女が歌っている内容が聞き取れるようになった。


 我が名は【バクメト】 我が鍵は汝の名

 その名を唱えよ 我は開かん


 それは僕の血族の言葉だった──いったいどんな偶然だろう。僕とティリは荷物をまとめ、ひとまず声の主を探すことに決めた。僕は声を頼りに進んだが、向こうも移動しているらしく、なかなか巡り会えなかった。なおゴルチャカは力持ちだが方向音痴なので、ティリは角や樽をガッ、ゴッ、と岩にぶつけながらついてくるだけだ。

 しばらく岩を回りこみ続け、やっと声の主が現れた。

 やはり彼女はバザガーニ族だった。特有の渦を巻く模様が織られた長い上衣に革紐を編んだ帯、金属のビーズを連ねた装身具、飾り紐で綺麗に結われた栗色の髪……予想外だったのは、使いこまれた偃月刀を背負っていたこと。

 少女はその刀に手を伸ばし、鋭い声で言った。


「誰?」

「僕は《黒き岩》のウシュラーラ」

「【ウシュラーラ】ね」少女は頷き、やや緊張を解いた。


 バザガーニ族は【橋】に対して親切に接するきらいがある。橋は渡されているに越したことはないから【橋】とは仲良くしておけ、という謎の迷信のためだ。だから結果的にウシュラーラの名を持つ者は人に好かれているように見えるのでは、と僕は薄々思っていた。


「ララと呼んで。こっちはティリ」


 ティリは「るーらったーた」と無意味な音を出しながら少女にずいと近づいて額にちゅっとキスした。たぶん挨拶のつもりだろう。少女は面食らっていたが嫌そうではなかった。


「私は【バクメト】、《骨の木》の生まれ」


 【扉】は隠されたものを見つける、あるいは新しい道を切り開く力と言われ、普通は職人などに多い……それより、僕は彼女の出身地が気になった。


「《骨の木》って……」

「ええ、今はもうない」


 その村は数年前に北から来た民族の襲撃に遭い、焼かれて灰になったと聞いていた。

 彼女は僕にそれ以上質問させなかった。


「あなたはどうして《嘆きの臥所》に来たの?」

「人を探してる……僕の兄を」

「あなたに似てる?」

「あんまり」


 母親同士は姉妹だったが、僕とダナは似ていなかった。砂色の髪の僕に対し、彼の髪は暗い色で一房だけ白く、泥の上に落ちた白鷺の羽根のようだった。背は彼の方が拳二つ分高く、僕の肌はそばかすだらけ。唯一同じなのは榛色の目だ。

 彼女は問いを重ねようとしてからこう提案した。


「私たちの野営地に来ない? どうせ連れにも話さなきゃならないわ」


 僕とティリは顔を見合わせた。


「はちみつ、ある?」とティリは尋ねた。

「ないけど」とバクメト。

「いく」

「……そう?」


 怪訝そうなバクメトに向かって僕が頷くと、彼女は肩をすくめた。


「じゃあついてきて──ああ、私の連れは《骨の木》を破壊した男よ。ここで宝探しをしてるの」

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