27:粕汁(黒の国・第8の都市)
オーシェリー・ゾルダムの朝は爽やかな緑の香りから始まる。常緑樹の若木を庭全体に植え、苗木などは鉢へ入れて部屋の中に安置している。
ただ実は、これらは趣味などではない。彼女にとっての過ごしやすい空気を保つための施策なのだ。
「すう……はあ……」
ベッドから半身を起こした状態で、ゆっくりと深呼吸する。瞑想するように瞼を閉じて、数瞬。
「仕方ない。今日も行きますか」
足取りも重く、ベッドを抜け出す。手早く朝食を摂り、支度を終えて家を出た。朝の八時過ぎ。黒の国で一番の工業都市である第8では、多くの労働者が各々の勤め先の工場へと向かう。既にその混雑で空気が悪くなっている。オーシェリーは顔をしかめながら、街の外れにある気球の発着場へと向かった。
「「おはようございます。浄化の聖女様」」
発着場の中、個人用の気球の前には、既に白装束に身を包んだ女性の鳥人が二人、オーシェリーを待っていた。
「おはよう。今日もよろしくね」
白い軽木で作ったゴンドラに乗り込むと、鳥人がロープと自身の体を連結し、金具で固定する。オーシェリーは、ゴンドラの底についた黄のマナタイトに向かって、
「ゴルダーマ様、お願い申し上げます」
黄の神、ゴルダーマにそっと祈りを捧げる。寡黙で他の神々との交流も少ないとされる男神だが、祈りにはキチンと応えてくれる。
上昇気流が巻き起こった。鳥人たちも両翼を羽ばたかせ、それに乗る。気球はあっという間に、空高くへと舞い上がった。それを鳥人の二人が粛々と牽いていく。
――カラーン、カラーン
朝の九時を告げる鐘。行く手にある時計塔から聞こえてくるその音色は地上で聞くより大きく、そして澄んでいる。朝日を浴びて金に輝く美しい鐘が揺れる様を、気球から眺める。地上の無機質な街並みと対比が際立ち、これだけで観光資源になりそうな光景だった。オーシェリーも最初に見た時は、心奪われたように見入ったものだが……これが毎朝のこととなると、いい加減慣れたもので、気球の中で立ち上がることもしない。ボンヤリと座りながら、あくびを噛み殺している。
「そろそろです」
「は~い」
目的地は少し先。
塔の先端には椀のような形のマット(落下防止用)が張られている。その真上に気球を着けてもらい、浄化の聖女はゴンドラを乗り越え、マットの中に降り立った。その中央には梯子があり、そこを下りて行くと塔の見晴らし台に足が着く。そこが彼女の職場だった。
第8の都市は特に大気汚染が激しく、経済力だけで言えば黒の国の3番目に当たるハズの、その都市価値を著しく毀損している。六色神教は清潔を重んじるため、教会が定める都市の格付けで8番目まで下げられているのだった。
「そんでまあ、対策しないとってことで。私みたいなのが他国から招かれたってワケなんだよね」
誰に向かって言うでもなく……気球が帰ってしまうと、完全に一人の世界になるため、独り言も増えるのだ。白の国の聖都にいた頃は、こうではなかったのだが。
九時を回って。地上の工場が稼働を始める。下を向くと眩暈がしそうなのは、未だに慣れない。塔には内階段もあるものの、到底昇り降り出来る高さでもなく、ここだけ完全に地上から切り離されたような寂しさがある。まあ同時に解放感もあるワケだが。
「好きか嫌いか、で言えば……どうなんだろうね」
一人で出来る仕事は気楽だ。だが都市一つの毒を浄化するのは中々に骨で。地上では他の除毒のギフト持ちたちも街を練り歩き、大気を正常に戻しているが、実はあまり戦力にはなっていない。彼らが劣るというワケではなく、純粋に適材適所ではないのだ。
一般的な除毒のギフトは人に対して行使する。患部などに手を翳し、祈りと共に神の御業の一端を借りるのだ。
だが相手が大気では手を翳すにも、
比して、オーシェリーのギフトは『
「……はあ。一段と空気が悪くなってきた」
