最強のヴァンパイア

 悲惨な状況に相反した美しい月光が辺りを照らす住宅街の道路を、ルヴニールは必死に駆けていた。


 駆けていると言うのは少し誇張しているだろう。


 ルヴニールは息も絶え絶えに体を引き摺りながら、壁を支えにしてゆっくりと前進していたのだから。


「……少年」


 ルヴニールは自身を助けようと奮起する見ず知らずの少年を思い描く。

 

 彼は今にも無為に命を散らそうとしている。


 その事実が、醜い化け物である自身の為だと言う事に、ルヴニールは耐えられなかった。


 自身の抱える矛盾に懊悩し、過去にうしなってしまった同胞の事を想えば、何の罪もない少年が自身の為に無意味に命を散らすと言うのは、自身の心の傷が疼くと言う物であった。


 それでも、彼が作ってくれた僅かな希望を不意にする訳には行かない。


 だが、そんな糸屑にも等しい希望は結局の所、“希望的観測”に過ぎない。


 背後から追って来る男に追い立てられて、ルヴニールは結局、行き止まりの路地に追い詰められていた。


 三方向を壁に囲まれ、出口を男に塞がれた路地の壁に体を預けて、ルヴニールは感情の起伏が分かりにくい紅の瞳で男を眺めていた。


「……ハッ、結局、希望なんて無かったな」


 そう眼前の男が嘲笑を伴った言葉を浴びせて来る。


「……我は……ルヴニール……『最強のヴァンパイア』だ……」


 ルヴニールは最期に自身の抱える“傲慢さ”を包み隠さず言ってのける。


 そんな突拍子もない言葉に男が啞然としたのは一瞬、即座に嘲笑へと変わる。


「ハッ! 何を言ってやがる。お前のどこが『最強』なんだよ? 馬鹿らしい」


 男の声高に嘲笑う声を半ば無視して、ルヴニールは意識も絶え絶えな様子で、


「……我は血液を操作する事が出来る……自身の物だけでなく、所有者を失った血液や繋がりを作れる他者の血液も……例外なく……」


「……何を言って……」


 ルヴニールの今際の際と言った様子の言葉は戯言ざれごとかと思われるが、男は困惑と疑念を積もらせて行く。


「……繋がりと言うのは……我が傷を付けた者……それと……その者の血液を直接摂取しても良い……」


 その決意の光が宿る炯々けいけいとした瞳は、諦めた者のそれではなかった。


 途切れ途切れな言葉を言い終えた直後、ルヴニールは自身の手の甲に付着した神喰の血液を舐め取る。


 この血液は、神喰が負傷して行くたびにルヴニールに付着した血液であった。


 ルヴニールの妖艶な舌でねぶり取られ、体内に摂取された神喰の血液が齎す結果は、


「――! クソ!」


 男が焦った声を張り上げて、ルヴニールにその拳を叩き込もうと接近する。


 ――瞬間、ルヴニールから旋風の様に異質な気配が吹き荒ぶ。


 それは現実に顕現した狂気その物であった。


 全身の肌が粟立つ凄まじい恐怖と焦燥、死の気配に促された男の拳は、遂にその意味を成す事は無かった。


 ルヴニールの座りながらの姿勢から放たれる拳が男の顔面に一閃され、バキッと言う凄まじい轟音を立てて、男は弾かれた様に後方に吹っ飛んで行ってしまう。


 男を退けたルヴニールは自身に従者の様に集合して行く血液を靴裏で吸収しながら、禍々しい覇気を発して悠然と歩み出す。


 取り込んだ血液は少量だが十分、この程度の愚者を破壊するには過分であると言える。


 路地から歩み出て、慄然とした狂気を纏うルヴニールは、眼前の仇敵に言ってのける。


「――少し腹が減ったものでな、つまみ食いさせて貰った」



 光の差さない暗影の路地から慄然と歩み出て、神喰と男に異質な雰囲気を纏いながら接近して来る存在。


 完全に顕現した『怪物』、ルヴニールであった。


 彼女は旋風の様に吹き荒ぶ慄然とした狂気を迸らせながら、傲岸不遜に言ってのける。


「――我は『最強のヴァンパイア』、ルヴニール。この世に数多あまたに存在する吸血鬼を生み出した存在にして、この身はあまねく吸血鬼伝説の現身うつしみである」


 そう自身の“傲慢さ”を隠そうともせずに、堂々と言ってのける彼女は先程までの弱々しさは砂粒程にも存在しない。

 

 その暴力的なまでに爛々と輝く灼眼は、凄絶な気迫と生命の色で満ちていた。


「血液操作!? ガキの血を操作して、取り込んだのか! 自分の血液ならまだしも、他人の血液を操るなんて事、吸血鬼は出来ねぇだろ!」


 男が驚愕に声を震わせながら叫ぶ。


「“普通”はな。我はあまねく『吸血鬼の始祖』である。そこら辺の雑多な吸血鬼と一緒にするな、クズニンゲン。貴様の矮小わいしょう塵芥ちりあくたに等しい人生の幕を我が手ずから引いてやる。感謝しろ」


