怪異は踊る

 そこは、川沿いの住宅街の中にポツンと存在していた、廃ビルの前であった。


 周辺の建造物の数は比較的に希薄であり、唯一存在感を放つその廃ビルが、天蓋を衝く摩天楼であるかの様にも感じられる。


 呼吸の規則正しい流れを乱させる慄然たる廃ビルを眼前にした神喰は、緊張感によって不快に鼓動を乱す心臓の音を自覚する。彼は頭痛にも似た緊迫を必死に抑え付けて、窓ガラスすら嵌め込まれていない鼠色の廃ビルの正面、その玄関から内部に侵入する。


「結界……大丈夫だよな? フゥ……行くか」


 胸を大きく深呼吸に膨らませて、魔の懐中時計を懐に仕舞しまってから、廃ビルの内部に足を踏み入れる。


 紺色のローブ姿に鬼面と言う奇っ怪な姿で廃ビルの中に足を踏み入れると、神喰は眼前に立ち尽くす複数のローブ姿の男達を視認する。


「……その奇妙な姿……マーリン……いや、神喰朔人だな?」


 廃ビル内に踏み入った神喰の眼前、十人以上の男達の内の一人がそう告げて来る。


 その全員がそれぞれの得物を担って神喰に壮絶な殺意と戦意をぶつけて来るので、神喰は鬼面の裏で少し瞑目した後、覚悟を決めた様に凛然と言い放つ。


「――お前らと会話する気はねぇよ。サッサと掛かって来い」


 ――瞬間、狂信者が急激に神喰との距離を詰める。


 間合いがゼロになった瞬間、狂信者は右手に担った鈍い光を放つ手斧を振り下ろして来る。当たればその頭部を潰して破砕するだろう上からの斧撃に、神喰は左手でその斧撃を制して止めた後、ガラ空きになった狂信者の腹部に強靭な膂力が籠る右の拳撃を打ち込む。


「――ガハッ!」


 肺の中の酸素を絞り出された狂信者が苦悶に叫んで、昏倒しながら後方に吹き飛んで行って壁に激突すると、その狂信者は気絶して完全に無力化される。


(……はぁ、何で俺は人と戦ってるんだ……)


 神喰は心の内でそう重い溜息を吐くと、横合いから飛び込んで来る狂信者を右の裏拳で弾き飛ばして、真正面から長剣を担って突貫を仕掛ける敵対者に前蹴りをブチ込んで黙らせる。


 神喰の右斜め前方、狂信者が右の掌に目を焼かんばかりの壮絶な白光を発生させて、神喰に向けて致命の光線として放って来る。狂いなく神喰の頭部を蒸発させようと迫る玲瓏たる白光に対し、頭を右に傾けて躱すと、神喰は即座に間合いをゼロにして、無属性魔法を放った狂信者の頭に左の拳撃を叩き込んで昏倒させる。


 確かに、アルカナム達との修行の成果は出ていた。

 

 だが、神喰に足りてない物が一つある。


 それは“怪物狩りとしての自覚”であった。


 この期に及んで、神喰は狂信者を殺していない。


 ――そんなちっぽけな倫理観が、彼を殺す事になるとも知らず。


 正面玄関の狂信者を全員退けた神喰は、即座に疾駆を開始していた。


(神楽が居るのはどこだ? そもそも、ここに居るのか?)


 胸を焦がして焼く焦燥に促された神喰は、一階から順々に部屋を回って神楽を捜索するが、そこには誰も居ない。捜索の最中に襲い来る刺客を流れる様に処理して、疾走する神喰は凄絶な風切り音を耳で感じながら、コンクリートの鼠色が空間を占めるビルの廊下を走る。何故だろうか、そこに反響する靴音を煩わしく感じる。


 未だに探索していない屋上へと繋がる階段に足を掛けた神喰は、疾風の如き速度で階段を上がって、上がって、上がって、上がって、


 ――遂に神喰が眼前の屋上に繋がる扉を蹴破って、屋上に足を踏み入れる。


「……来たか。“怪物狩り”のマーリンだな」


 惨憺たる状況に相反して澄んだ色を見せる蒼穹の下、屋上には二人の人物が居た。

 

