28:アンコウの唐揚げ(青の国・第2の都市)
ガテルト・フローミは今でこそ、『
イジメは酷いものだった。朝、登校すると彼の机と椅子はゴミ捨て場に投棄されている。それを必死に一人で運び込む頃には授業が始まり、教師に怒られる。それを見て、クラスの連中が陰湿な笑いを浮かべ、教師もまた半笑い。学校には味方など、誰一人としていなかった。
昼になると、クラスで一番体が大きく、粗暴な少年キーフィスがガテルトの席までやってくる。
「ん」
ただ無言で手を差し出してくる。そこにガテルトは自分の弁当箱を置く。木の蓋を開け、中を検めるキーフィスとその取り巻き数人。
「今日も焼き魚か。しけてやがんな」
小バカにしたように言いながらも、キーフィスはそれを遠慮なしに摘まむと、自分の弁当の上にヒョイと乗せた。
「残りは要らねえや。オマエら、分けて良いぞ」
その言葉を受けて、取り巻きたちが弁当箱を漁る。さもしい野生動物のようだ、とガテルトは思ったが、当然そんなことを口には出せない。ただジッと黙って耐えているだけ。だがそれが気に食わなかったのか、単に今日は虫の居所が悪かったのか。
「おい、オマエ。なんだ、その目は?」
「……」
もしかすると動物を見るような目を見咎められたのかと思ったが、おかずを盗られている間はジッと俯いていたので、その線は薄そうだ。やはり難癖だろう。キーフィスは大きな体を揺らしながら、もう一度、ガテルトの前まで戻ってきて。
「その目はなんだって、聞いてんだよ! ああ!?」
胸倉を掴まれたガテルトは「ひ」と小さな悲鳴を上げ、恐怖に顔を引きつらせる。そして何の釈明も許されないまま。
――ゴキッ!!
頬を殴られる。そのまま教室の床に倒れ、強く背中を打ち付けた。息が止まる。目が真ん丸になり、口から舌が飛び出してしまった。それを見た、イジメっ子たちは爆笑。
「ぎゃははは。水揚げされた魚みたいだな!」
「気持ち悪い顔すんじゃねえよ。飯が不味くなるだろ」
更に取り巻きから蹴りを浴びる。床の上を転がり、その無様な姿に、また嘲笑が巻き起こった。空になった木の弁当箱が無造作に床に捨てられ、乾いた音を立てて転がった。
周囲はニヤニヤ笑う者、見て見ぬふりをする者、汚物を見るような目を向ける者……
有り体に言って地獄だった。
………………
…………
……
豪快に鳴る腹の虫の音を聞きながら、ようやく放課後を迎える。学校の敷地には門が二つあるが、そのうちの北側から出ると連中が
針葉樹の林を進む。丈の長い下生えに時々足を取られながら、15分ほど歩くと、崖に行き当たった。その下は海だ。打ち寄せる波が崖の岩肌にぶつかり、白い飛沫をあげている。
「……また来ちゃったな」
耐えられない日、ガテルトはここに来る。飛び降りたくなる衝動と、それを上回る恐怖と生存本能。それらを感じられると、「まだ自分は生きていたいんだな」と再確認できるのだ。
……こんな生を生きて何になるのかは分からないが。
ともあれ、そうして踏みとどまってきたこれまでだが。一体いつまで、その生への欲求がもつのかは、彼自身にも予測は立たない。ふっと、もういいや、となる可能性もある。そして、もしそうなった場合は、ここから飛び降りて死にたい。今まで踏みとどまらせてくれた場所、これも何かの縁だと思うから。
「……?」
そんなことを漫然と考えている時だった。水平線上に、何かが光った。凝視する。息を飲んだ。鯨だ。海面に浮上している。その頭部が赤、青と光った。眩い輝き。続いて、緑にカッと光る。そこから立て続けに、白、黄、そして黒いモヤのような光を放つ。
「
一生に一度見られれば、その人間は類稀なる強運。そういう言い伝えまである。龍や天馬と同じく、他の種より上位(あるいは人間よりも)に位置付けられる。
「す、すごい」
圧倒されていた。太陽の下、その光に負けないほどの六色の彩光。目まぐるしく移り変わる色の競演。ウットリと見つめていた。だがそれは、ほんの数分にも満たない時間だった。やがて鯨は海中に潜ってしまい、その光も遠くなる。しかし最後に、その六色の光が、海面に浮かび、得も言われぬ絶景を生み出す。絵の具を撒いたより淡く、しかし虹よりも強く。きっと神鯨の発光以外では見られない色合いと光度なのだろう。ガテルトは見入り、そしてそれが見えなくなるまで、瞬きすら忘れていたらしく、
