get down to beginner

 神喰は八坂に家までの道のりを先導されながら、人の気配が無い住宅が立ち並ぶ道を歩いていた。


 一切の淀みなく澄み渡る蒼穹に浮かぶ、燦々と輝く日輪が清涼たる微風そよかぜに吹かれて流れる白雲をキラキラと照らして、地表に茹だる様な熱を孕ませている。


 じんわりと汗を滲ませる五月の炎天は神喰から体力を奪って行く。


 いや、暑さに精神もやられてきている。


 神喰は家を出る前にアルカナムから投げ渡された長剣の鍔を左手の親指で触れて、暇と気まずさを解消しているのだった。


(剣なんて握った事も無い素人に、よくもまぁ渡せるもんだ……てか、銃刀法違反で余裕の逮捕じゃん……今更か……)


 もう既に神喰は暴行に傷害、銃刀法違反に殺人をしたルヴニールを匿った事による犯人蔵匿罪、犯人隠避罪など、割とシャレにならない犯罪をしてしまっている。


 ……本当に今更であった。


 自分で怪物狩りと言う国家が認めていないアウトローな役職を選んだにも関わらず、神喰は犯罪をする事に未だに抵抗感があったのだ。


 そうそう、十五年間も培った普遍的な価値観は覆らないのだ。


「……ねぇ、怪物狩りさん? 聞いてますか? てか、何て呼んだらいいですか?」


 明瞭な意識が思索の海に溺れて、八坂が喋っている事に一切気付かなかった神喰は急に割って入って来た声に焦って、生返事をする。


「え? あぁ……俺は……」


 神喰の言葉はそこで中断される。


 神喰の脳裏を強く衝くのは、ただ単純に自身の本名を明かしたくないと言う、正体が判明する事への恐怖だった。


 その言葉を中断したコンマ一秒にも満たない時間で、神喰は自身の正体を覆い隠す偽名を即座に脳から出力していた。


 ――神喰に電流が迸った。


「――『マーリン』って呼んでください」


 まさしく雷鳴が轟き、稲光が迸るかの如き超速の思考で弾き出した偽名作成に、神喰はおろか周囲に居る人々でさえも感嘆せざるを得ないだろう。


(神喰……カンジキ……カジキ……カジキの英名……マーリン!)


 と言った思考回路で導き出した偽名であった。


 身の毛が粟立つ程に恐ろしく気持ち悪い速さの偽名作成と言える。


 因みに、マーリンと言うのはマカジキ類、クロカジキ類のカジキの英名であってカジキ全体の英名ではない事に留意しよう。


「じゃ、マーリンさん! もう一度話しますね!」


 どうやら、神喰が話を聞いていなかったのは既に八坂に看破されていたらしい。


 まぁ、あれ程に綺麗なアホ面を晒していれば、誰でも気が付くと言う物であろう。


 その痴態を神喰は未だに知らない。


 知る由も無い。


 八坂の屈託の無い笑顔から放たれるのは、


くだんの『不懐の棺』のなんですけど、大体……150年前くらいの代物でして、ヴィクトリア朝時代のイギリスで出土したらしいです! 何か、壊れた館? みたいな場所から出て来たらしくって、どんな方法を使っても壊れないし、開けられない……そんなオカルトアイテムとしてコレクターの間ではすっごく有名なんですよ! 私も色々と試しましたけど……傷一つ付きませんでした……」


(何でそんなに破壊したいんだよ!? てか、中に人が眠ってたらとんでもない冒涜だろ)


