19:オムライス(黒の国・首都)

 夜半から降り続いていた雨は、昼前にはみぞれに変わった。立哨位置の真上に取り付けられた庇はごく小さなもので、警備員のメルキオット・シンカノーは、壁に張りつくようにして雨風を凌いでいる。以前、もう少し庇を大きく出来ないのかと会社に陳情した事があるが、景観を損ねるとの一言で切って捨てられた。


(まあ俺たちが健康を害すことより、銀行のお得意様に建物が美しくないと思われる方が、よっぽどマズイんだろうな)


 立っているだけの仕事。傍目からはそう思われることが多い。替えはいくらでも効く、とも。


「ありがとうございました」


 建物から出てきた客に、メルキオットは頭を下げる。慣れない敬語も、就業前に徹底的に指導されたおかげで、すっかり板についてしまった。


「ご苦労様」


 こう返してくれるのは良い客だ。大抵はデク人形を見る目で一瞥した後、無視である。

 

「リドリー、今日はエッグライスを食べに行こうか」


「まあ、お父様ったら、すっかりお気に入りですわね」


 その良客、家族で来店していた彼らは、幸せそうに昼食の予定を話しながら去って行った。


(エッグライスかあ)


 ミルクと砂糖などを混ぜて作る、クリームなる物を加えた卵で、味付けしたライスを包む食べ物だ。材料の多くを輸入に頼り、腐敗も早い料理なため、べらぼうに高い。最近、上流階級の間で流行っているそうだが、しがない警備員が手を出せる代物ではなく。メルキオットは羨みながら、どんな味なのだろうと想像するのみである。


 くう、と腹が鳴った。昼は硬いパンに果物のジャムを塗った物を胃に流し込んだだけ。成人男性が食べる量としては少々物足りない。

 とはいえ、首都の家賃は高騰を続けており、そのあおりを受けて、庶民の食費に回せる予算は下がる一方だ。


(やめたいな)


 もっと家賃の安い都市へ行って、新しく仕事を探す。そういう夢想はよくするが、現実には出来ないだろう。何か技術を持っているワケでもないし、ギフトも平凡なものだ。

 

(しがみつくしかないんだよなあ)


 こういう思考だと雇用側に良いようにされるのは分かってはいるのだが。


 と。従業員通用口の方が騒がしい。視線を向けると……声の主は同じ会社の警備員たちだった。メルキオットと入れ替わりで昼休憩を取り、今まさに帰ってきたところだろう。良い御身分だ、とメルキオットは内心で悪態をつく。この首都で外食が出来るなら、それだけで勝ち組である。


(くそっ)


 無論、彼らが少ない給料をやりくりして、たまの贅沢を楽しんでいるだけなら、メルキオットも何も思わない。だが、連中の一人が社長の息子なのだ。たったそれだけの事で、メルキオットとその彼では給料に雲泥の差がついている。同じ仕事内容、いや、向こうは隙を見て怠けているので、メルキオットの方が多く働いているハズ。だというのに、である。


(理不尽だ)


 取り巻きたちのように、上手くゴマをすって、おこぼれに与るのも処世術なのだろうが、メルキオットの性格からして、出来ない相談だった。

 結果、互いに距離を保ちながら働きつつ、面倒な仕事は全部メルキオットに回ってくるという仕組みが確立されている。


「……」


 連中がメルキオットに気付き、嘲るように指をさす。今日のように冬の大雨の日などは、彼らが立哨に当たることはない。


「ははは、アイツ、真面目に突っ立ってやがるぞ」


 微かに聞こえてきた笑い声。メルキオットは唇を強く噛んだ。真面目に勤務することの何が可笑しいのか。


「ふう」


 爆発しそうになるのを、グッとこらえる。こういう時は、妄想をするのだ。

 ……不定期で刊行されるエヴァード・ウィザローの新聞。誰かが読み終わったその古新聞を昨日たまたま拾ったのだが、これがとても面白かった。


(不思議な屋台なるマレビト様の店)


 屋台という販売形式自体がこの国にはないのだが、その例の新聞に事細かに書かれていたため、見てきたように想像できる。

 自分がその屋台とマレビトに選ばれ、見たこともない料理を振る舞ってもらえる。そんな妄想をしているうちに……いつの間にか、連中は建物内へ消えていた。


 平和になったものの、退屈には変わりなく、再び想像の世界に飛び立つことにしたメルキオット。

 だが、その前に異変に気付いた。前方数メトル先、ここら辺では見かけない、有り体に言って風体の怪しい男がいた。ボロをまとった姿は旅人のようではあるが、眼光鋭く、頬に大きな刀傷までこさえている。