「いたた……」
光が消え去った途端、目の乾燥を覚えた。慌ててシパシパと激しく瞼を開閉させる。だがそれでも、瞼の裏に焼き付いたかのように、あの六色の神秘の輝きは色褪せない。
「すごかった……!」
この時のガテルトは、イジメのことすら頭から吹き飛んでいた。しばらく、また神鯨が戻って来ないかと期待して待っていたが、やがて夕暮れ時となり引き上げた。
戻ると、漁師の父に神鯨の話をした。ロクに取り合ってもらえなかったが、逆にそれが、彼が目撃していないという証明にもなった。もし見ていたら、テキトーにあしらうのではなく「オマエも見たのか!」と興奮も露わに詰め寄ってくるだろうからだ。
その後、家族や近所の人間にも聞いてみたが、誰一人見ていなかったそうだ。
ガテルトは内心の高揚を抑えきれなかった。自分だけ。きっとこの世界で、今日、あの神鯨を見たのは自分だけだ。その事実が、彼に圧倒的な優越感をもたらしていた。思えば、自分の人生において「自分ただ一人だけ」などという幸運を得たことなど一度もなかった。
その夜。同室の弟二人と妹三人が寝静まった頃、ガテルトは一冊の本を取り出した。弟たちに破かれたりしないよう、押し入れの一番上の段にコッソリと仕舞ってある物語本。親が唯一、彼に買ってくれた贅沢品だ。小さな白のマナタイトの破片に、
「セレス様、ご加護をお願いします」
小声で願う。ポッと小さく灯る光。エビのように丸くなって自分の体で隠しながら、首だけ振り返った。雑魚寝の弟妹たちは、誰も起きた気配はない。安堵の息を小さく吐き、ゆっくりとページを捲った。
それは『
かつては人間の中にもマナタイト抜きでマナに干渉し、自然現象を起こせる者たちが居て、彼らは魔術師と呼ばれていた。
眉に唾つける者もいるが。大人になって考察すると、彼らについての伝承が物語として各地に残っていると推測するのが妥当で、割と信憑性の高い話だとガテルトは思う。まあ当時の彼はただ純粋に信じ、ワクワクし、自分を重ねていただけだったが。
主人公は、子供の頃は魔法の制御が上手くなく、物を壊したり人を傷つけてしまうことが多々あった。必然、周囲からは恐れ疎まれ、避けられて。寂しい少年期を過ごすこととなった。だがそんな中でも、彼にはたった一人、友達がいた。それが
悲しいことがあると、彼はいつも海へ行って彼女の背に乗り、波を切り、海上の風を感じながら大海原を走った。それだけで嫌なことを全て忘れられるのだった。
青年と神鯨との交流は長く続いた。鯨は時々、どこからか不思議な魚を獲ってきて、それを青年と一緒に食べた。中には光る魚もいて、それを食べることで神鯨も光を放つことが出来るのだと、そんなセリフもある。
絵の中の二人がとても美味そうに食べるので、もっと幼い時はジュルリと涎を垂らしながら読んでいたのを覚えている。
物語の中盤。魔法使いの住む国に
青年は悩んだ。一度は断って逃げることも考えた。だがこの街は、この海は、神鯨と出会った思い出の場所でもあり。彼らの酷い仕打ちに傷つきもしたが、同時に、自分が迷惑をかけてしまった負い目もある。一度助けて手切れにしようと、そう決意した。神鯨にもそう話した。それで良いよという風に、彼女は目を細めて笑い返した。
嵐から逃げてくる人たちとは反対方向へ、青年はボートに乗って海を進んだ。すぐに吹き荒れる風の塊と遭遇する。
嵐の渦には穴がある。渦の中央は晴れ渡り、凪が広がる。そこまで行って、内部から風の特大魔法をぶつけて消し去るという作戦だった。
青年は風の魔法で空気の防壁を張りながら、水の魔法で波を御し、少しずつ少しずつ前に進んで行く。だが進む度、暴風の奔流に呑まれ、ボートは激しく旋回する。風の塊の内部へと食い込んでいきたいのに、前後左右が分からない。
だが、その時。
――プシュー!
