第二話 吸血鬼は驕りたい!

暗夜に出会うのは

 時刻はもう既に八時になるのだろうか。


 時計どころか、スマートフォンすら持って来なかった神喰に時刻を知る由は無い。

 

 だが、それで良いのだ。


 神喰はただコンビニに行き、買い物を済ませたいだけだからである。


 夜の帳が下りた漆黒の空は吸い込まれる様な果てしない闇であるが、そこには蒼穹の水色を混ぜた様な藍の色が広がっている。


 閑静とした住宅街の静寂は神喰の耳朶じだに一切の音を拾わせない。


 ただ、神喰自身がコンクリートの道を踏み鳴らす、コツコツと言った乾いた音のみが鼓膜を打つのである。


 神喰は藍の空に懸かる見事な三日月の煌々とした月光を何となく瞳に映す為、天空を仰いで緩慢に歩いている。


 神喰宅が存在する住宅街から離れて、ポツリポツリと民家の光が見え始めた頃だっただろうか。


 ――それは現れた。


「……? 何だあれ?」


 コンビニに歩いて行く神喰の視界の先には丁字路が存在し、前方と右方に道が二つがあるのだが、その前方から人が歩いて来るのだ。


 当然ながら、ただ人が歩いて来るだけならば何も思う事は無く、ましてや声を上げて疑問を口にするなどある筈も無い。


 ――ただ、その人が異常に見えるのだ。


 その人は歩きながらも、体を左右にフラフラとさせており、足も千鳥足に見えて非常に不健康に見える。


(……大丈夫か? あの人? 酔ってんのかな?)


 だが、そんな事を考えていながらも互いの歩みは止まる事は無く、丁字路の中心に差し掛かった所で、その人物の姿をハッキリと視界に映す事が出来る。


 ――それは、稀代の芸術家が筆を折る程の絶世の美貌を持つ少女だった。


 煌々とした月光を受けて美しく艶を放つ、紫紺の色をした腰の辺りまで伸ばした長髪。


 神の寵愛を一身に受けたとしか思えない程に整い、凛然とした顔貌には鮮烈な血の色をした紅の瞳が爛々と輝きを放っている。


 病的なまでに透き通った白い肌は踏み荒らされる事を知らない処女雪の様であり、その柔らかな肢体を包むのは黒を基調とした男性物のタキシードである。


 その頭にはとても小さな黒いミニハットを被っており、豊満に起伏を持つ胸元には赤いリボンを身に着けている。


 彼女の身に着ける黒のマントが、ただ風に撫でられてなびいているのすらも、傑作の劇の最中における一大事にも思えてしまう。


 そんな圧倒的な美貌を持つ少女が体をフラフラとさせながら、神喰の隣を通り過ぎようとする。


(モデルでもやってんのかな? テレビに疎いから知らないけど)


 神喰は本能でこの人には関わらない方が良いと直感した。


 彼女の肌は白く透き通っているが、余りにも病的であり、まるで太陽の光を受けていないかの様である。


 しかも、明らかに不健康そうな立ち居振舞いであり、何だか危険な感じがする。


(すまん、俺はヒーローじゃないんだ)


 そう心の中で意味の無い自己満足に過ぎない謝罪を行って、少女の隣を通り過ぎて、コンビニに向かおうとする。


「……血を……くれないか……?」


「え?」


 神喰が少女の隣を通り過ぎて、ほんの少し歩いたタイミングだろうか。


 少女が神喰に振り返って、無理解を強制する様な言葉を紡ぐ。


(……何言ってんだ? 変質者?)


 その明らかにおかしい発言を紡ぐ声ですらも美しい、銀鈴の様な声音なのだが、そうであっても変質者に変わりはない。


 神喰はその消え入る様な声に聞こえない振りをして、スタスタと足早に丁字路を抜けようとするが、


「……君だ、聞こえているんだろう? 我の話を聞いてくれ……」


(これ……無視出来る感じじゃないよなぁ。てか、一人称『我』はキャラが濃いって……キャラ作ってんのかな)


 少々、面倒な事になったと思ったのは一瞬、神喰は振り返ってこちらに歩み寄る変質者に相対する。


「何ですか? 血をくれって?」


 神喰は飽くまでも他人行儀に変質者に言葉を投げ掛ける。


 そうすると、変質者は少しキョトンとした顔をして、


「……日本語を喋っている筈だが……伝わらなかったか……?」


(何だこいつ! ムカつく奴だな! 俺は日本生まれ、日本在住、海外経験なしの日本語ネイティブだぞ! 馬鹿にしてんのか!?)