 一人は手足を拘束されて身動きを封じられた神楽愛咲その人。


 もう一人は神喰を見るなりそう言葉を発して来た、金髪に翡翠の瞳を持つ紫紺のローブを羽織った長身の男。その男を長剣を担っており、先程の狂信者とは比べ物にはならない凄まじい気迫を放っていた。


「――神楽!」


 茫然自失とした神楽に声を掛けて歩み寄ろうとする神喰の頬を、赫々とした紅炎の輝きを放つ火球が掠める。鬼面の右半分を焼いて掠める火球に、神喰は歩みを止めてしまう。


「待て、八坂さんの命令でな、そいつを渡す訳には行かない」


 その凄絶な熱を孕む火球を放った男は、神喰に凛として言い放って来る。


 だが、神喰の認識の全てを奪うのは、酷い痣や暴行の痕を色濃く残す神楽の姿であった。


「――おい、お前ら、この子に何をした?」


 神喰が鬼面越しでも如実に伝わる程の義憤を纏った声音で疑問を呈す。


「あ? 俺は何もやってないぞ? 他の奴らは知らないけどな――」


 面倒そうにそう告げる男に、神喰は轟く怒りのままに叫び声を上げる。


「だから! 何をしたかって聞いてんだよ! 濁した言い方してんじゃねぇぞ!」


 爆発する神喰の焦燥と義憤、彼の嫌な予感は当たってしまったらしい。


「それを聞いて何をするってんだよ? それに一々口にするのは野暮ってもんだろ。これ以上変な事をするなら――」


 ――瞬間、神喰は神楽を小脇に抱えてビルの屋上から飛び降りていた。


「チッ! 馬鹿な真似を!」


 そんな苛立たしいそうな舌打ちの音が神喰の背後から聞こえるが、即座に壮絶な浮遊感と加速度、凄絶に鳴り響く風切り音に音が攫われて何も聞こえなくなってしまう。


 突如、背後から赫々とした光を放つ火球が降り注いで来る。


「――ッ」


 その幾つかに体を焼かれて苦痛の声を上げる神喰だが、強化した肉体でなんとかそれを受けると、着地の凄まじい衝撃が体中に伝わって来る。


(いいぞ、足が折れなかった! これなら神楽と一緒に結界の外に……)


 ――廃ビルから脱出して無事に着地を敢行した神喰の眼前、噴煙を上げて悠然と着地をして来るのは、先程の男であった。


「逃げんなよ。自己紹介がまだだろ? 渡辺、たった今から、お前を殺す事になった男の名前だ。冥土の土産にくれてやる」


 残酷で酷薄な光が灯る瞳で睥睨した渡辺が、鋼の閃光を纏った長剣を神喰に向けて言い放つ。


(クソ! 追い着かれた! だったら……)


 目の前で悪魔の様に微笑を浮かべる渡辺には目もくれず、神喰は神楽を地面に降ろしてその拘束を解くと、静かに声を掛ける。


「君は走って逃げてくれ、俺が時間を稼ぐから。――後、これ、返しておくよ」


 そう神喰が目尻に少し涙を溜めながらも優しく言葉を紡いで、紺色のローブの懐から神楽のスマートフォンに付いていたアクセサリーを彼女に手渡す。


 眼前の渡辺から目を離して、神楽に言葉を掛ける神喰の声音は優しくもあり、寂寥や焦燥、悲壮な決意を孕んでいた。


「……え? 何で……?」


「…………いいから! 走れ! 早く!」


 疑問を呈そうとした神楽の言葉を叫んで遮ると、神喰は強い踏み込みで渡辺に接近する。


 その咆哮に促されて、アクセサリーを受け取って走り出す神楽に渡辺は、


「――チッ、行かせる訳ねぇだろ」


 悪態を吐いて左手に煌々とした火球を発生させる。その空間を一気に灼熱と化させる凄まじい火球の宛先は勿論、逃走する神楽である。


(何考えてんだ! 神楽が死んで困るから、今の今まで生かしてたんじゃないのか!?)