海面から黒い大きな魚影。神鯨だった。彼女はその六色に光る自身の頭部を灯台の代わりにして、道を示していたのだ。青年は魔法の出力を調整し、その光の方向へボートを進ませる。
歯を食いしばる青年。荒れ狂う海の中で必死に踏ん張る神鯨。
やがて……二人に掛かっていた圧が。フッと、何の前触れもなく消えた。
「あ……渦の穴だ!」
辿り着いたのだ。青年の服はボロボロだった。神鯨も飛んできた家屋の板などが背を打ったのだろうか、血が出ていた。
「ご、ごめんよ」
自分とボートを守るので手一杯だった青年は、鯨に謝り。そしてすぐに治癒魔法を使った。
――プシュー!
気持ち良さそうに目を細める鯨の背を優しく撫でた青年は、すっくと立ちあがる。
そして次のページでは……彼の両手が光り輝き、嵐に負けないほどの強い風を放った。中からぶつけられた風に、嵐は瞬く間に小さくなっていく。そしてやがて、暴風は消え去った。
凱旋した青年は、故郷の街から市長の座と大金の謝礼を打診される。しかし、青年は静かに首を横に振った。カネも名声も捨て、彼は神鯨の背に乗り、海の彼方へと消えて行った。残されたのは青い空と、美しい凪の海。
海原を行く二人の背を描いた絵で締めくくられた本を閉じ、ガテルトはそっとそれを押し入れの上段に戻した。白のマナタイトの灯りも落とし、寝床に就く。
だが中々寝付けない。大好きな物語の登場人物(人ではないが)たる神鯨に会ったのだ。無理もない。
結局、彼がようやく眠りに落ちたのは、東の空が白む頃だった。
翌日のイジメは更に酷い物になった。彼が近所中に神鯨を見たと吹聴して回った(実際はそんなつもりはなく、他に目撃者がいないか知りたかっただけなのだが)という噂が広がっており。
「噓ついてんじゃねえよ!! 神鯨なんているワケねえだろうが!!」
キーフィスの拳が何度もガテルトの顔や腹を打った。それでもガテルトには謎の余裕があった。神鯨を見られたのは、きっと世界で数人もいないだろう。そして恐らくこの街では自分だけ。その事実が無意識に彼にゆとりを生んでいる。優劣に敏いイジメっ子たちはそれを察知してしまっているのだ。ただいくら殴っても、それが消えることはなく、結局、見ないという選択を取った彼らは、ガテルトをゴミ捨て場に放っておくことにした。
ただガテルトは心に余裕を持ちながらも、頭の冷静な部分では激怒していた。イジメっ子たち相手に恐怖ではなく怒りを覚えたのは初めてだった。昨日までの自分とはどこか違っている。やはりあの神鯨を見たからだろうか。
だが、その神鯨自体を否定された。あれほど美しく雄大な生き物を。子供の頃から憧れ続けた神秘を。それが堪らなく許せなかった。何か、プツンと糸が切れたのを感じた。
ガテルトは走った。もうどうせ今日は授業など受けられない。
やがて海岸まで来ると、下着だけになり、海へ入った。泳ぎはそこまで得意ではないが、遠浅の浜なので割と難なく海底まで辿り着いた。岩礁にくっつく貝を選別して拾っていく。そして浮上。それらを砂浜に仮置きし、家へと戻る。学校をサボったことがバレるとゲンコツが飛んでくるので、慎重に子供部屋へと忍び込んだ。幸い、幼い弟妹は外で遊んでいるのが半数、居間で内職をする母の邪魔をして怒鳴られているのが半数。誰にも見咎められなかった。自分用のマナタイトを二つほど持ち出し、また一目散に駆け、浜へ戻る。
「六色神様、ごめんなさい」
岩に打ちつけ、小さな破片を取る。
以前、父が漁網にかかった貝の一部が少し変色しているのを見たと、そんな話をしていた。漁師の先輩に聞くと、マナタイトの欠片を食って色が変わったアウロロ貝だと教えられたとか。貝珠まで色が変わっている物は珍しいので、それなりの値がつくとも。
「……それをもし人工的に生み出せたら」
父の話を聞いて以来、今までも考えたことはあった。だがここまで真剣に、それこそ学校を辞めてでも賭けてやるという、本気の気概はもちろんなかった。
「やろう。あそこに学びはない」
将来のため、中等学校まではと思っていたが、イジメで授業すら受けさせてもらえないなら、もはや通っても意味はない。ただ殴られに行くだけだ。