 まぁ、その様な一般人が持つ常識的な倫理観とやらでは測れない、オカルトマニアにしか分からない価値と言う物があるのだろう。


 怪物と仲間である神喰が言えた事では無いが、一生理解したくないと思うのであった。


「あ、そろそろですね!」


「……やっとか……」


 何故か、異常現象に遭遇していないのにも関わらずドッと押し寄せる疲労感を声に吐き出した神喰は、眼前に建つ建造物を視界に映す。


 その建物はやはりと言うべきか、大学生が一人で住むにしては余りにも広すぎる、そんな広々とした一軒家であった。


「こんな家……大学生でよく住めましたね」


 神喰も似た様な物である為、二度目の『人の事を言えない』であるが、聞かずにはいられなかった。


「私も大学に進学するってなって、住居探しに一番苦心したんですよ。どうしよっかなって思って、この辺を当てもなくぶらぶらしてたら、この家の家主みたいな人が怯えた感じで話し掛けて来たんです。『もう辛い、切ない』、『これ以上は耐えられない』だとか何とか言って、私にこの家を譲与して来たんですよ……おかしな人でしたねぇ……」


 確かに、その人は“おかしくなっていた”のだろう。


 この前評判を聞いて、神喰は別の要因で不安が込み上げて来る。


(これ……棺の前に家に居る悪霊をどうにかする羽目になる? うっそぉ……)


 まさかのメインミッションよりも難しいサブミッション発生である。


 いや、ここで震えていれば怪物狩りなど務まらない。


 神喰はそう自分に言い聞かせて、先導する八坂に続いて、絶望感を歩みで表現しながら、神喰は明らかに忌々しい瘴気が漂う八坂宅に招待される。


「ささ、どうぞ!」


「失礼します」


 もう、迷いは無かった。


 神喰が惨憺とした悪霊の家に足を踏み入れる。


 その家に足を踏み入れた刹那の感想は、“寒い”に尽きる。


 外の熱気に焦がされて熱の籠った体である筈だが、異常とも言える寒気に体が震える。


 それはまるで、体の皮膚や骨、筋肉と言った物をすり抜けて、体の芯を直接氷で冷やしている様な奇妙な底冷え。


「じゃあ、ご案内します!」


 その最中にも関わらず、慣れてしまったのか、それとも気付いていないのか、とにかく調子を崩さない八坂が明朗な様子で声を張る。


 照明の明るさがあるにも関わらず、どこか暗い玄関を抜けて、玄関から繋がっている廊下の突き当たりに存在していた地下への階段を視界に映す。


「……何でこんな物が?」


「当然と言えば当然ですけど、私には分かりません。この家を作った人に聞くしかないですね。――さ、足元に気を付けて」


 神喰は普遍的な家には余りにも似つかわしくない、無骨で冷然とした地下室の存在を訝しげに思うのだが、それが作られた真意を知る事はもう出来ないのだろうと同時に思う。


 神喰の戦慄した疑問は一旦地下室への階段の先に待ち受ける漆黒の淵源に葬られる。


 その石材で出来た階段は家の雰囲気と相まって驚く程に冷たい物であり、その一段ごとに鳴らすコツコツと言った妙に鼓膜を震わせる音は凍て付く様な冷気を孕んでいた。


 この鬼面は顔を隙間なく覆い隠しているのにも関わらず、視界が明瞭である不思議なアイテムだが、それが仇となっている。


 眼下、無窮にも感じる階段の先の暗影は、神喰の視認の一切を拒んでいた。


(怖い……)


