黄泉帰

 静謐で一切の音を発さない地下室から突如として響き渡る、鈍く凄まじい轟音に神喰は驚いてその音の方向にパッと目を向ける。


 いや、向ける必要など無かった。


 それは単純、件の棺の蓋が凄まじい勢いで天井まで吹き飛んで行った音だったのだから。


 近くで起きた明らかな異常現象だったが、八坂はそれに反応する事も出来なかった。


 何故なら、天井にぶち当たって軌道をずらした棺の蓋がそのまま大質量を伴って落下して来て、八坂に直撃してしまったからだ。


「ギャァァァァァアァ!」


「八坂さぁぁぁぁああぁん!?」


 頭に直撃した蓋に下敷きになってしまう八坂の容態は、明らかに致命傷だろう。


 普通の人間が重量のある落下物を頭部に受けて生存するのは、相当な難しさだ。


 神喰は八坂を下敷きにする蓋を力任せに投げ飛ばして、彼女の状態を確認する。


「……なんか生きてる……」


 八坂は白目を剥いて完全に気絶してしまっているが、何故か出血すらしていない。


(それでも骨とか脳にダメージがあるかもしれないし、早く病院へ……いや、それよりも棺の中身の確認か? ここで怪物が出て来ても困るぞ……どっちだ……? ……いや、こんな異常現象が起きてんだ、棺に何か変化が起きたと考える方が妥当……)


 そこまで考えた神喰は蓋が吹き飛んで余り時間が経っていない棺の方に歩み寄り、完全に封が解かれた棺の中身を視界に映す。


 ――そこには確かに、人が安置されていた。


 それは、神の寵愛を一身に受けたと言わんばかりの、震える程に可憐な少女であった。


 綺麗な艶が入り、肩口で切り揃えた濃い藍色の短髪は、その前髪を水色の髪留めで留めている。


 白雪の様に透き通る白い肌に、女性らしい起伏に富んだ柔らかな肢体を包むのは、少しボロボロになった由緒正しき給仕服である。


 メイド服に身を包んだ可愛らしい印象を与える可憐な少女は、その両手を胸の前で組まされており、明らかに死人の扱いをされていた。


 そんな少女の顕現に神喰は不気味な思いをせざるを得ない。


 これが150年前の代物ならば、中の遺体は確実に白骨化している筈であるにも関わらず、非現実的な程に美しい状態のその死体は神喰の心を竦ませる。


「……本当に死んでるよな……? 息してないし……」


 その少女の豊かな胸が呼吸によって上下していない事は、誰の目から見ても明らかな事実であった。


 神喰は死人に申し訳ないと思いつつも、気持ち悪いと言う感想を抱いていた。


 余りに現実離れしている光景に愕然としていると、神喰の本能の警鐘が喧しく鳴り響く。


 その頭痛にも似た感覚は久しい物ではなく、グールと出会った時と同質の物である。


 緊張の糸がピンと張られて、外界の全てに敏感に反応出来る。


 猛烈な勢いで精神を擦り減らすそれの成果は、すぐに訪れる。


 ――刹那、少女の眠る棺から吸い込まれる様な漆黒が這いでる。


 眩い光を嫌う様に壮絶な黒色を放つ霧の様なナニカが棺から溢れ出し、神喰を暗中に取り込もうとその腕を伸ばすので、神喰は気絶している八坂を担いで即座に棺の傍から離脱する。


 神喰がサッと跳躍して飛び退いた先で見た物は、異形の生命体。


 天井にまで届く濃い黒色の霧が意思を持って一点に集約して行き、生命を真似る様に形を成して行く。


 それは、黒色の霧や煙を人の形に成形させた様な忌々しい生き物モドキであった。


 その人型から発せられる手足を痺れさせる瘴気は禍々しい異質さで満ちており、頭部と思わしき箇所からは暗赤色の眼光が幾つも光を放っていた。


「……幽霊?」


 神喰は怪物の知識に乏しい為、その様な杜撰な判断しか出来ないが、一つだけ確かな事実がある。


 その人型が純然とした敵意を持ってこちらを睥睨している、と言う確固たる事実である。


 神喰がその戦々恐々とした事実を認識した瞬間、人型が自身の肉体の体積を爆発的に増加させ、黒々とした煙の様な肉体を神喰に向けて放って来る。


「――チッ! 早速かよ!」


 その大質量の体躯による押し潰しにも思える攻撃に舌打ちをして、神喰は腰に差してある長剣を焦りながら抜き放つ。


 黒々とした深淵を映した黒煙が迫る。


(集中しろ……練習通りやれば……)


 圧死してしまうと錯覚する程の風圧が吹き荒ぶ混迷の渦中にて、神喰は脳に魔術言語を書き出して行く。


 驚く程に滑らかな脳の演算処理により、心臓を掴まれた様な寒気は刹那、その直後に肉体は凄絶な熱を孕む。


 その熱に促されるままに神喰は眼前に迫る黒々とした煙の壁に左拳を叩き付ける。


 大気を穿って直撃する拳撃は肉を破壊する鈍い快音を響かせて、黒色の霧を押し退ける。


「――ギィヤァァァァアァ!」


 神喰の拳が人型を穿てば、建物を震わせる程の甲高く耳障りな叫喚が轟いて来る。


(幽霊ってあんな風に叫ぶもんか? てか、手応えが幽霊っぽくないな)