工場からモクモクと黒ずんだ煙が上がり、上空に昇ってくる。仕事の始まりだ。といっても、吸って吐くだけ。難しいことは何もないが、単純に疲れる。常にギフトを行使しているようなもので、これを八時間やるワケだから、一日の終わりにはクタクタだ。そのため、自宅は緑で囲って常に空気を清浄に保ち、帰り着いてまでギフトが勝手に発動しないようにしてあるが。それでも疲労は抜けきらない。
「すう……はあ……」
徐々に無心になっていく。目を閉じて、呼吸を続ける。ふと気付く。今日は自分の23歳の誕生日だと。それを誰に祝われることもなく、異国の地で、見知らぬ人々のためにギフトをふるっている。きっと10年前の自分に言っても信じないだろうな、と口元を皮肉げに歪めた。
………………
…………
……
オーシェリーは白の国の田舎、第29番目の都市の出身である。家は酒蔵、米を使った酒を造っていた。南部の比較的穏やかな気候下で育つ地元の米を使って、堅実な経営をしていた。地方の村落と言っていい規模の第29の中にあっては、かなり裕福な暮らしが出来ていて、彼女も不自由の少ない幼少期を過ごした。
だが。彼女が酒蔵を継ぐことはなかった。才能が無かったのだ。彼女が作る酒は、どうにも味が悪く、そもそも酒にすらならない場合も多かった。何度やっても、何をどう変えても、彼女の酒は不味かった。売り物にならないレベルで。
幸いにも弟が二人、妹も一人いるため、オーシェリーは早々に跡目を譲ることが出来た。
その後は、しかし進路に困った。しばらく実家で自堕落に過ごしていたが、最終的には、父に聖都の大学に行って医者になれと言われて、言われるがまま家を出た。他にやりたいこともなかったからだ。学費は父が用立ててくれると言ってもらえたのも大きい。
だが彼女の除毒は極めて効果が弱く(正確には除毒のギフトではないので当然だが)、ここでも落ちこぼれた。幸い、無駄なプライドなどはない性分なので、通い続けることは出来たが、卒業は怪しかった。
そんなある日のことだった。授業を受け、寮に戻ると寮母に呼び止められた。来客があると言うのだ。家族が手紙も無しに会いに来ることはない。だが緊急なら有り得る。不安で呼吸が浅くなりかけたが……
「大聖徒様のお二方だよ。くれぐれも失礼のないようにね」
寮母のその言葉に、今度は呼吸が止まりかけた。
意味が分からない。大聖徒に知り合いなど当然おらず、何か宗教上のタブーを犯した自覚もない。逆も然りで褒められるような信心を持ち合わせているでもない。
つまり……全く用件が分からず。しかし相手は自分のような一介の学生では及びもつかない地位の御仁たち。
寮母に案内されるまま、応接室へ向かう。おっかなびっくり、ドアをノックすると、女性の声で「はい。お入りください」と返事があった。
一度、大きく深呼吸をしてから、
「失礼します」
部屋へと入った。部屋のソファーに、二人の大聖徒が腰掛けていた。男女だ。どちらも見覚えのある顔。
(
大物だった。息を飲んだオーシェリーに、リアンナムの方が優しく微笑みかける。
「今日は急にお訪ねして、ごめんなさいね」
「あ、い、いえ。そんな」
しどろもどろに返した。
「オーシェリー・ゾルダムさんご本人で間違いない、ですか?」
オプトに質問され、咄嗟に言葉が出てこず、コクコクと首を縦に振った。
「アナタには
「は、はい!」
裏返って大きな声が出てしまった。
「そんなに緊張しないで。今日は私たちの方が、アナタにお願いをしに来たのですから」
「お願い……ですか?」
「ええ。アナタ……大聖徒になる気はなくて?」
「え!? ええええ!?」
オーシェリーは驚きのあまり、大聖徒二人の前だというのに、はしたない大声を出してしまった。我に返り、慌てて口に手を当てる。顔が熱くなっているのを自覚する。
「大学に通われているのなら知ってらっしゃるかも知れませんが、今、黒の国は工業の発達が目覚ましいのです」
確かに教養の授業で習った。またもコクコクと頷いて返す。
