濫觴

 鉛の様に重く閉じ切られる瞼に、鮮烈なまでの茜の斜陽が差して来る。


 その意識は水面から顔を上げる様に浮上する。


「……神楽!」


 自分の事などお構いなしに、神喰は掛け布団を蹴り飛ばして跳ね起きる。


 そこは神喰宅の居間、回収された神喰は再びソファに寝かされていたらしい。


「……神喰、起きたな……良かった」


 そんな心配の色を孕んだ優しい声音の言葉が、神喰の耳朶を打つ。


 その声の主は神喰の傍に立って見守っていたのであろう、アルカナムの物である。


 神喰は自分の異形と化していない右手を確かめる様に開閉した後、アルカナムに疑問を呈す。


「――神楽は!?」


 胸を張り裂く様な焦燥と身を焦がす心配に叫ぶ神喰に、アルカナムは凛として、


「彼女は警察に保護されて、今は近くの病院だが……」


 神喰はその言葉を聞いた刹那に、玄関に向かって走り出していた。


「神喰様!? まだ動いちゃ――」


 そんなフランの声も神喰の耳には入らず、瞬く間に靴に履き替えた彼は家を飛び出していた。


 神喰は自身の容態や自分が怪物であるかもしれないと言う事実を完全に忘れ去って、肺が張り裂けそうになりながら茜に満ちる住宅街をひた走る。


 鮮烈に瞳を焼く夕焼けを置き去りにして、走って、走って、走って、走って――、


 ――気が付いた時、神喰は病室の扉を強く開け放っていた。


「――神楽!」


 神喰は病室の扉を叫びながら開け放って、窓から差す暴力的なまでの斜陽に照らされた病室に踏み入る。


 そこに設置されたベッドに横たわっているのは見紛う筈も無い、治療を施されて安静にしている神楽その人であった。


 身をブルブルと震わせる様な凄まじい焦燥と吐き出してしまいそうな緊迫、神喰の心に深い影を落とす罪悪感や自罰意識、それを心に満たした神喰は神楽に歩み寄る。


「……朔人、来てくれたんだ」


 明らかに憔悴している神楽が神喰を見るなり、そう静かに声を掛ける。


「……神楽……俺は……俺は……本当に――」


 ――『どうしようもない奴だ』と言い掛けた神喰は、皮膚が引き裂ける程に右の拳を握り込んで、神楽の横たわるベッドの傍に顔を歪めながら跪く。


 その表情は逃れる事も出来ない苦悶に満ちている。


「大丈夫、マーリンって人が助けてくれたから。傷も全然大丈夫だし」


 そう神楽は気丈に振る舞って、膝を着いて俯く神喰に微笑み掛ける。


 今にも泣き出してしまいたいだろう、神楽はそれ程の体験をしたのだ。


 そんな神楽の言い聞かせる様な声音の言葉を受けて、神喰はその瞳に涙の幕を張りながら、砕ける程に歯を食い縛って自嘲気味に零す。


「……そのマーリンって奴も……早く助けろって話だよな……神楽がこんな事になる前にさ……早く……助けろよ……! 何してんだよ……! おせぇんだよ……!」


 切れて血が流れ出す程に強く唇を噛んだ神喰は、自身の劣等感と罪悪感、胸中を支配する後悔と絶望に床を射殺す様に睨み付ける。


 そう彼は今、神楽を早く助けられなかった事が強く心に影を落としているのだ。


「――朔人」


 不意に零れ出す涙に視界がぼやけてしまう神喰の耳に、唐突に神楽の優しい声が差して来る。


 その声に弾かれる様に神喰が前を向くと、そこにはベッドから体を起こした神楽が目尻を和らげて神喰を見ている。


「――マーリンさんをあんまり責めないであげてよ、朔人。私はその人に助けられて、凄く感謝している。会って感謝を伝えられないのが悲しいくらいにね。キーホルダーも返してくれたんだよ? その人のおかげでお父さんにもう一度会えたし、朔人にも会えた。これからも生きて行ける。だからさ、今は命がある事を喜ぼう?」


 そのクマのキーホルダーを愛おしそうに眺めながら紡がれる、神楽の太陽の様に温かい言葉が神喰の心を静かに打つと、その直後に感情が決壊する。


 ボロボロと大粒の涙が神喰の瞳から溢れ出して来る。止めようにも止められない涙の流れは病室の床にポツポツと弾けて、まだらな模様を付けて行く。


 神楽のその優しい言葉は、神喰に根付いていた罪悪感や悲しみを全て攫って行った。


「……うぅ……俺は……! 俺は……! 俺はまた……神楽の強さに頼って……!」


 その涙が孕むのは身を切る様な悲しみや苦しみでは無く、純然たる何かに満ちていた。


 ――その感情を神喰は知らない。


「――朔人の泣き虫は変わらないね。よしよし、大丈夫だよ。いつでも頼って良いからね」


 神楽がベッドからゆっくりと出て、蹲ってすすり泣く神喰の背を優しく撫でる。


 その光景は、本来ならば逆であるべきで、どこか”矛盾”している。


 ――神喰の救われた様な泣き声が、茜の夕焼けにいつまでも木霊していた。



 神喰が年甲斐も無く泣き喚くのを終えて病院から出ると、茜の色に満ちる病院前に、アルカナムが立ち尽くしていた。


 涙で顔を赤く腫らした神喰が何を言えばいいのか分からずに黙っていると、アルカナムが凛然として声を掛けて来る。


「……神喰、良い目をするようになったな」


 開口一番にそう告げて来るアルカナムに、神喰は少し微笑を浮かべて、


「この顔が? マジに言ってる?」


 そんな軽口にアルカナムは、手をヒラヒラと振りながら冗談めかして言葉を紡ぐ。


「否定はしないけどな」


「おい!」


 そこで言葉を切ったアルカナムは、真剣さを帯びた紫紺の瞳を向けて、


「――その瞳、もうオマエは立派な怪物狩りだ。称賛するよ。それを伝えたかった」


 ――それは、漸く自身の手で現状を獲得した少年に贈られる、仮初の幸福からの脱却を告げる言葉であった。


 アルカナムから贈られる惜しみの無い称賛の言葉に、神喰は愕然として目を見開くと、柔和に目を細めて言葉を紡ぐ。


「――ありがとう」


 自身が人間か、怪物か、それを考えるのは後でも良いだろう。


 短い間でも怪物となり、人間性を失い掛けて理解した。怪物が怪物を殺す為に動く、そんな”矛盾”している様な情景、それは確かな感情と人間性によって成せるのだと。


 確かに、『怪物』は人々を恐怖に陥れる害悪である。それは疑いようも無い。


 だが、人間と怪物の両者に歩み寄ろうとする意志があれば、分かり合う事が出来る。


 ――そこに”矛盾”は存在しない。


「――さぁ、神喰、今から始めよう」


 そう差し伸べられる『怪物』の手を、神喰は強く握り返す事が出来るようになっていた。


「――あぁ、頼むぜ、相棒」


 こうして、無力な一人の少年は、『異能』の世界に足を踏み入れる事となる。


 ――今、神喰朔人の『怪物狩り』としての人生が幕を開けたのであった。


 零章 了

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