 そんな心の内の叫びとは裏腹に、神喰は無意識に駆け出していた。


 何をしようとしているのか、彼自身も無意識に理解していた。


 ――神喰は、神楽に迫る火球に腹部を貫かれていた。


「――グッ!」


 神喰の腹部に残酷にも直撃して、急激に勢いを強める火球が、壮絶な爆炎を炸裂させる。


 ――瞬間、神喰の体を支配する凄まじい熱によって、腹部を中心に爆ぜた様に白い痛みが襲い来る。グチャグチャに爆ぜて混ざり合った腹部が焼け爛れ、大気に触れるだけでも針を刺す様な激痛が神喰を襲う。


 それは残酷なまでの致命傷であり、放っておけば確実に死に至るだろう。


「――グッ、うわぁぁぁぁぁぁぁ!」


 余りの激痛に視界と意識が明滅する感覚、涙と絶叫に神喰の顔が醜く歪んで行く。


「ハッ、ほらな、庇った」


 嘲笑に鼻で笑う渡辺の言葉が神喰の耳朶を打つ。


 だが、神喰は未だに立っていた。


「……まだだ、俺はまだ立ってる。神楽を捕まえるのは、俺を殺してからにしろ……!」


 狂気に血走った瞳で渡辺を睨み付ける神喰の息も絶え絶えな言葉に、


「おぉ、こわ。だったら、そうさせて貰うわ」


 渡辺が凶悪に頬を歪めて言い放つ。


 ――瞬間、渡辺が狂気に見開いた瞳で神喰を捉え、即座に間合いをゼロにする。鋼の様な冴えを持った渡辺は長剣を鋭利に横に薙ぐ。美しい銀の閃光を纏う致命の斬撃に、神喰は左腕を割り込ませて防ごうとする。キィィィィィンと言う本来ならば鳴る筈の無い甲高い金属音を立てて衝突する左腕と長剣、神喰は余りの膂力に耐えられずに横合いに吹き飛ばされる。


(『エンハンス』で防がれたか。ただのガキじゃないって訳だ)


 横合いに矢の様に飛んで行く神喰は蹴鞠の様に跳ねて行って、遂にその体は家屋と家屋の間の開けた空間で加速度を殺し切る。全身の筋肉が軋み、骨が砕ける快音が如実に神喰に響いて来る。


 ――神喰の背中を、死が優しく愛撫していた。


 明らかに、死に至る傷である。


 もう既に神喰の体は腹部の臓器が爆ぜてブチ撒かれ、数多の打撲に骨折、衝撃による脳の損傷、彼はもう限界だった。生きているのが不思議な致命傷、神喰は体を動かせずにいた。そこに、神喰について一切の感情を抱いていない瞳を輝かせる渡辺が追い縋る。


 神喰の脳裏には、死と言う純然たるただ一つの言葉が過る。


 だが、神喰は必死に体と心を震わせる。


「アアァァァァァァァ!」


 そんな大気を震わせる叫喚を喉から絞り出した神喰は、眼前の不俱戴天の敵を破壊しようと右の拳撃を放つ。


 ――だが、その拳撃は遂に意味を成す事は無く、神喰の右腕は鋭利に切断されていた。


 クルクルと宙を舞う二の腕の辺りから切断された右腕。それを呆然と眺めた神喰の右腕の切断面からは黄白色の神経や暗赤色の血管を覗かせて、一拍遅れて夥しい程の血液が噴出する。


「あ……あぁあぁぁぁぁあぁ!」


 神喰は噴出する鮮血が顔を汚した時に始めて、右腕の切断に気が付いたらしい。体を支配する凄まじい激痛に泣き叫ぶ様に絶叫する。


 遂に神喰は自身の血が溜まる地面に膝を着いて、俯いてしまっていた。


 神喰の思考に流れて来るのは、今までの様々な追憶である。


(……これで……良いか……こんな俺でも……少しは命を張った価値があった……)