「ですが、その弊害として大気汚染が懸念されています」
なんとなしに話が読めてきた。
「私に黒の国で空気浄化の業務をやらせたい。そのために大聖徒になって欲しいということですか?」
案の定、二人は小さく首肯した。
「清潔なる暮らしは神々の教え。これをあまねく六国に遂行してもらうのも、我々の務めです」
「喫緊かつ、教義上の要請ということだから……普通に大聖徒になるより、特例で部分免除を出せる分、修行も厳しくないわ。どうかしら?」
大聖徒二人がかりで必要とされれば、思わず勢いで「はい」と頷いてしまいそうになるが。生憎、父の温情で大学に通わせてもらっている身の彼女は、独断で転進を決めることは出来ない。言い淀むオーシェリーを見て、
「……急だったものね。また日を改めてお訪ねするわね」
「そうですね。一ヶ月後といたしましょう。それまでにご家族と相談して結論を出していただけますと」
大聖徒の夫婦は、そうして猶予をくれたのだった。去り際、家族を説得するための材料にと考えたのか、教会の
二人が帰った後、オーシェリーは急いで最低限の支度を済ませ、気球の発着場に向かった。そして、聖都から南の第5都市へ行く乗り合い気球に飛び込んだ。
そこから約一日。気球に揺られ、第5に着くと、そこから馬車で更に四日ほど。故郷、第29の都市に帰り着いた。
家族は突然帰って来た彼女に驚きながらも、歓迎してくれた。酒と干し肉を持ってきて、昼間から酒盛と洒落込みそうな父。彼が酔っ払って正体不明になる前に、
「あのね! 私、大聖徒様になれるかも知れないんだ!」
帰郷の用件を伝えた。
寝耳に水の家族たちは、
「ええええ!!?」
「なんの冗談だ!?」
「お姉ちゃん、すごーい!!」
大わらわ。静まるのを待って(三分近くもかかった)、預かった封書を開きながら、詳しい事情を話す。
真剣な表情で聞き入っていた家族たちだったが、リアンナムとオプトの名を聞くと、俄然目の色が変わった。
「す、すごい。本当にリアンナム様と……」
リアンナムは『刻声の聖女』として、各地の教会に音声の流れるガラスを配り、布教に努める大聖徒。白の国の子供たちは、みんな彼女の声を聞いて育つとまで言われる有名人中の有名人だ。
またその夫オプトも、『暦の使徒』と呼ばれ、体内で正確に時刻を測るギフトを行使し、大聖堂の新年の挨拶をする、教会の顔の一人である。いや或いは、この挨拶で以って各国各地は暦合わせをすることを鑑みれば、教会一の有名人と言っても過言ではないかも知れない。
そんな二人に、娘(姉)が直々に勧誘を受けたなど、家族はにわかには信じられず夢心地だった。だが目の前の封書には、オーシェリーの説明と同じ内容が書かれ、文末には確かに二人の大聖徒の名が記されている。蝋印も間違いなく教会本部の物で。
「そうか……本当に。ウチのオーシェリーが。にっちもさっちもいかなかったドラ娘が」
「ねえ。どうしたものかと思って、大学にやってはみたけれど、成績は微妙。もう本当にハズレギフトとばかり……」
両親は言いたい放題だが、まあオーシェリー本人としても反論は出来ない。実際、大学を卒業できなかったら、どうやって生計を立てようか途方に暮れていたところだったのだから。
「お父さんには申し訳ないけど、この話を受けたら大学は」
「ああ、辞めなさい。今すぐ辞めなさい」
娘の言葉に被せるように父は言う。除毒のギフトを持っていて、大学を出さえすれば割と簡単に名乗れてしまう医者という職業と、選ばれた者しかなれないと言われる大聖徒。人々から集める尊崇も、後者の方が遥かに大きい。しかも今回は、教会を代表して他国に特使のように派遣されるという栄誉までついてくる。大学と天秤にかけるまでもなかった。
「祝杯だ!」
「そうね! お酒。蔵からとびきりのヤツを!」
その夜、近所の家の者たちも招いて宴会が行われた。