 意識しているのか、馬鹿にする様な発言を繰り出す変質者に対して、凄まじい苛立ちを吐き出したい気持ちで満ちる神喰だが、それは必死に抑える。


「……いや、当たり前でしょ。いきなり血をくれ、とか意味分かんないですよ」


「それもそうだな。じゃあ、改めて……血をくれ」


 全くもって話にならない変質者の言動に、流石の神喰も感情が爆発する。


「分かんない奴だな! 俺はお前に血なんかあげないって言ってんの! そもそも! 血をくれって何だよ!? お前は献血事業に携わる職員か何かなのか!? とにかく! これ以上話を続けるようなら警察呼ぶからな!」


 余りにも話が通じない変質者にとうとう堪忍袋の緒が切れた神喰が怒声を張り上げて、住宅街に轟く声量で捲し立てると、


「……そうか、我は血が無いと今にも倒れてしまいそうだ。こんな幼気いたいけな我を見捨てるのか? 酷い……」


「……どう言う因果関係? 『吸血鬼』でもあるまいし……」


 そんな思い付きの特に考えてすらいない発言をした後に、変質者を注意深く見てみると、両耳が少し尖っている上に、その犬歯は人よりも鋭く伸びている。


(あれ? ホントに『吸血鬼』みたいだな……格好も……体の特徴も……)


 そんな漠然とした疑念は一気に明瞭な確信に変わり始める。


 そんな神喰の訝しげな視線を受けて、変質者は少し怯え悲しんだ様に、切れ長の目を逸らして、


「……いや、良い。我が悪かった。変な事を聞いたな……」


 ただそれだけ言って、今度は変質者の方がスタスタと足早にその場を去ろうとする。


(……何だったんだ?)


 そんな疑念と漠然とした無理解を残して、今度こそコンビニに向かおうと道を真っ直ぐ歩き出す神喰だが、


「――お、居たじゃん」


 神喰の背後から、どこか下卑た様に感じる声音の声が響く。


 だが、その声の宛先は神喰では無く、別の誰かだったらしい。


 そんな声に少し驚いて、神喰は背後に振り返ってみる。


 そこに居たのは丁字路の横道から出て来たのであろう二人の男だった。


 神喰から見て左の道から出て来たと思しき男達はその背中しか見えず、顔や表情を伺う事は出来ない。


 そんな男二人はどこを見ているのか分からないが、その二人の内の一人がコートの懐に右手を伸ばして何かを取り出した様に見える。


(……何やってんだ? あいつら……)


 何故か目を離せない神喰が立ち止まって男達の動向を観察していると、


「――汚物は消毒ってな」


 そんな下等な存在を嘲笑う様な声が静かに神喰の耳朶を打つ。


 ――次の刹那、パァン! と言う耳を劈く破裂音が響く。


 牧歌的で閑静とした住宅街に似つかわしくない、無骨で無機質な火薬の炸裂音が凄絶に神喰の耳を劈く。


 その音は紛れも無い――、


(銃声?)


 神喰がそう考えるのと同時、心臓が不快に鼓動を打ち、焼かれんばかりの焦燥と緊張に焦がされて嫌な想像のままに走り出していた。


 神喰は進行方向からクルリと踵を返して、立ち尽くしている二人の男の横を通り抜けて、男の背中で見えなかったその向こう側を視界に映す。


「――ッ!」


 その景色を瞳に映した瞬間に、神喰は驚愕に息を詰まらせる。


 ――それは単純、先程の少女が自身で作ったのだろう血のカーペットにうつ伏せで倒れ込んでいたからだ。


 ドス黒い鮮血のカーペットに伏せる少女の背中からはドクドクと血液が流れ出しており、その黒色のマントに醜悪な色彩を付けていた。


 その背中の傷は爆ぜて引き裂けた様な醜い物であり、明らかに銃創であると分かる。


 その少女の傍に走り込んだ神喰は顔を不快感と無理解に歪めながら、


「どうして……」


 などと無理解の言葉がこぼれてしまうのだが、その言葉に被せる様に、


「――あ? 何で一般人がいんだよ? 『人払ひとばらいの結界』は利いてるよな?」


「……知るかよ。たまたま耐性があるんだろ」


 語気を荒くして意味の分からない状況に疑問を呈すのは、神喰の背後に立った二人組の男だ。


 その感じの悪い粗暴な声に神喰はパッと弾かれた様に背後に振り返る。


 予想通りと言うべきなのか、二人の男の内の一人が黒塗りの拳銃を右手に握っていた。


(『人払いの結界』……魔法か何かの話か? 詰まり、こいつらは“異能あっち側”の人間……!)