 神喰はそう強く自分に言い聞かせる。


 ――だが、神喰に湧いて来る幸せな追憶は、自己暗示の現実逃避を許さなかった。


 ――彼は、生きていたいと願うようになっていたのだ。


 神喰は血液や涙で顔をグチャグチャにして、残った左手で顔を強く拭いながら、


「俺、勘違いしてた……! 異能の世界に入るって事を! 戦場に身を置くって事を! アルカナムから自分の呪いの正体を聞いた時、俺は結局! 誰かが俺と一緒に居てくれるって事に釣られて、この世界に入ったんだ! 友達が増えて! このままでも良いって、思ったんだよ……! 人を殺す勇気も無い癖に! 戦う気も無かった癖に! 俺は! 自分の呪いを人と繋がる口実にしたんだ! その呪いで人を失った癖にな! 俺はまだ……死にたくない……! 生きていたい……!」


 ――結局、彼に戦う覚悟など存在しなかった。


 神喰の身を切る様な号哭、無様に涙で顔をぐしゃぐしゃにした醜悪な独白。


 もしも、これが戯曲なら、なんて酷いストーリーだろうか。


 逃げる事も出来ず、立ち向かう事も出来ず、ただ無為に命を散らすのだから。


 無様で、醜悪で、矮小な少年の独白は、人々が聞けば嘲笑を誘うだろう。


 それは当然、眼前の渡辺も例外では無い。


 立ち上がって醜悪な言葉を叫ぶ神喰に向けて、


「そうかよ。ここに来る前にそれに気付けたら、もっとマシな結末だったんじゃねぇの?」


 ――瞬間、渡辺は神喰に瞬きの内に接近して、その顔面を縦に裂いていた。


 振り切られる縦の斬撃によって、神喰の着ける鬼面は綺麗に真っ二つに割られ、その鬼面の右半分は地面に落下した。顔面を縦に裂かれて血を噴出する神喰に、渡辺は容赦なく長剣の刺突を放つ。


 ――次の刹那、神喰の命の淵源たる心臓は渡辺の長剣に刺し貫かれていた。


 自身で作った血のカーペットに仰向けに倒れ込んだ神喰は、無音の渦中にて壮絶な痛みすらも感じる事は出来ない。あるのは、胸中を支配する孤独感と喪失感であった。遂に神喰の瞳は光を反射する事は無くなり、心臓の鼓動も完全に停止した。


 ――神喰朔人の命は、ここで一度失われたのだった。



 揺蕩たゆたっている。


 生と死の狭間を魂が揺れ動いて、どちらに傾こうかを決め兼ねる様に。


 その視覚には何も無い。闇と言う概念すらも烏滸がましい程の虚無である。


 その聴覚は一切の音を拾わない。耳鳴りすらも煩く感じる程の無音である。


 その嗅覚は他の全ての存在を感知しない。現世では何と沢山の匂いがあっただろうか。


 その触覚は自身の存在を不確かな物にする。もう自身と言う物の境界は無いらしい。


 その味覚は唾液の味すらも捉えない。実体の無い存在と成り果てたからだろう。 


 きっと、これこそが“死”なのであろう。


 脳が無い筈にも関わらず、放り出された唯一の意識。


 だが、そんな虚空の渦中に声が差して来る。


 確かに聴き取る事が出来ない、水中でぼやけてしまっている様な残響を持った声である。


 存在しない筈の耳朶を打つ声、それを一言だけ明瞭に聴き取る事が出来た。


「思い出して――」



 神喰が完全に沈黙して、急激に訪れる静寂。渡辺は神喰から完全に興味を逸してその場を後にしようとする。


 ――その次の刹那、渡辺の背後に吹き荒ぶ様な慄然とした鬼気が発生する。


「――何だ……」


 凄絶な旋風の如き狂気を纏った気配に肌を粟立たせた渡辺が背後に振り返ると、そこに存在したのは死神であった。その頭部は炯々とした赤い眼光を放つ完全な骸骨であり、その体は灰色の包帯に覆われた様な気味の悪い姿をしていた。背には黒色のカラスの様な翼が一対生えており、その頭部には血で構成された天使の輪の様な物が浮いている。


 黒色のローブを羽織った死神の様な異形は、神喰の傍からぬるりと這い出て来ると、渡辺の左足首を右手で掴み取って、グイグイと引き摺って来る。


「――!? 何だコイツ!?」


 渡辺は倒れ込みながらも、焦りに目を見開いて懐から拳銃を取り出すと、死神に対して拳銃を発砲するが、その銃弾は全て甲高い金属音を立てて死神の体に弾かれる。


(クソ! やっぱり銃弾は効果が無い!)