聖都に戻ったオーシェリーは大学の事務局に事の顛末を告げ(ここでも祝福された)、退学の手続きを取った。そして期限の一ヶ月を待たず、リアンナムの下に弟子入りを果たしたのだった。
そこから一年ほど修行をし、晴れて大聖徒となる。
家族に見送られ(流石にこの時は両親も泣きながらオーシェリーを抱き締めた)、黒の国へ旅立った。そして、第8の都市に到着すると、早速むせた。空気が悪すぎて、倒れるかと思ったくらいだ。なんとか堪えながら、市長に挨拶をした。この大気汚染に光明を与えてくれる聖女という触れ込みから、彼はもう平伏せんばかりの歓迎ぶりだった。
「あちらに聖女様のための
こう言われた時には流石に面食らい、同時に少しの重圧も感じたが。元来、あまり諸々に動じない性格のおかげもあり、すぐに順応した。
(まあ私がやるのは呼吸だし)
尖塔の頂上だろうが、陸の孤島だろうが、酒蔵の中だろうが、無差別的に発動してしまうのが
そして……初出勤は大成功に終わった。
市民に「本日の空気について」というお題で無記名投票をさせたのだが、実に90%以上が「非常に良かった」に丸をつけて投票箱に入れたのだ。
この結果を受け、市長は大喜び。寄進として金貨100枚を即金で包んだ。オーシェリーもリアンナムに師事して初めて知った事だが、海外で活動する大聖徒への謝礼はカネであることが多いようだ。ただ生活費に充て、贅沢をしてはならない、とは言い含められているが。
(とはいえ、腐敗してる人もいるだろうなあ……これは)
監視の目がない状況下で、大聖徒の威光と少しの貢献で簡単にカネが手に入れば……そんなことを考えたが、オーシェリーはすぐに面倒になってやめる。そういった者を正したり、処罰するのは自分の仕事ではない。
(吸って吐くだけ)
そう。自分にはそれだけ。
分を弁え、欲をかかず、無理もせず。処罰も褒賞もされないくらいに、つつがなく。
こうしてオーシェリー・ゾルダムは三年の月日をこの街で過ごしているのだった。
………………
…………
……
そんな追想をしているうちに、昼時になっていた。工場の煙が一旦止まる。労働者たちの昼休憩だ。オーシェリーも立ち上がり、グッと背伸びをする。どこの骨かは分からないが、ポキポキと小気味いい音を立てた。
塔の下を見る。毎日、朝に出勤して、昼に一時解放され、また午後から働いて、夕方に帰る。その繰り返しだ。まるで工場の機械の一部のように思えてならない。
そして自分の人生も、きっと同じだ。家業が安泰だし、家族にも望まれているので、継ぐことにして。ダメだったので親の言うまま大学に行って。そこでもまたダメだったが、大聖徒に請われるという身に余る話を受けて。
「なんか、主体的に何かをやりたいって思ったことも動いたこともない気がする」
人生の大きな岐路では、いつだって外部から加わった力に従って動いただけ。
「実際、私って何がしたかったんだろう」
酒を造りたかったのか。医者になりたかったのか。大聖徒になりたかったのか。多分そのどれも、他者からの働きかけがなければ自分は選ばなかったように思う。
「自主性の欠落……息を吸って吐いて、キレイにする以外に能がない装置」
自嘲の笑みを浮かべたところで、きゅるると小さく腹が鳴る。自分も昼を食べなくては。オーシェリーはその場に座り込み、カバンから握り飯を取り出す。純然な白い食べ物なので、大聖徒の食事ノルマをこなしやすくて重宝している。
「不味いんだけどね……」
二、三口かぶりついて、ボソボソとした米を咀嚼。水筒に口をつけ、水で流し込んだ。冷たくて、目の奥がキーンとする。12月も末、この高さの塔の天辺は、尋常じゃなく冷え込む。
ブルルと体を震わせ、その拍子に握り飯を落っことしそうになった。
「おっとと」
両手で包み込んで事なきを得る。と、その時。突然、目を焼かれた。カッと強い発光。朝日を直視した時のようだった。
「ひゃああ!?」