 神喰は後ろの少女を庇う様に二人の男達と相対し、目付きの悪い瞳を少し鋭くして、


「……何やってるんですかね? お二人さん」


 神喰は一応、この行為の真意を男二人に問うてみる。


「――チッ、気味の悪いガキだな。この状況でビビらねぇ……イカれてんのか?」


「ハハ、質問に答えてくれません?」


 神喰自身は今にも逃げ出したい程に心根が震えている。


 相対する相手は銃を持ち、人を容赦なく撃ち殺す人物だ。


 それでも、この状況は神喰にとって見過ごせなかった。


「あぁ、すまねぇなぁ。ちょっと驚かせたよなぁ。これには理由があるんだよ」


「……へぇ、それって?」


 銃を持った男は取り繕った下手くそな作り笑顔でそう答えて、


「――こいつは吸血鬼だ。俺らはそんな化け物を殺す怪物狩りだぜ。詰まりは皆の縁の下の力持ちって訳、影のヒーローさ」


 下手くそな作り笑顔から一転、犬歯を剥き出しにして頬を凶悪に歪める男の放つ雰囲気は凍て付く様な狂気と神喰自身が息を殺してしまう程の凄絶な緊迫。


 息をするのすらも忘れて、蛇に睨まれた蛙の様に身動きすら出来ない神喰を他所よそに、状況は残酷にも動き出す。


 ――次の刹那、常識の埒外の事象が起きる。


 背後、神喰が何か致命的な違和感を覚えて振り返ると、倒れ込んだ少女が溺れる水溜まりの様な血液に変化が訪れる。


 その変化は凄絶、血液の海が突如として意思を持った様に泡立ち始める。


 その泡立つ血液の海が生き物の様に激しく流動し、凄まじい流れを持って少女の背中の銃創に流れ込んで行く。


 銃撃の際に床や壁に飛び散った血飛沫ちしぶきさえも例外なく少女の傷に流れ込んで行き、遂にはその背中の銃創は完全に消えて無くなってしまう。


 そんな超常の現象に目を見開いて愕然としている神喰を置き去りにして、少女はムクリと立ち上がる。


 その少女の姿は先に言葉を交わした状態と全く変わらず、傷は勿論の事、貫かれた服すらも元の状態に戻っていた。


 それは形容するならば、超常の再生と言うよりもビデオの逆再生の様相であった。


 少女は疲弊に汗を滲ませており、荒い息を吐いて立っているのもやっとと言った様相である。


「な? 見たら分かっただろ? こいつは醜いバケモンだ」


 そう言って神喰の肩に手を置いて、男は下手な作り笑顔を神喰に向けて来る。


「そんでよぉ、笑っちまうのがよぉ、血が足りなくて力が出せねぇんだってさ! ハハハハハハハハハハ! 滑稽だよなぁ! 心臓に杭を打ち込まれなきゃ死ぬ事も出来ないのに、抵抗も出来ない。これじゃ、都合の良い肉人形だっての! ハハハハハハハハハハ!」


 肩を置いて来た男とは別の男がそう言って馬鹿笑いをし始める。


 滑稽なそのさまに笑いが止まらないのだろう。


 空虚に木霊する大笑がひとしきり済んだのか、男は笑いによる涙を拭って、


「ま、そんな訳だから、こいつはちょっと遊んで飽きたら殺すわ」


 心底楽しそうに破顔しながら、男は少女に近付こうとする。


「……お二人は怪物狩りですよね? だったら、怪物を殺す事にのみ専念した方が良いんじゃないんですか? こんな風にする必要は無いですよね?」


 アルカナムは怪物に耐え難い義憤を抱きつつも、こんな風に痛め付け、なぶって殺そうとはしなかった。


 アルカナムの様に助けた人に希望を抱かせる様な、高潔で慈愛に満ちた、い人間性と言う物を神喰は一切感じない。


 そんな神喰の口を衝いて出た疑問に際して、銃を持った男は、


「どちらにしろ、吸血鬼を殺せる道具を今持ち合わせてねぇから、とにかくこいつは連れて帰るわ。俺達の拠点ですぐに殺すから、それなら文句ねぇだろ?」


 その言葉が嘘である事を、人と余り関わって来なかった神喰でさえ理解出来る。


 啞然としている神喰を半ば押し退けて、肩で神喰を弾いた男達は少女の右手首を荒々しく鷲掴みにして、グイグイと引っ張って行ってしまう。


(これで……良いよな……? だって、結局誰が殺したって変わらない……)


 神喰はただ呆然と去り行く少女と男達を眺めていた。


 これは正しい判断だと自分に強く、強く言い聞かせる。


 ――だが、それと同時に規則正しい律動を乱す胸の鼓動が神喰に訴え掛けて来る。


 それで良いのか、と。


「……皆……すまない……」


 心の底から絞り出し、消え入る様な少女の声が神喰の耳朶を打つ。


 神喰は心臓に氷でも入れられた様な、底冷えのする奇妙な悪寒に襲われていた。


 腹の底に徐々に伝わって行く気持ちの悪い、言い表しようも無い奇妙な感覚。


 背筋を名状し難い何かが愛撫する様な、居ても立っても居られない、迫り上げて来る焦燥に駆られて――、


「何してんだ?」


 ――神喰は連れられる少女の左手を握っていた。

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