「……」


 とはいえ、銀行に入る前に止めるのは御法度である。万一、客であった場合、取り返しがつかない。

 一計を案じたメルキオットは、自身のギフトを発動。『存在希薄そんざいきはく』、ただ何となく気配を悟られにくくなる、という程度のつまらない効果だが、この状況なら物を言うかも知れない。


「……っ」


 支給されている小型ナイフ、鉄の棍棒。後者を選び、スッと制服のホルダーから抜き取る。

 そして男の後に続いて、何食わぬ顔で銀行に入った。その瞬間だった。男はすぐさま駆け出し、銀行内にいた少年を捕らえた。


「動くな! カネを出せ!!」


 暴漢の大声と子供の泣き声、そして女性の悲鳴。銀行内は一瞬で修羅場と化した。メルキオットは周囲に視線を走らせる。社長の息子が、怯えた表情で後退あとずさるのが見えた。取り巻きも恐れをなしているようだ。子供の泣き顔、解放を懇願する母親。


「……」


 メルキオットは覚悟を決めた。

 幸い、犯人は銀行の窓口側を向いており、出入り口に立つメルキオットは視認できていない。そっと、そっと。足音を立てずに近付いていく。あと少し。唾を飲む音すら気取られそうで、必死にこらえる。心臓がバクバクと、聞いたこともないほど大きな音を立てている。


(いける)


 そう確信した時だった。人質にされている少年の母親と目が合った。流石にこの至近距離まで来てしまえば、ハッキリ認識されてしまうのだ。そして母親は、表情を変えてしまった。安堵、期待、希望。この状況で、そのような感情が浮かぶのは、あまりに不自然だ。強盗が弾かれたように振り返った。


「このおおお!!」


 期せずして、やるしかなくなったメルキオットは、男の右手を鉄の警棒で強く打った。男がナイフを取り落としたのを見て、今度は思い切りこめかみを打とうとしたが、組みつかれる。


「男の子を! 安全な所へ!」


 叫ぶメルキオットの鼻先に男の頭突きが叩き込まれる。火花が散ったかと錯覚するほどの衝撃。警棒を取られるとマズイ。必死に握り込む。


「くそがああ!!」


 男が雄叫びを上げたのと同時、後ろからも、


「今だああぁぁ!!」


「取り押さえろおおぉ!!」


 男たちの野太い声。行員や、客の紳士たちだった。雪崩のように飛びかかってくる。ムキムキの老紳士が男を後ろから素早く羽交い締めにした。その隙に行員が子供を保護。残りの紳士、行員は男の手足に取り付き、動きを完全に封じ込める。


 最後に老紳士が全体重をかけて、男を床に押さえつけた。確保。一瞬の静寂の後、わあっと大きな歓声の奔流が巻き起こった。捕り物に参加できなかった客たちも、拍手喝采。女性行員たちは、勇敢に戦った同僚たちに黄色い声を浴びせている。母子は泣きながら抱き合っていた。


 そしてそこに、警察がやってきた。状況を見て、確保している老紳士たちに代わり、強盗の身柄を引き取る。全員に再び大きな拍手。男は俯き、悔しそうにお縄についている。

 メルキオットの傍には、一緒に捕り物に参加した男たちが寄って来て、次々に声を掛ける。


「すげえよ、アンタ! アンタが居なきゃ、俺たちも行けなかった」


「うむ。素晴らしい働きだった」


「警備員の鑑だよ。次からもよろしく頼むよ」


 行員も紳士も。皆、彼の肩を叩いていく。

 正直、どこか夢見心地というか、確かに自分がやったというのに、実感が持てずにいたメルキオットだったが。彼らの賞賛と笑顔に、ようやくジワジワと高揚感が込み上げてくる。


 最後に、人質にされていた少年と母親が揃って、メルキオットの傍までやってくる。


「ありがとう。警備員さん。本当にありがとう」


「おじちゃん、ありがとう」


 まだ涙の雫が残る瞳で、母子はメルキオットを見上げる。面映ゆくも、誇らしい気持ちで、彼は頷いた。

 その後、警察を見送り、元の立哨場所に戻る。ただもう今日は殆ど業務にはならなかった。話を聞きつけたのだろう、銀行の重役たちが何人も訪れ、メルキオットを代わる代わる称賛。客たちも(普段は無視しているような者たちまで)その勇気と行動力を讃え、カネを渡していく者も少なくなかった。芸を見せたつもりもないのだが、と苦笑するも。実際、その総額が二月分の給料と同程度となった頃には、顔がニヤけるのを止めようもなかった。


(すごいことになった)


 午前中の自分に言っても、まず信じないであろう内容だ。本当に、数時間で色んなことが変わってしまった。もしかすると、昇進や、銀行の方からも謝礼などがあるかも知れない。一躍、時の人……得意の妄想がとめどなく溢れている。齢30を回って、諸々諦めかけていた人生。しかし、まだ放るには早いのかも知れない。