アウロロ貝とマナタイトの欠片を、岩場の窪みに一緒に入れる。そこへ海水を浸し、疑似的に海中と同じ環境を作る。これで食べてくれれば楽だが、その線は薄いと思っている。
「こんなので出来るなら、多分、既に漁師の誰かが成功させてると思うんだよね」
同じことを目論んだ者が今までいなかったとは思えない。それでも実現できていないということは、生半可な難易度ではないのだろう。
結局、その日はいい時間だったので、ガテルトはそのまま帰宅した。
翌日、学校に行くフリをして、また浜へ行った。幸運なことに、どこかの
岩場の窪みに放置していたアウロロ貝とマナタイトの欠片の様子を見る。欠片は寸分違わず、昨日置いた場所のまま。ついばみもしていないようだ。
「やっぱりか」
食べるには条件があるのだろう。
それから一日使って、色んなことを試した。だが一向にマナタイトを食べてくれる気配はなかった。
「そもそもの話、貝って普段は何を食べてるんだろう」
家に帰り、その疑問を父にぶつけたが、
「知らん。魚の死骸とかじゃねえのか」
と、にべもなかった。
「そういうの調べるのは高等学校の先生とか、大学の教授? だったか、そういう連中の仕事だろ。俺たち漁師は獲るだけよ」
そう言われ、ガテルトはガックリと項垂れた。高等学校など彼の家の財政事情では不可能。大学に至っては雲の上だ。そもそも中等学校すらコッソリと不登校状態の体たらくなワケで。
(しょうがない。独力で探そう)
磯桶に、アウロロ貝と岩礁の一部、魚の死骸を入れて一晩置くことにする。まずはまあ、父の仮説から当たってみようと。
翌日。朝起きて、家の裏に隠してある桶へと向かう。魚の死骸はそのままだった。落胆し、息を吐いた、その時だった。
「あれ?」
異変に気付く。岩礁についていた藻が少なくなっている気がするのだ。そしてアウロロ貝自体も、昨日は桶の中で微動だにしていなかったのが、今は岩に貼りついている。元々、海底の岩礁にへばりついていたのを剥がして来たのだから、そこにくっつきたくなる習性は分かるが。
「食べ物も岩に生えた物……だったのか」
これを前提に対応策を練らないといけない。ガテルトは桶を持ち、コソコソと家を離れる。通学路とは真逆、昨日と同じ浜へ。
道中で案を考える。自分のギフトを使って、藻にマナタイトの欠片をくっつけ、藻ごと食べてもらう。ギフト『
もしかすると大逆転の切り札になり得るのかも知れない。
「ただ……水中だと接着時間が短いから」
貝がノロノロと食べる間、くっつき続けてくれるだろうか、という不安は拭えない。
そんな考え事をしているうちに、浜に着いた。取り敢えず藻を採ってこようと決めて。桶を目立つ砂地の上に置きっぱなしにし、ガテルトは服を脱いで岩場の隙間から海へ下りていく。海藻の茂る場所を上から探し、海底に群生する箇所を発見した。チャポンと入水。岩礁地帯のため、慎重に。
すぐに底に着くと、生えている海藻の先っぽを手で千切る。それを持って浮上。
と。海面付近で、何か大きな声が聞こえた。水の中ゆえ、反響しているが……
(この声)
ガテルトは進路を変更し、岩場の裏へ回る。そこで海面に浮上し、すぐに岩陰に隠れた。そーっと顔を半分だけ出して確認すると、砂浜にキーフィスと取り巻き二人がいた。
「クッソ、どこ行きやがったんだ!? 俺たちのオモチャの分際でよ!」
すぐに分かった。連中は自分を捜しに来たのだ、と。二日ほど姿が見えないストレス解消用オモチャのために、わざわざご足労いただいた模様だ。
「クソが! クソ! クソ!」
見れば、キーフィスはガテルトの実験用の桶を蹴飛ばし、踵を打ち付けている。バキ、バキと音が鳴り、桶は見るも無残な姿に変えられていく。
「こんなゴミじゃ、つまんねえな! ガテルトの野郎を蹴っ飛ばさねえと、調子が狂って仕方ねえ!」
ゴミではない。将来を賭ける、大切な実験をしているのだ。
ガテルトは噛み締めた自身の奥歯がギチリと鳴るのを聞いた。
(なおも邪魔をするのか……! 僕が一体何をしたんだ、オマエらに!)