 心の中で悪態を吐いた渡辺は拳銃を杜撰に投げ捨てると、その死神を強烈に蹴り付けて拘束から脱して距離を離す。


(この死神……神喰朔人と無関係とする方が不自然か?)


 慄然とした凄絶な鬼気を放つ死神が、嘲笑う様に骸骨の歯をカチカチと鳴らすと、その両手には禍々しい大鎌が握られていた。面食らって思考が一瞬だけ途切れる渡辺に、死神は間合いの外で大鎌を振るう。ギィンと言う生物を容赦なく断つ異質な金属音を鳴らして、空虚に振り切られる大鎌の結果は即座に訪れる。


 ――大鎌が振り切られた刹那、渡辺の腹部は横に斬り裂かれていた。


(――!? 当たってないだろ!?)


 急激に勢いを強める血流を止めようと左手で腹部を押さえる渡辺は、余りの斬撃の威力に後ろに仰け反ってしまう。その隙に死神は神喰の傍にまで近付いて行って、その灰色の左手を神喰の貫かれた胸に当てる。


「……何をしている? やめろ!」


 渡辺は直感で“良くない事”が起きると判断した。


「思い出して――」


 ――そんな声が響いた瞬間、神喰を中心として、美麗な色彩を持つ蒼炎が爆裂する。吹き荒ぶ烈風の様な蒼き爆炎は、凄絶な轟音と爆風を伴って炸裂し、周辺の住宅や廃ビルを吹き飛ばして焦土と化させて行く。その蒼炎に巻かれて、死神はどこかに消えてしまった。


「何が……起きてる……」


 余りに壮絶な蒼炎に目も開けられない渡辺が、眩い青の光が徐々に収まった事で漸くその瞼を開く事が出来る。そこは蒼炎が地面を未だに焼き尽くしている、灼熱の熱波が吹く開けた路地であった。


 ――そこには蒼炎に巻かれて立ち尽くしている人物が一人存在していた。


 その人物は神喰朔人に間違いは無い。


 だが、その姿は異形の者であった。


 鬼面が半分に破壊され、右半分だけ晒された神喰の顔面、その右の白目はインクを垂らした様に黒色に染まっており、そこに浮かぶ瞳は紫紺の色に染まっている。その頭部の右半分からは漆黒の角が一本飛び出していた。再生している右腕は漆黒の色に染まり切っており、そこには鋭い鉤爪が露になっている。彼の胸部には右半分しか無い同心円状の蒼い文様が浮かび上がっている。神喰の背の右半分からはどの生物か判別が付かない、黒色の翼が一つ蠢いている。


 体の右半分は異形、左半分は人間の形を保った不気味な生命体が、渡辺の前に立ち塞がっていた。


(……こいつ……怪物だったのか……)


 余りに常識を外れた異常な光景にゾワッと戦慄している渡辺を置いて、神喰は茫然として自身の生えている右手を眺めていた。


(……誰かが思い出させてくれた。『死齎秘法』の本当の効果と俺の体の使い方を……)


 ――瞬間、神喰は未だに脈打つ心臓の鼓動に歓喜して、渡辺に向けて疾駆していた。


 瞬きの内に距離を詰めた神喰は、驚き呆然とする渡辺の顔面に拳撃を炸裂させる。


 右の拳撃が炸裂して、轟音を立てて渡辺の体は弾かれた様に吹き飛んでいた。


(さっきまでの肉体スペックじゃない! 化け物みたいな筋力だ!)