 そう男への不快感を隠そうともせずに言ってのけるルヴニールは、致命的に現実を改変する一節をそらんじる。


「――『神様の言う通りエヴァンジル』」


 ――次の刹那、何かを詠唱したルヴニールの左手に、鞘に納められた紅の意匠が施された両刃の長剣が握られていた。


 神喰はルヴニールから一度たりとも目を離してはいなかった。


 それにも関わらず、本当にいつの間にかルヴニールの左手には剣が握られていたのだ。


 そんな常識外れの景色を目の当たりにした男は、そばに呆然と立つ神喰を捕まえて、そのこめかみに銃口を押し当てる。


「こいつがどうなってもいいのか!」


 所謂、人質である。


 そんな男の醜い悪あがきにも見える行動に、ルヴニールは心底呆れた様子で、


「――本当につまらないな」


 そんな虫けらでも見るかの様な侮蔑の言葉を静かに告げると、指を立てた右手をピッと振る。


 ――次の刹那、神喰の目の前がカッと紅の色に瞬いたと思えば、その微光が住宅街の温度を著しく引き上げて行く。


 ――瞬間、神喰を人質に取る男の右腕が切り飛ばされていた。


 男の右腕は右手首ごと二の腕の辺りから、肉の焦げる炭化した醜悪な臭いを放って、クルクルと宙を舞って完全に切断されていた。


 それから一拍置いて、黄白色の神経や血肉の鮮烈な赤が見える右腕の切断面から、心臓の鼓動に従ってドス黒い血液が噴出する。


「……え? あぁ……アァァァァァァアァ!?」


 右腕が切断された事に漸く気が付いた男は全身を支配する痛みに絶叫して、叫喚を上げて神喰を左手で強く突き飛ばす。


 男の噴出するドス黒い血液に汚れた神喰だが、その体や服に付着した血液が不自然に流動し、ルヴニールの右の掌に集まって行く。


 当然、男から出た地面に醜い色を付ける血溜まりさえも例外では無い。


 掌の上で球体上になった血液を嫌々ながらに一息で飲み込んだルヴニールは顔を歪め、不快そうに舌を出して、


「……不味い。まぁ、我は血を飲むのが嫌いだけどな」


 そして、苦悶に叫ぶ男を置き去りにして、ルヴニールは剣を構えてしゃがみ込む。


 キィィィィンと言う耳障りな、甲高い金属音が神喰の耳に入る。


 それは神喰をつんざく耳鳴りなどでは無く、ルヴニールが剣を抜き放って下段に構える音であった。


「――もう死なせない」


 ルヴニールがそう静かに呟いたのと同時、弾かれた様に姿が掻き消える。


 全く視界にすら捉えられない高速の踏み込み。


 それは神速と錯覚する程の凄絶な速度であり、その残像すら視界に収める事は叶わない。


 ――住宅街に、凍て付く様な美しい銀閃が瞬いた。


 それは一朝一夕では身に付かない、剣技の極みに至った者の絶技であった。


 神喰が気付いた時、ルヴニールは男の背後に剣を振り切った姿勢で立っていた。


 凄絶な速度と壮絶な切れ味に殆ど血が付着していない長剣を、ルヴニールは優美に鞘に納めると、それと同時に長剣が忽然と消失する。


 ――カチンと鍔が金属音を鳴らしたと同時、ゴロリと男の首が落ちた。


 重力に従って落下して行く男の生首は、ゴトンと鈍い音を立てて地面に叩き付けられる。


 生物として最も重要な器官を失った男の体は醜くビクビクと痙攣して、首の切断面からおびただしい程の血液が噴き出して来るが、そんな事はどうでも良くなってしまう変化が訪れる。


 ――何故なら、男の体は凄烈な勢いで立ち昇って行く緋色の紅炎に包まれて、燃え上がって行くからである。


 当然、断頭された頭部も切断された右腕も右手首も。


 その立ち昇る劫火は空に広がる漆黒の天蓋を暴力的な白光で衝いて、燦然とした紅鏡を演出するかの様だった。


 人が囂々ごうごうと焼ける鼻が曲がりそうな異臭を放った男の死体は、その全てが塵すら残らずに焼失してしまう。


 そして、男が流した全ての血液がルヴニールの足元に集結して行き、靴裏に飲み込まれる様にして消失した。 


 生きた証すら残らずに灰燼に帰した男の惨たらしい末路を呆然と眺めた神喰に、


「少年、無事か?」


 神喰の傍まで歩み寄って、血塗れの神喰を上目遣いに心配して声を掛けて来るルヴニール。


「ハハ、派手に転んだみたいな感じだ。問題ないって……」


 そんな強がりを言う神喰であったが、彼は天と地がひっくり返った様なのっぴきならない感覚に襲われる。


 立っていようとしているのに、立っていられない。


「――少年!」


 頭がグルグルと不可思議に回って行く気味の悪い感覚に平衡感覚を失って、神喰はコンクリートの地面に強烈に倒れ込む。


 虚ろになって行く意識と霞が掛かった視界が最後に映すのは、憎たらしい程に美しい三日月と、それを覆い隠すルヴニールの血相を変えた表情。


 ――神喰の意識は暗中に消えた。

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