事ここに至って、ようやくガテルトは認識を改めた。無視や逃避でどうにかなる、そんな生易しい間柄ではないのだ。敵だ。明確なる人生の敵だ。排除しなければ、自分に幸せはない。未来はない。
結局、桶をボロボロに壊した三人は、数分後に帰って行った。
急がなくては、とガテルトは思う。早く実験を成功させなくては、連中に見つかり、あの桶と同じ運命を辿らされる。
ガテルトは砂浜に戻り、壊れた桶を見る。貝が近くに転がり、マナタイトの欠片は岩肌に投げつけられたらしく、更に小さくなっている。砕けた破片は固形というより粒、ないし粉という有様で……
「あ!」
閃きが、彼の脳内を駆け巡った。
「そうだよ。粉だよ」
これなら、くっつける面積が格段に減り、その分、効果持続時間も延びるハズだ。それに大きすぎると貝が吐き出してしまう可能性もある。いや、そもそも。天然で色が着いた個体は、欠片を食べたというより、何かの弾みで粉状に砕けた、その幾らかを体内に取り込んだ物ではないか。そんな仮説まで瞬時に浮かんだ。
連中が戻って来るとは思えないが、念のため、また岩場の奥へ。採ってきたばかりの海藻にマナタイトの粉を接着させたい。
ガテルトは痰ともまた違う、自分でもよく分からない液を口から吐き出す。誰に教えられるでもなく、自然と体内で生成出来てしまう液体。まあ確かに第三者から見れば汚らしく気持ち悪いだろうな、と自嘲する。
ともあれ。それを使って、無事に接着成功。
「あとは水中に放置して、どれくらい接着が保つかだな」
再び潜行。海底を探し、手頃な石を見付ける。それを海藻の上に載せて固定。波も穏やかなので、流される心配はないだろう。
その日は放課後近くまで時間を潰してから、家に戻った。父も母も何も気付いた風はない。というより、幼い弟妹の世話に手一杯で、ガテルトのことは頭にないようだった。二日のサボリに対して、捜しに来てくれたのはイジメっ子連中だけというのは、なんたる皮肉だろうと、一人で苦笑してしまった。
翌日は土曜日ということで学校自体が休みだった。朝早くから浜へ行く。チンタラしているとキーフィスらに捕まるかも知れないからだ。昨日、重石を使って固定しておいた藻の様子を探ると……
(半分くらい齧られてる)
恐らくはアウロロ貝の仕業。周囲を探すと、いた。貝殻が緑色に変色しかかっている平貝。
全てが上手くいっている。なんという幸運だろう。今までの不運の揺り戻しが一気に押し寄せているかのようにも感じられる。
捕まえると、浮上。コッソリと家の桶をくすねて来ているので、そこに入れる。岩礁の欠片も置いて、海水で満たした。再び海に潜る。藻を幾つか千切って戻り、緑のマナタイトの粉をそれぞれに接着させた。
家に帰っても手伝いをやらされるだけ。もしかしたら、その途中でキーフィスらと鉢合わせる可能性もある。ここで待つことにした。桶の中身を見つめながら、ジッと、それこそ貝になったように。
……そして。
「……」
数十分かけて、貝はニジニジと動き、マナタイトの粉末を接着した藻の前まで来ると、貝殻を開いて口を伸ばした。嚙み千切り、咀嚼する。ガテルトは興奮で目の前がチカチカした。やった。成功だ。きっとこれを与え続ければ、人工的に色を着けた貝珠を生み出すことが出来る。