慌てて地面を横に転がる。光に背を向け、握り飯を胸の中に抱き込むようにして体を丸める。一体何が起きたのか。混乱する頭で、必死に状況を推理しようとするが、その前に。
「す、すまん。大丈夫か!?」
これまた突然、男性の声が聞こえた。すぐ近く、背後からだった。オーシェリーは慌てて振り返る。後光が差すようにして立っている男性。黒髪黒目、年の頃は彼女よりいくらか年上だろうか。
体を起こす。警戒心から、尻をついたままジリジリと下がる。ここはある意味、陸の孤島だ。何かされて、大声で叫んでもまず地上に届くことはない。うら若き乙女の危機管理として、送迎の鳥人族すら女性を指定しているくらいなのだから。
「……あ、アナタは誰ですか?」
「ああ。警戒しないで欲しい、と言っても無理だよな」
男性は両手をこめかみの辺りに挙げて、敵意が無いことを示しているらしいが。
「俺は
「いせかい……やたい。異世界の方といえば、マレビト様ということになりますが……」
オーシェリーは両目を胡乱げに細める。発光しながら突然、何もない場所から現れる。確かに珍しいギフトのようだが、ただちに異世界人という証明にはならない。
「うーん、まあ……というか、さむっ! ここどこだ。うわわ、メッチャたけえ!」
男はオーシェリーから視線を外し、塔の欄干に手をついて外を見た。最後に下を見て、後ずさり。
「ここが浄化塔と分かっていて、やって来たのではないのですね?」
「浄化塔? 今しがた下を確認して、街の雰囲気的に黒の国だと分かったけど……来る前にカンニングした時は、青や緑の国とかの灯台の天辺かなと思ってたよ」
「??」
「ああ。俺のギフト、異世界屋台なんだが、繋がる場所も料理を提供する相手も、俺の方では選べないんだ」
「……」
ウソを言っている風ではない。
「普段は屋台を出すんだが……ここじゃスペース的にキツイな」
男は周囲を見回し、苦笑する。
どうも一向に危害を加えてくる気配はないうえ、理性的な会話が出来るので、オーシェリーは少し警戒を緩める。
「ここ、浄化塔と言ったっけ? もしかして空気を浄化してるのか?」
「は、はい。そうです。私の
「ああ、それはそれは。いつも世話になってるよ。アンタが居なかったら、公害になってるかもだからなあ」
謎に感謝されてしまった。
「……私は、浄化の聖女オーシェリー・ゾルダムです」
取り敢えず、自分の素性を明かす。下手なことをすれば教会を敵に回し、神罰が下ると釘を刺す意味合いだ。だが、
「ああ、大聖徒さんだったのか」
男はあっけらかんとしたものだった。
「つい最近も会ったよ。やたら良い声なのに、キャンキャンとやかましい子。リアンナムって人と一緒にウチの屋台に来た」
「!?!?」
まさかの情報が投げ込まれた。良い声だが、話すと残念な女子。オーシェリーには心当たりがあった。『
「もしかして本当に……シナノ様以外のマレビト様……?」
「ああ、
「!?!?」
もう疑いようもなかった。オーシェリーは握り飯をカバンの上に置いて、自身は平伏する。床に額をつけ、不動の構え。
「いきなりどうした!?」
「大変な無礼をいたしました。どうかお許しを頂きたく」
しかも冷たい床に額をつけたことで、頭が冷えたのか。二ヶ月ほど前、リアンナムからの手紙に、白の国に新たなマレビトが現れたという記述があったのを思い出していた。興味がないので読み飛ばしていたのだが……不良大聖徒の不明、ここに極まれり、であった。
「いや、別に無礼をされたってことはないが。まあ、聖女の割には総本山に現れたマレビトの情報も入れてないのかと驚いたけど」
「うぐ」
「……取り敢えず寒さも限界だし、一度、上着を着こんでくるわ」
「え?」
顔を上げたオーシェリー。ちょうどマレビトが背を向けたところで……先程と同じく強い発光をマトモに正面から受けてしまう。
「うわああ!?」
「あ、悪い」
詫びを言い残して、マレビトのイイフクはそのまま光の中へ踏み出し……
「消えた……?」