「ふふ、ふふふふ」


 仁王立ちしたまま、周囲に目を光らせる。強盗でも何でも来い。全部俺が蹴散らしてやる。そんな子供のような全能感に脳を蕩けさせながら、メルキオットはその日の勤務を終えたのだった。


 更衣室へ入ると、社長の息子、ミッデン・バラナシスが待っていた。取り巻きも一緒だ。一瞬、ギクリとするが、ミッデンは微笑みすらたたえ、


「社長が呼んでるぜ。終業後、すぐに来るようにって」


 そんなことを言った。社長、つまりメルキオットの所属する警備会社の長にして、目の前のミッデンの父親だ。そんな相手から呼ばれるとなれば、用件は一つしか考えられない。


「「おめでとう。新たな門出だな」」


 取り巻きの二人も、いやに優しい笑顔でメルキオットを祝福する。ぎこちなく礼を返し、着替えを済ませて銀行の建物を後にする。意外と、彼らも頑張った人間は素直に認められるくらいの度量はあるのかも知れない。そんなことを思いながら、メルキオットは街路を急いだ。


 ………………

 …………

 ……


 会社の建物に入ると、石造りのカウンターの向こう、釣り目の女性がいた。事務方だが、少し高圧的なところがあり、メルキオットは苦手にしている。目が合うと、何も言わずに奥を指さされた。従業員用の通路に入り、奥へ進む。上等な木で出来た扉を叩くと、


「シンカノー君か? 入りたまえ」


 中から社長の声が聞こえた。

 期待に胸を膨らませながら、扉を開けて中へ入る。


「失礼します。お呼びと聞きましたが」


「ん、ああ。用件は分かってるかも知れないが」


 実際、メルキオットは分かっていない。昇給か、昇進か、はたまた栄転か。いずれにせよ、今回の働きが認められ……


「キミを解雇することにした」


「…………え?」


 メルキオットは自分の耳がおかしくなったのかと、冗談抜きに思った。

 社長は無感情な瞳を彼に向けて、もう一度。


「すまないけど、ウチではキミはもう雇えない」


 ハッキリと。解雇宣言だった。


「……」


「……制服はそのまま返してくれて良い。引き継ぎなども」


「ま、待ってください! ど、どうして解雇なんてことに!?」


 ようやく我に返ったメルキオットは、叫ぶように訊ねた。しかし、社長の返答は実に静かなもので。


「確かに、捕り物は見事だったと聞いている。だが、そもそも明らかに風体の怪しい者をすんなり中へ入れている時点で、キミは失格なんだ」


「そ、そんな!? 銀行の規則では、万が一、正規のお客さんだった場合、取り返しがつかないから、門前払いはダメだって」


「それは銀行側の道理だろう。ウチとしては、強盗犯を中に入れてしまった。それが全てなんだ」


 メルキオットは口をパクパクさせるが、次の言葉が出てこない。


(そんなの正解が無いじゃないか……)


 警備会社としては、怪しい者は止めろ。銀行は全部入れろ。


「……まあ、今回の件を受けて、銀行も規則を改めるだろうがね。そのキッカケになる事件だった」


 その礎となって、メルキオットに涙を飲め、ということなのか。あまりにも理不尽である。


「特別に退職手当を出そう。キミの前途に幸多からんことを」


 もうメルキオットが何を言っても無駄なのだろう。処分は決定事項のようだ。

 メルキオットはフラフラと社長室を辞した。帰り際に先程の事務員から、退職手当の入った巾着を渡された。忍耐料とも呼べるか。これでもう、本当に手切れである。


「……お疲れ様でした」


 意外にも事務員の声は、労るような調子だった。






 上手くいきすぎている、とは思っていたが。まさかこんな落とし穴が待っているとは。悲しみ、怒り、悔しさ。そういった感情も、あるにはあるが。トカゲの尻尾として選ばれるなら、まあ自分だろうなと、情けないことだが納得もしてしまっていた。

 あの場で役に立っていなかった警備員は他にもいた。そう、社長の息子とその取り巻きだ。だがそれで彼らを罰することが出来る親なら、とっくの昔にもう少しマシな職場になっているだろう。


 つまり必然。警備が入っていながら、強盗未遂事件が起きた。なんの対応もナシでは会社の体面に関わる。突っ立っていただけの戦犯だが、可愛い息子やその友達は切れない。なら消去法で答えは導き出せる。