緑のマナタイトを更に砕き、石で擂り潰す。それを藻にくっつけ、食べさせるという工程を一日中続けた。貝がもう食べなくなるまで。
ちなみに、一定以上の大きさのマナタイトはやはり食べないということも分かった。となると天然で色が着いている個体は、粒以下の大きさの物を複数回食べたということだろう。非常に珍しいのも当然だ。
そして遂に。夜半近くになり、緑色の貝の中が、ぼうっと淡く光る。実験の成功。真水に漬けると、呼吸が苦しくなった二枚貝が開く。その中から現れた、緑の美しい貝珠。それを取り出し、見入った。小さい。恐らくもう少し育ってから採るのが良いのだろうが、その時のガテルトにはそんな余裕はなかった。
早く売ってカネが欲しい。成功したい。ヤツらを叩きのめし、何者も恐れない、あの魔術師のようになりたい。ガテルトは走った。叫び出したい気持ちを抑えながら。成功への道筋を示す輝きを手に持ったまま。
………………
…………
……
そこからは目まぐるしく事態が動いた。彼が首都の商会に持ち込んだ緑の貝珠は、なんと金貨10万枚の値がついた。世界で初めて発見された色ということで、上流階級の間でも話題になった。ガテルトは、即座に用心棒を雇った。値は張ったが、資産家相手にしている信用第一の企業に依頼した。必要になる場面が絶対にくるだろう、と。
また擦り寄って来た資産家連中の中から、割と評判の良い者を選び、ビジネスパートナーとして契約を結んだ。第2都市に移り住み、その資産家の庇護の下、今度は赤のマナタイトを食わせた貝珠の採取に成功した。売り上げの三分の一をパートナーの資産家に渡し、設備投資をさせた。そして量産体制が出来上がる。
然る後は、トントン拍子。ある程度、市場の値を制御しながら供給を増減する。面白いように儲かった。
後追いの連中も出てきたが、やはり藻に粉状のマナタイトを付着させたまま、水中に置くというプロセスが再現できない。結局、『接着口液』を使えるガテルトにしか、この養殖産業は扱えないということで決着。これで独占市場となった。
そして時は流れ。三年後。故郷の街へと凱旋したガテルトは、既に王となっていた。この三年の間に、地元の農園を全て買収。そこで働くキーフィスを始めとした、元イジメっ子たちの親族を全て最底辺まで降格。逆に父が働く漁業組合には多額の援助をして味方につけ、市長や警察まで買収は済んでいる。その状態で帰って来たのだった。
「ガテルト様。連れてまいりました」
縄で縛られた状態の、キーフィスと取り巻き二人を、部下が引き連れてくる。三人は以前より痩せていた。ロクに物が食べられていないのだろう。
「よう。久しぶりだな」
ガテルトは三人に視線をやる。歯噛みするキーフィスと、許しを乞うように卑屈な目をした取り巻き二人。
「テメエが……親父を!」
「ん?」
「先日、自殺したみたいです。生活苦で」
部下が注釈を入れる。
「ああ……給料半分にしたんだっけか。特に理由もなく」
あっけらかんとしたガテルト。そこに吠えようとしたキーフィスだが、
――ボキッ!