眩しくて目を細めてしまっていたが、確かに彼の背中が逆光の中に、ふっと消えたのを見た。オーシェリーは立ち上がって、光の奥へ目を凝らす。徐々に収まっていく発光と、見えてきた景色。緑の草を編んで作ったマットだろうか、それが部屋中に敷き詰められている。中央に、小さなテーブル。その上に黒く四角い鉄の箱(用途不明)が置かれていた。
と。イイフクがこちらに戻ってくる気配。慌てて顔を引いて、床に座り直した。
また軽く発光。もう三度目ともなれば慣れたものだ。やがて戻って来たイイフクは、小さな布団のような物を二つ小脇に抱え、両手で先ほど見た小さなテーブルを持っていた。
「よいしょ」
床に布団を投げて、その前にテーブルをドカッと置いた。オーシェリーが顔に疑問符を浮かべていると、
「次は料理を持ってくるよ。あったまるぞ」
優しげな笑みでそう言う。
再び光の中へ消え、すぐ戻って来た。手には大きめのトレー。
「異世界屋台ミニマム版の、本日のメニューは粕汁だ」
「かすじる」
「酒粕と味噌、各種調味料を合わせて、具材とともに煮込んだ料理だ。あったまるぞ」
「酒、かす」
酒とつくからには、自分でも知っている食材だろうか。オーシェリーの目の色が変わる。だが詳しく聞いてみると、酒を造る課程で出る、白いボソボソの固形物のことだった。微妙に匂いがあり、使い道もなければ売れもしないので、実家では廃棄していたハズだ。
「……」
イイフクは意気揚々と、トレーをテーブルまで持ってくるが。オーシェリーとしては期待を打ち砕かれたような心地で、出来ればどうにかして料理提供を断りたいとすら思っていた。
だが、彼の手元から漂う香りを嗅いだ瞬間、押し黙った。
(お酒の甘ったるい匂いと……この香しい匂いは何だろう)
イイフクがトレーをテーブルの上に置いた。そこから椀を一つ、差し出される。受け取った手がポカポカと温かい。中を見ると、白っぽい色をしていた。確かに酒と似ている。
喉が鳴った。美味そうだ。料理を断ろうと思っていた数瞬前と180°心変わりしていた。
「……中の具は」
「肉とゴボウ、大根、こんにゃく、ニンジン、薄揚げ、鮭の切り身だな」
「……知らない物が沢山」
「あー。悪い。俺も今日の客が大聖徒とは知らなかったから。食べれなさそうか?」
「いえ。いただきます。普段、
不良聖女、ここにあり。まあミリカなども似たような考え方だが。
オーシェリーはトレーに置かれた箸を右手に、椀を左手で持った。熱いから気を付けてな、というイイフクの助言に従い、慎重に一口。まずはスープを口に含んだ。その瞬間。少しだけ残っていた、「本当にあんな酒の粕が美味い料理になるのだろうか」という疑念は……吹き飛ばされた。
(これ……確かにお酒が持つ、甘い果物にも似た
口当たりがまろやかで、簡単に飲めた。喉を通ると、体の芯に春が訪れたかのようにポカポカとした温かさ。実家に帰った時の安心感を思い出していた。
「美味しい。それにあったかい」
箸を使って、椀の中身を掬う。魚の切り身を拾い上げた。口に入れると、ホロリと崩れる赤い身。骨も取ってあるようで、そのまま噛んで飲み込む。少し硬い食感と、塩辛さ。その中に脂の旨味がジュワリ、と。酒と味噌のスープがそこに絡み、複雑で濃厚な味わいを生み出していた。
「……」
米が欲しくなり、カバンの上に避けておいた握り飯に手を伸ばす。
「おや、ご飯はあるのか。こっちでも用意しようとしてたんだけど……白一色の方が良いか」
イイフクが浮かせかけていた腰を下ろした。内心で残念がるオーシェリー。彼の出す飯なら何らか工夫がなされていただろうし、恐らく自分のそれより遥かに美味いだろうに、と。
気を取り直し、再びスープの中を掬って、今度は豚肉を拾い上げた。こちらも躊躇わず口に入れた。噛んだ瞬間、淡白な赤身と、ジューシーな脂身の二層構造に、スープの旨味が加わり、顔が綻んでしまう。
(これも美味しい……!)