 よく見える事が逆に恐怖を抱かせるとは、誰が予想出来たか。


 そんな無限にも感じる階段が漸く終わり、その眼前には実際の大きさとは相反して巨大に見える、荘厳な扉が待ち受けていた。


 その堅牢な扉はどの様な用途だったのだろうか。その扉には厳重な施錠がなされていた痕跡が有り有りと残っており、作った人物の異常性がハッキリと伺える。


 静かな戦慄を胸に抱く神喰を知ってか知らずか、八坂は先陣を切ってその重苦しい扉を開け放つ。


「これが、私のコレクションです!」


 ――瞬間、神喰に吹き付けるのは吐き気を催す程の瘴気。


 堅牢な扉がギィと言う年季の入った音を立てるのと同時、開け放たれた部屋に満ちている瘴気が神喰を襲う。


 それは肺に入れた瞬間に体中が痺れる様な緊迫を生じさせる、慄然とした不快感を孕んだ忌々しい瘴気に他ならない。


 吹き荒ぶ異質な空気に鬼面に隠れた顔を歪める神喰であるが、その様な心の竦みを依頼者に気取らせるなどあってはならない。


 神喰は鉛でも入れられたかの様に重苦しい肢体をやっとの思いで動かして、その部屋に足を踏み入れる。


 神喰の視界を埋めるのは、地下室の広大な面積の殆ど全てを埋めている理解し難い奇妙で禍々しい物体群。


 八坂の収集品なのだろう。その一つ一つを神喰は全く知らないし、今回の依頼には関係ない。


 知る気すらも無い。


 そんな狂気的にも思える部屋の中央、大々的に設置されている威容。


 これが依頼の品であろう。


 それは経年劣化を感じさせない程に綺麗な状態で安置された棺であった。


 棺なのだから当然だが、人一人をすっぽりと収容出来る大きさのその棺は、華美な装飾は無いにしても、150年前の物品だと言う事実が疑われる程に綺麗な状態で部屋の中央に設置されていた。


 そこから立ち昇る身を押し潰すと錯覚する程の鬼気は、神喰の気分を悪くさせる物だった。


「……よくこんな家に住めますね」


「……? はい?」


(オカルトマニアを名乗る癖に異常現象に鈍感すぎる……)


 そう心の中で溜息を吐いた神喰は、ここに居ても始まらないので棺の傍に近寄って行く。


 神喰は八坂よりも前に出て、棺の傍まで近付いて、少し耳を澄ませてみる。


「……ゥゥゥ……ウゥゥゥウゥ……」


 棺の中から聞こえる底冷えする様な低い重低音は、棺にその一部を遮られてくぐもって聞こえる物のハッキリと認識する事が出来た。


「確かに聞こえますね」


「でしょ! 私、遂に幻聴が聞こえ始めたかって心配してたの! 友達に言っても気の所為だって言われて……」


 まぁ、八坂のエピソードはどうでもいいだろう。


 これからどうするのかを考えるべきである。


(八坂さんの要望に応えるなら開けるべきだけど……中に何が居るのか分からない気味の悪い棺を開けるべきか……それだよな……破壊出来ないのが本当なら魔法とか呪いの類だし、ここは俺がこの棺を引き取って、アルカナムとルヴニールの前で開いて結果だけ伝えるか。それが一番安全だよな)


 神喰は無駄に長ったらしく長考した後に決意が決まると、八坂に向き直る。


「……八坂さん」


「はい!」


 そう神喰は余りにも深刻な事態と言う感じを全面に押し出しながら、八坂に語り掛ける。


「……大変言いにくいですが……この棺は大変危険な物です……」


 まぁ、これは神喰の予想であるが、危険には変わらないだろう。


 噓は言っていない。


「……この中には150年前に呪術的な儀式によって壮絶な死を遂げ、永遠に残り続ける規模の呪物と化した死体が眠っている可能性があります……平たく言うと強めのゾンビです……と言う訳で、これは我々が預からせていただきます……」


 支離滅裂で凄まじく適当な事を言っている神喰の言葉に、八坂は驚愕に目を見張って行く。


 だが、その瞳は恐怖や焦燥と言った負の印象は無かった。


 あるのは興奮と好奇だけであった。


「マジですか! そんな展開があるんですか! あぁ! 私このまま呪殺されちゃうのかなぁ! お決まりの展開になっちゃうのかなぁ! ……でも、専門家の人の言う事は聞かなきゃですよね。これ……悲しいけど差し上げます……」


 本当に悲しそうな瞳で棺を視界に映した八坂は、愛でる様に棺の蓋を撫でる。


 どうやら、引き取る事に同意してくれるらしい。


(良かった……さて、どうやって運ぼうかな……重いよなぁ……そもそも人が一人で運ぶ奴じゃねぇ!)


 殊の外、上手く行った引き取り作戦に安堵と歓喜をしつつ、完全に油断してどうやって棺を家の外に出すかを考えていると、


 ――バァン! と言う凄まじい衝撃音が神喰の耳朶を打っていた。

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