硬い木の槌を振り、その顔面を思い切り殴られる。やったのはもちろん、ガテルトだった。
「こっちも!」
取り巻き二人の顔も、それで殴りつける。鼻が折れたのだろうか、血が飛び散る。
「ぐ……あ、ああ」
うずくまる三人。そこで草むらから「ひ」と小さな声が聞こえた。鋭く振り返ると、かつての教師がいた。イジメを黙認、どころか消極的ながら参加していたような男。
「捕まえてきて」
指示を出すと、用心棒の男がスッと腰を低くし、駆ける。泡を食って逃げ出した教師だが、本職に敵うハズもなく、敢えなく捕まる。他の三人同様に縄をつけられ、蹴り飛ばされると、頭から地面に突っ込んだ。その姿を見て、浮かぶ光景。
「いやあ、懐かしいな。俺が蹴られて引っくり返ってるのを見て、水揚げされた魚みたいだって笑ってたの覚えてるか? オマエら」
必死に首を横に振る取り巻き二人。
「そうか、覚えてないか。俺は忘れたことなんてなかったのに…………やった方が忘れてるって、どういう了見だ? なあ!! なあ!!」
立て続けに槌を両者の肩に打ち付ける。鈍い音がして、二人は泣き叫んだ。
「たすけ……たすけて。仕方なかった、仕方なかったんだ」
命乞いを始める教師の醜悪な顔に、槌を振り下ろす。ゴシュと変な音がして、鼻と前歯が折れた。絶叫。あのキーフィスですら、瞳から力を失い、完全に心が折れていた。
その後はひたすら槌で人を打つ音と、悲鳴が響いた。
暴行は一時間以上に及び、終わる頃には四人全員が、もう二度とマトモに歩けない体になっていた。
ガテルトは他の級友たち、嘲っていた者は最下層労働者に落とし、見ていただけで何もしなかった(出来なかった)連中は街の外へ追放とした。
こうして彼の復讐は完了したのだった。
そして彼は『養殖王』などと呼ばれるようになり……いつからだったろうか。マナタイトを使えなくなっていた。
当然だろう、とガテルト自身も思う。恩寵の塊を砕いてカネ儲けの道具にして、そのカネで復讐に手を染めた。神の怒りを買うには十分すぎる所業だ。
また復讐を終えて以降、彼は次なる目標を見つけられずにいた。ポッカリと胸の奥に開いた穴を、塞ぐ術を持たず。そんな日々を送るうち、ふとあの絵本のことを思い出した。今まで忘れていたことが、まずショックだったが。
「あの魔術師のようになりたかったのに……六色の神髄は遥か遠く。欲塗れの
原初の願い。子供の頃になりたかったもの。いつしかカネに目が曇り、復讐に囚われ、忘れ去っていた。今更もう遅いのだろう。
きっとあの魔術師のようになるには、あんな下らない連中と同じ所に立ってはいけなかったのだ。まして同じことをして自らの魂を穢すなど。
はあ、と小さく息を吐き、書斎を出る。
と、そこで。窓の外に強い発光。うわ、と呻き、慌てて腕を顔の前に上げる。
「どうされました? 旦那様」
声を聞きつけたか、廊下の向こうから秘書の女が駆けてくる。主人の様子を見て、次いで窓の外に視線をやり。怪訝そうに首を捻る。
「……キミ、あれが見えてないのか?」
「えっと……」
不意に思い出した。あの
「旦那様!? 午後から会合が!」
「キャンセルだ!」
中年の体に鞭を打ち、ガテルトは走る。屋敷を飛び出し、通りを疾走し、やがて見つけた。僅かに光る、不思議な屋台を。
「いらっしゃい」
カウンターの向こう、青年がいた。黒髪黒目。上背はかなりあり、不思議な模様(或いは文字か)のシャツを着ている。
「こ、ここは……」
「異世界屋台・一期一会だ」
「いせかい……異世界!?」
「うわ」
「もしかして魔術師様でいらっしゃいますか!?」
「え? いや、そのパターンは初めてだな。自分で言うのもアレだが……元マレビトって立場になるかな」
「マレビト……あ、ああ。そうですよね。マレビト様……」
そうあって欲しいという願望が、教会の教えを失念させていた。マナタイトすら使えない不信心者らしい失態だ、と内心で自嘲する。
「なんか知らんが……元だから、今はただの料理人だよ」
「料理……異世界の料理でしょうか」
「まあ、そうなるな。今日はアンコウの唐揚げだ」
「アンコウ?」
「珍しい魚だよ。頭に光る提灯がついてるんだ」
そう言って、マレビトは屋台の端に吊り下がった赤い楕円を指す。
「それで深海を照らしながら泳いでる」
ガテルトは衝撃に固まっていた。光る魚。それを美味しそうに食べていた物語の神鯨と主人公。