その肉の旨味が口中に広がっているうちに、白飯にかぶりつく。やはり肉と白米は最高だ、と大聖徒にあるまじき感慨に浸る。
続いて、ニンジンと大根なる野菜。どちらもスープが沁み込んでおり、甘辛い味わい。しかしそれは表層だけで、噛めばニンジンは甘みがあり、大根の方は瑞々しく甘苦いエキスを含んでいた。
「はふ、はふ」
はしたないと分かっていながらも、オーシェリーは掻き込んでしまう。
「はは。あの声の良い大聖徒の子にそっくりだな」
イイフクにそのように言われてしまう。中々に不本意だが、反論の言葉もない。
「……ミリカさんやリアンナム様はお元気でしたか?」
「ミリカっていうのか。ああ、あの子は元気だったよ。ただ」
「ただ?」
「リアンナムって人は喉を傷めていた。多分、働きすぎだな」
容易に想像が出来てしまった。自分より、他人、そして使命。夫オプトと合わせて滅私の夫婦である。
「ハチミツケーキを出してあげたら、たちまち良くなってたけどな」
なんと。流石はマレビトだった。このような人を不埒者かと疑ってしまっていた己の不明に、オーシェリーは再び汗顔。
黙って、粕汁を啜った。と、灰色の食べ物を噛んでしまった。グニュリと変な歯触り。だが噛んでいるうち、その独特の食感に妙に惹かれ始める。弾力がクセになりそうだった。
「美味しい。不思議な食べ物」
そのまま嚥下すると、今度は目についたキツネ色の食べ物も摘まんでみる。
「うすあげ、でしたっけ?」
「ああ」
パクリ。最初は布でも噛んだのかと思ったが。後からジュワリと揚げ本来の甘さと、吸い込んで溜めていたスープが溢れ出し、芳醇な味わいを舌の上に展開する。これまた美味い。米を掻き込む。これで握り飯は無くなってしまった。
そして残った汁も、チビチビと飲み干す。名残を惜しむように、少しずつ、少しずつ。やがて椀の底が見えた。完食だ。
「ああ、美味しかった。体の芯からあったまります」
同じような言葉を繰り返してしまう。だが本当に、素直な感想だった。まさかあの酒粕がこれほど美味いスープに化けるとは思いもよらなかった。しかも、食べるだけでこんなに体が温まる料理だとは。
「気に入ってもらえて良かったよ」
「本当に、こんなに美味しい料理……あ! お代は? いくらでしょうか?」
「いや、いいよ。寄進だと思ってくれ」
「……よろしいのですか?」
「ああ。気にしないでくれ。リアンナムさんたちにもタダで食べてくれと言って、そうしてもらったんだから」
「……そうなんですね」
リアンナムと同じ待遇なら、と気が楽になる……ことはなく。
「でも私は……リアンナム様と同じ扱いを受けるほどのことは出来ていないような……」
流されるように大聖徒の地位に就いた自分と、使命に殉じる覚悟すら持って日々の活動に取り組むリアンナム。とてもではないが……と俯く。
「俺からすると……リアンナムさんの刻声ガラスがマレビトの信仰を各地に伝えてくれているから助かってる。オーシェリーの浄気息が黒の国の空気をキレイにしてくれているから、ここで仕事が出来ている」
「え?」
「どっちも等しく感謝だよ」
ニッコリと優しく笑うイイフク。細い目が更に細くなっていた。
「…………なんとなく、流されるままやっている仕事でも、ですか?」
気付けば、内心を吐露していた。内部のようで外部の人間。人生の先輩にして、一期一会。きっと吐き出すには絶好の人物だった。
「なんだ。アンタ、子供の頃から大聖徒に憧れててなった口じゃないのか」
「はい……」
オーシェリーは自分のこれまでの人生を語った。リアンナムの勧誘が無ければ、今頃、自分はどこで何をしていたのかすら、皆目見当がつかない、と。
「なるようにしかならない……って言葉で誤魔化してきましたけど。きっとそれは逃げで。自動的に発動してしまうギフトに引っ張られて……人生も成り行き任せに、ここまで来てしまったのです」