 神喰に伝わった感触は、肉体のある生き物を無慈悲に破壊する不気味な感覚。


 それはまるで、見かけが黒い煙の様であるだけで、それ自体には確かな実体が存在するかの様であった。


(これも『死齎秘法』の効果か)


 そんな事をぼんやりと考えるいとまは神喰にはない。


 醜い叫び声を上げる人型は不自然にブルブルと震えて、神喰に突貫を仕掛けて来る。


 そのバタバタとした疾走により、神喰との距離はすぐにゼロに変わる。


 人型は大気を鋭利に裂きながら、その右の鉤爪を横に薙ぎ払って来る。

 

 それは命中すれば生物を容易く引き裂くだろう致命の爪撃。


 狂気を以て振るわれる爪撃を後ろに身を逸らして回避した神喰は、返礼に不格好な斬撃を見舞う事とする。


 暗澹とした地下室の光を受けて鈍く光る長剣の斬撃は、人型の腹部を横に薙ぐ。


 薙ぎ払った斬撃の威力に後ろに仰け反って距離を離す人型だが、その裂けた様な傷はボコボコと煙が充満する様にして即座に完治されてしまった。


(……やっぱり、『死齎秘法』の効果を剣に乗せるのは無理っぽいな……『エンチャント』を込めたけど有効打になってない。半端な練度の剣じゃ逆に隙を与えちまう)


 神喰の冷静な分析を見て厄介と感じたのか否か、人型に変化訪れる。


 その幾つもの眼光が煌めく頭部に裂ける様にして付いている口をグワァっと広げた人型は醜悪な笑みを貼り付けて、その深淵に繋がっていると錯覚させる口腔に変化を起こした。


 ――瞬間、人型の口腔が陰りの入った仄暗い光に満ちて行く。


「――!」


 神喰の全身の肌を粟立たせるそれは、光と言う枠組みを超えて意味のある形に昇華して行く。


 それは、触れた者を悉く焼き溶かす破壊の顕現だ。


 人型の口腔から仄暗い光を放つ光線が、甲高い発射音を伴って射出される。


 一気に地下室の陰惨とした空気を狂熱に一転させ、電灯の明かりを悉く塗り替える光の顕現に、神喰は横合いで気絶している八坂を拾って、決死の回避行動を開始する。


「そんなのありかよ!」


 窮境に叫ぶ神喰は八坂の収集品を蹴飛ばし、破壊し、吹き飛ばしながら地下室の外周を壁沿いになぞる事となる。


 その致命の光線が壁や収集品を残酷になぞると、壮絶な熱量に焼き溶かされて切断される。


 それは、命中した際の神喰の末路を如実に示していた。


「これ邪魔ァ!」


 神喰の眼前に立ちはだかる八坂の収集品は、神喰の逃走を確実に阻む障害物と化していた。


 息を切らして疾駆して、悪態に叫ぶ神喰の眼前に巨大な銀製の像の様な物品が差し掛かる。


 その禍々しい笑顔を貼り付けた人間の像を回避しようと横に体を持って行くと、八坂を抱えている為かバランスを崩して転倒してしまう。


 素早く疾走していた事が災いして、壮絶な衝撃を伴って転倒してしまう神喰の体は蹴鞠の様に跳ねて行って、加速度を殺し切れずに目の前の壁に激突してしまう。


「――ガッ!」


 その転倒で八坂を振り落としてしまったらしい。


 突き抜ける衝撃は意識を明滅させる凄絶な物であり、苦しみに蚊の鳴く様な声を上げる神喰は迫る死を忌々しげに視界に映す。


 ギィィィィィンと言う甲高く耳障りの音を立てて、壁を凄まじい勢いで削って迫って来る仄暗い光線が、神喰を捉えようと光度と速度を高めて行く。


 神喰は死の確実な実感に心臓が異常な拍動を持って行く。


 その光線が神喰の首に迫り、ジリジリと筋肉と脊椎を焼き溶かして切断し、神喰は愚かしい無残な死体に――、


「――ッ!?」


 神喰の命脈はその淵源を断たれる事は無かった。


 呆気に取られた神喰は驚愕に目を見開いてしまう。


 ――瞬間、地下室に底冷えのする凍て付く冷気が満ちて行く。


 それは精神的な寒気や怖気と言った曖昧な物ではなく、もっと直接的に体を震わせる物理的な冷気であった。


 遍く万物の肉体を芯から悉く凍えさせ、生物に終焉を齎す凄然とした極限の寒烈が室内の温度を急激に低下させていた。


 地下室の石畳に凛然たる冷気を放つ薄氷を張っている中心は、他でもない件の棺。


 ――刹那、黒々とした人型が透き通る白青の氷柱に吹き飛ばされていた。


 棺の直上にパキパキと言う大気が氷結する快音を伴って発生し、浮遊する幾つもの氷柱が示し合わせた様に一斉に人型に飛来して行く。


 大気を鋭利に裂いて矢の様に飛来する、致命の氷柱の尖った先端が人型にブチ当たって、凄絶な衝撃音を発しながら人型を吹き飛ばす。


 石材の壁面を破壊しながら突っ込んだ人型に、追撃の氷柱が幾重にも突っ込んで行くと、人型を迎えた壁面は一気に凍結して行き、刹那に爆発的な勢いで致命の氷山を形成した。


 不意に神喰を救った氷柱を放った人物は、棺から上半身だけを起こして、驚愕に澄んだ蒼穹を閉じ込めた様な丸い目を開きながら、その右手を人型に翳していた。


 ――その人物は紛れもなく、棺の中で神喰が見た死人であった。

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