 路地から弾き出されて、道路に躍り出る渡辺は痺れる様に痛む顔面をパッと上げる。


 神喰は泰然として路地から歩み出て、凪の水面の様な心で眼前を視界に映す。

 

 ――そう、自分は今から一人の人間を殺すのだ。


 それを心の奥底で理解し、覚悟を持つ事が出来た。


 ――神喰朔人の精神は、死に瀕した事により、怪物狩りとして昇華していた。


 ――もう迷いは無かった。


(俺が例え人間だろうが、怪物だろうが、今はどうでもいい。今はただ……目の前の敵を殺す)


 その紫紺の瞳には、底冷えのする様な冷たい殺意があった。


 ――瞬間、神喰の両手に禍々しい鬼気を放つ大鎌が出現する。


 蒼炎を纏って出現した大鎌を担った神喰は道路に歩み出て、眼前の渡辺に得物を向ける。


「――行くぞ、命を散らせ」


「――もう一度その心臓を貫いてやるよ」


 ――刹那、神喰は渡辺の眼前に出現していた。


 そのまま忌々しく唸る様に大鎌を構えると、渡辺に向けて素早く横に薙ぐ。大質量を伴った高速の鎌撃れんげきを渡辺は長剣で受け止めて、過剰な膂力に少し後退りする。


(大鎌の生成……これは権能か! 今の今まで何故温存していた!)


 凄まじい金属音と火花を上げて、両者の距離が離れる。


 ――神喰朔人の権能、『死齎秘法』。


 それには更なる真価があった事を神喰は何者かに教えられた。


 神喰は『命力めいりょく』と言うエネルギーを得る。


 その命力を使用して、大鎌の生成や肉体の治癒と言った現象を発生させる。命力は自身が魔力の様に元々保有している分とは別に、他者を傷付ける事でも獲得する事が可能である。そして、怪物に対しての特攻ダメージと怪物の性質に関わらずダメージを与えると言う効果。更に怪物に関わらず傷付けた相手に再生能力低下を付与する事が出来る。


(クソ……『ヒーリング』で傷が再生しない……これが奴の権能か?)


 ――瞬間、神喰は弾かれた様に渡辺に接近する。


 間合いがゼロになった刹那、暴風の様に吹き荒ぶ鎌撃が渡辺を襲う。神喰より放たれる鎌撃の嵐を渡辺はなんとか捌き、躱し、穿ち、逸らし、致命の鎌撃の嵐を回避して行くが、徐々に手傷を負わされて行く。直上、放たれる大鎌の振り下ろしを長剣で受け止めた渡辺は、全霊の力を込めてそれを弾き飛ばすと、神喰から大鎌を手放させる事に成功する。


 武装を失った神喰に長剣の刺突を放つ渡辺であったが、その顔面を狙った刺突を神喰は紙一重で躱した後、その異形の右腕による拳撃を見舞う。痛烈な音を鳴らしてブチ込まれる拳撃、神喰はそれと同時に叫び声を上げる。


「――『死齎秘法』!」


 そう叫んで渡辺を拳で吹き飛ばすと、渡辺の顔面に異常な変化が起きる。


 ――次の刹那、渡辺の顔面に引き裂ける様に醜い裂傷が刻まれる。


「――グッ……ウガァァアァァァ!」


 そう『死齎秘法』が命力を得るには他者の負傷が必要であるが、その順序は“逆”でもいいのだ。神喰が生身で触れる事で直接命力を奪い、その後に負傷を発生させる事も出来ると言う事である。それには凄絶な激痛が伴う。


(元々持っていた命力は殆ど尽きた。このまま命力を溜めれば……)


 余りの痛みに絶叫する渡辺に追い縋った神喰は、面食らう渡辺の体に拳による連撃を叩き込む。バキバキと言う壮絶な肉と骨が軋む音を鳴り響かせて、神喰の拳撃は渡辺を破壊して行く。その致命的な威力の拳撃を長剣で受け止めた渡辺は、神喰の拳を弾いて距離を取ると、左手に灼々とした紅の光を放つ業火を携える。


 一気に空間の温度を引き上げて、周囲を燃やし尽くす業火が神喰目掛けて放たれる。大気を熱して灼熱の地獄に変える業火を神喰は目の前にして、その右の拳撃を放つ。大気を穿つ神喰の右の拳撃は、その業火と衝突し合って、遂にその火球を弾き飛ばす事に成功する。


「弾いた!?」


 渡辺が驚愕に目を見開いて叫ぶが、その直後に気を取り直して魔の符丁を諳んじる。


「――『ヒーリング』!」


 その魔の符丁に従って渡辺の体に刻まれたあらゆる負傷は、凄まじい熱に血の蒸気を噴いて再生する。


 負傷を再生させた渡辺は真剣さを帯びた顔で長剣を構える。


(奴の変化、確かに驚いたが、能力自体はそんなに強い物じゃない。奴に高火力の攻撃手段がないなら、依然としてこちらが有利!)