「ふうむ。なるほど、よくある話だな」
「え?」
あるいは贅沢な悩みだと責められるかも知れないと思っていたが。まさかの「よくある話」だと言う。
驚いて顔を上げる。イイフクは力なく笑っていた。
「実家が太いと、働かないまま色々と考える時間をもらえてしまって、なのに結局、正解が分からなくて考えること自体を止めてしまう」
ズバリ、核心を突かれた気分だった。やはり今度こそ責められるのか、と身構えるが、
「俺のいる世界では、そういう人がゴマンといる。気休めかも知れんが。アンタだけ変なワケでも、怠惰なワケでもない。そこは自分を責め過ぎないようにな」
そんな風に言われる。
そして、自分のように流されるままの人間も沢山いるという話は……確かに気休めかも知れないが、フッと彼女の心を軽くした。
「まあアドバイスじゃないけど、提案というか……」
「はい」
「ここまできたら、働く理由も自分の外に任せるってのも良いんじゃないか?」
キョトンとしてしまう。イイフクは軽く頷いて。
「俺の仕事も広義ではそうなんだが……誰かの笑顔や感謝を糧に、それを目的に頑張るってことだ」
「糧を外部から……」
「そうそう。案外、悪くないモンだぞ。自分の仕事が人を笑顔にしてるんだって、感謝されてるんだって、少し意識して暮らしてみなよ」
確かに、内ばかり向いていたような気がする。自分は流されている。自分はどうしたかったのか。自分、自分、自分……
と。イイフクが視線を逸らしながら頬を掻いた。
「……はは、偉そうに語っちまったな……そろそろ行くよ」
中腰になり、食器類を片付け始める。正直に言うと、オーシェリーはもう少しこのマレビトと話していたかったが。引き留めても仕事の邪魔かと、思い留まる。代わりに、
「イイフク様……あの、ありがとうございました」
立ち上がって礼を言った。実際、今日彼と出会えたのは間違いなく僥倖だった。
気持ちが軽くなった。真摯な助言に胸が温かくなった。
ご馳走された粕汁に関しても。故郷を思い出させる酒の味と、作り手の優しさ。酒の効能だけでなく、芯から温まった。今もまだ体中がポカポカしているくらいだ。
「ああ。またもし縁があったら」
イイフクは一つ笑顔を返して。食器をまとめて持ち、例の光の長方形の方へ歩いて行く。
と。その途中でピタリと足が止まった。
「オーシェリー」
「はい」
「あそこ、見てみなよ」
首を傾げながら、言われるまま手摺まで歩いていく。そしてイイフクの隣に立って、下を覗くと……
「あ」
大きな旗が二つ立っていた。学校施設の屋上だろうか。旗には『いつも浄化のお仕事、ありがとうございます』と『お誕生日おめでとうございます』の文字。目を丸くしてしまう。そしてジワジワと嬉しさがこみ上げてくる。
「……誕生日だったのか。おめでとう」
優しく笑ったイイフクに、オーシェリーも自然と笑みを返して。
「はい! ありがとうございます!」
この仕事が、自分のやりたかったものかどうかは未だ分からないが。少なくとも今日までやってきて、積み重ねてきて良かった。そう思える。
イイフクを見送った後、オーシェリーは手摺から身を乗り出し、グルリと街を見渡した。
「外部から糧をもらう、か」
この広い街にはきっと沢山、自分への「ありがとう」を抱えてくれている人がいる。自らが空っぽなら、それらで埋め尽くしてみるのもきっとアリだ。
「手紙を書こう」
リアンナムや家族に。自分も無性に感謝を伝えたくなったのだ。
オーシェリーは両手を広げて深呼吸した。冬の冷たい空気を吸い込んでもなお、胸の内はポカポカと暖かかった。
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