以前、魚に詳しい大学教授を数人招いて、そんな魚が青の国に居ないか訊ねたことがある。全員が首を横に振った。それが、まさか、まさかである。
「異世界に……居たのか」
「え?」
「是非! 是非、食べさせ下さい! マレビト様! 金貨を100枚、いや1000枚でも! もっとと仰るなら!」
「ちょっと落ち着け。銅貨八枚の定食だよ」
「銅貨八枚!?」
あまりに安すぎる。もはや今の興奮と喜びだけでも、その百倍は払いたいくらいなのに。
「待っててくれ。料理を持ってくる。さっき揚げたばっかりだからな。美味いぞ」
人の良さそうな笑みを浮かべて、青年はクルリと後ろを向く。ガテルトが訝しむ前に、足を一歩踏み出す。すると長方形の空間が突如光り輝き、
「な!?」
青年の姿が吸い込まれた。驚き固まっていると、彼はすぐに戻って来た。薄目を開けて確認すると、どうやらトレーを持っている様子だ。
「はい、おまち」
店主がそっと提供台に置く。その上には……
「見たこともない料理だ」
キツネ色の衣をつけた小さな塊と刻んだ野菜を載せた皿。白いライスの入った椀。水の入ったグラス。
ガテルトはフラフラと椅子に座る。自分の部屋のベッドと同じかそれ以上に柔らかい布団が、座部に敷かれていた。だがそれよりも惹かれてやまないのは、料理の方だった。
「い、いただきます」
フォークを取る。キツネ色の塊が、きっとアンコウとやらだろう。突き立てる。口に含んだ。途端、サクッと小気味よい音を立て、割れた衣。その下からプリプリの身が現れる。衣についた絶妙な塩と香辛料の味わいと、魚の身の甘さ。
そしてその身は、どんな魚にも無い独特の弾力を持っていた。味の方も、白身魚のような淡白さと思いきや、噛めば噛むほど旨味が溢れてくる。
(美味すぎる! こんなに美味い魚がいるなんて!)
思わずライスへとフォークが伸びる。掬いあげて一口。こちらも上質の一言。粒立ちの良さと、自然な甘みに舌鼓を打った。
「……アンコウ。神聖生物と魔術師。俺は今、彼らと同じ物を食っている」
知らず、涙を流していた。店主が驚きに目を見開くが、ガテルトは構う余裕もない。
一心不乱に食べ続ける。止まらなかった。サクサクの衣、プリプリの白身。途中でレモンなる果実を渡され、言われるまま絞り果汁をかけて食べたのだが、これもまた爽やかな酸味が良い刺激となって美味だった。
上流階級のマナーも忘れ、それこそあの絵本を読んでいた子供の頃のように、ガツガツと貪るように食べ続け……やがて完食。
「お客さん、大丈夫かい? 泣きながら食いまくってたけど」
「美味しすぎたのです。私個人の感傷もありますが……とにかく美味しすぎたのです」
「そ、そうか。それは良かった。ありがとう」
厚く礼を言いたいのは間違いなくガテルトの方だ。懐から銅貨八枚を取り出し、恭しく提供台の上に置いた。そちらに店主の目が行っている間に、そっと巾着袋ごと椅子の下に忍ばせ、
「ありがとうございました。本当に、本当に。素晴らしい料理でした」
深く深く頭を下げた。きっと普通に渡したのでは受け取らないだろうと思い、騙し討ちのような形で残す巾着。金貨が200枚ほど入っているが、それでも感謝を表すには全く足りないくらいだ。
「ありがとう。元気でな」
聞けば、この屋台は恐らく二度とここには出ないということ。不思議な物だが、何故かストンと納得してしまった。そしてそれで良い、とも思った。次に幸運を待つ客の下へ、そして次へと、転々としていくのが、きっと一番良いのだ、と。
そして、不意に悟った。
(あの神鯨も、きっと魔術師も。そういう類の存在なんだ)
追いかけて、独占して何になる。ましてそれになりたいなどと。
ガテルトは緩く笑う。屋台に背を向けて歩き出した。
「……アンコウ。深海、か」
彼らには届かなくても。彼らにはなれなくても。食べていた物くらいは共有できるかも知れないから。
新しく出来た次なる目標に胸が躍った。
駆け出していた。屋台を見つけた時といい、今日は童心に帰ってばかりである。内心で苦笑しながらも、ガテルトの足は止まらない。街の外れにある小高い丘を登りきると、サーッと潮風が吹いた。遥か遠く、水平線まで広がる青。
海は美しく、静かに凪いでいた。
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