 ――互いに凄絶な鬼気を雷電の様に迸らせれば、緊迫と戦意に満ちる烈火の戦場にて、最期の刹那が幕を開ける。


 渡辺が先手を打って来る。左手より発生する赫々とした爆炎を神喰に放って、それと同時に風の様に疾駆する。仇敵を焼却して塵も残さず灰燼に帰そうと迫る業火に、神喰は前方に走り出す過程で右の拳撃を放ち、眼前まで迫った火球を横合いに逸らすと、渡辺との距離はゼロになる。


 神喰の目と鼻の先、渡辺が銀の閃光を纏う高速の斬撃を叩き込んで来る。穹窿の底で乱舞する銀閃を神喰は強化した両腕を用いて捌き、穿ち、逸らし、弾き、振り下ろしの斬撃を交差させた両腕で受け止めたが、渡辺の全身全霊の剛腕によって後ろによろけてしまう。その隙を見逃さない渡辺が鋼の如き冴えを以て鋭い刺突を放ち、その大気を穿つ刺突は確実に神喰の胸を刺し貫く。


 胸の中心から噴き出す鮮血を気にも留めず、神喰は渡辺の腹部に蹴撃を打ち込む。その余りの威力に体がくの字に曲がる渡辺が、吹っ飛ばされて神喰との距離を強制的に離される。神喰が体勢を整える事を許さず、渡辺が転びそうになりながらも前進すると、


「――『命禍礼賛めいからいさん』」


 ――刹那、渡辺の体は発散される蒼炎に巻かれて吹き飛ばされていた。


 神喰の左手の指に蒼き光芒を放って発生し、天蓋を瑠璃の色に瞬かせて急激に勢いを強めた蒼炎が、渡辺に猛烈な勢いで喰らい付いた。前進していた影響で躱す事すら出来ない渡辺は、前方から天蓋を覆い尽くす様に迫る蒼炎に巻かれて後方に吹き飛ばされる。


 ――瞬間、眩い光を放つ蒼炎が急激に膨張すれば、次の刹那に爆炎と轟音を迸らせて、穹窿の白雲を吹き飛ばす様に爆裂する。


 その蒼き爆炎が鳴りを潜めた住宅街にて、蒼炎が地面から立ち昇る焦土には悠然とした神喰朔人と倒れ込んだ渡辺が存在していた。


 渡辺は右目の辺りを激しく抉られ、上半身の右半分を完全に吹き飛ばされており、その傷からは妖しく揺らめく蒼炎に焼かれた所為で臓器や血液すらも吐き出す事が出来ない。


(駄目だ……『ヒーリング』が使えない……この炎も再生能力低下の効果があるのか……)


 ――鬼面を被った異形の怪物は、純然たる死を齎していた。


 神喰は狂気に呑まれて血走った瞳で睥睨しながら渡辺に歩み寄ると、その命脈を確実に絶とうと手刀を振り上げる。


 ――その姿は、紛れも無く『怪物』であった。


「……おい、待て……待ってくれ! やめろ!」


「――ハッ」


 醜く血液を吐いて命乞いをする渡辺の声を気にも留めず、神喰は彼を鼻で笑って手刀を振り下ろすと、その凄絶な威力が籠る右手によって渡辺の体はブチブチと言う音を立てて縦に引き裂けて、完全に沈黙した。


 そこで漸く、蒼炎に包まれた焦土に静寂が訪れた。


 静謐さに満ちる住宅街にて、徐々に人の形を取り戻す神喰は、妙に澄んで見える蒼穹を仰いで言葉を紡ぐ。


「……神楽……大丈夫かな……」


 限界を超えて肉体を動かした為だろうか、徐々に霞が掛かる視界と朧になって行く意識。


(俺……あいつらに並べたかな……)


 最後に『ホコタテ団』の面々を思い描いた神喰の意識は、暗中に沈んで行った。


 ――くして、『空虚なる黄昏教団強襲作戦』が幕を下ろしたのだった。

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