「まあ、元々そういう所だって分かっていて、しがみついてたんだもんな」


 遅かれ早かれ、こうなっていたような気がする。しがみつこうが、真面目に勤めあげようが。身内の情の前には無意味。


「あ~あ。どうするかな」


 いっそ辺境に移り住んで、イチから漁業でも始めようか。そのための資金は……メルキオットが巾着を開ける。金貨100枚。今月途中までの月給も含んだ額だ。あとは先程、銀行の客たちから貰ったオヒネリ。


「これだけあれば……」


 ふっと。馬鹿げた考えがよぎる。これだけあれば、エッグライスが食べられるな、と。いつか食べてみたいと願いながらも、手の出しようもなかった超高級料理。


「いやいやいや」


 このカネで、次の生業が見つかるまで凌がなくてはならないのだ。美食など論外である。だが、それでも。


(どうせもう、お先真っ暗なんだから、最後に人生の思い出になるような……)


 そんな誘惑も抗いがたく、メルキオットは何度頭を振っても追い出せずにいる。

 もしかすると。自分で思っているより遥かに解雇が堪えていて、一層暗い場所を求める破滅願望に取りつかれているのでは。そんなことをボンヤリ考えながら歩いている時だった。


「……っ!?」


 突然の強い光に、メルキオットは目を細める。一層暗い場所、とは真逆。眩い白に全身を包まれるようだった。

 光はすぐに収まり、メルキオットは光源を探す。それはすぐに見つかった。


「不思議な木組み」


 エヴァード・ウィザローの新聞記事を思い出す。屋台、という他国の販売形式。そして同じく、異世界でも親しまれているという……


「あ、ああ……!」


 カウンターの奥、黒髪黒目の男性の姿が見えた時、期待は確信に変わった。こちらも記事にあった通り。


「ま、マレビト様だ」


 フラフラと、救いを求めるようにメルキオットは屋台に近付いていく。周りの人間は、その物珍しい屋台の前を素通りしていく。なんと不思議なことか、とますます畏怖の念にかられた。


 屋台のすぐ手前まで来た。

 白と黒の木組みは、近くで見れば釉薬ゆうやくでも塗ったように表面が滑らかだ。客側に出されている椅子にも、上質な布団(とても小型である)が敷かれていて、座るととても柔らかそうである。


「いらっしゃい」


「あ、えと、は、はい」


 何とも間抜けた返事になるが、マレビトと会うなど初めてのことなのだから、仕方ない。


「ま、マレビト様ですよね?」


「……そう呼ばれることもあるが、今はただの屋台店主だ。あまり畏まられると、やりにくい」


「えっと……」


「敬語も必要ないよ」


「そうなんです……そうなのかい? まあマレビトさんがそう望むなら……」


 店主に着席を促され、メルキオットは椅子に座る。やはり想像通り、フカフカだった。


「ぜんざい、なる料理を出してくれるんだよね?」


「いや。確かに今日は俺自身が食いたくなって善哉も作ってるが……え、まさか、そっちで決定したのか?」


 店主が一人で慌てだす。メルキオットにはチンプンカンプンだ。


「確認だがオムライス……味付きのライスを卵で包んだ料理が……お客さんの希望じゃないのか?」


 混乱しかかっていた店主が放った言葉に、メルキオットは反射的に首を何度も縦に振った。


「それです! じゃなかった。それだよ。それが食べてみたいんだ!」


「そうか、良かった」


 何だか分からないが、店主も大きく安堵している様子だ。


「あ、でも。いくらくらいになるんだろう?」


 ただでさえ上流階級のための料理だ。それをマレビト手ずから用意するなどという付加価値がつけば……


「銅貨七枚だが」


「安っ!?!?」


 まさか別の料理なのでは、と。そんな懸念がメルキオットの頭を掠める。だが、先ほど聞いた説明では、彼の思った通りの料理のハズだが。


(マレビトさんが嘘をつくとも思えないし)


 そんな葛藤を見透かしたのか、店主は、


「まあまず料理を見てみるか?」


 そう提案してきた。メルキオットはコクコクと頷く。

 待っていろ、と言い残し、店主はその場でクルリと反転。何もない場所へ足を踏み出した。メルキオットが疑問に思う暇もなく、先ほども浴びた白光。手庇で目を守りながら観察していると、店主は光の長方形の中へ消えていった。呆気に取られていると、すぐに水の入ったグラスを持って戻ってくる。これも上等なガラスで出来ている。


「サービスだ。料理はもう少し待ってくれ」


 グラスだけ置いて、また光の中へトンボ返りしてしまった。まだ色々とメルキオットは追いついていないが。取り敢えず、水を一杯。


「美味しい」


 濁りや雑味がない。これほど澄んだ水は山の中、上流まで行かないと無理なのでは、とまたも驚かされた。


 それから数分待っていると、再び何もない空間が光を帯びた。中から戻ってきた店主のその手には、平べったい横長の皿。コトンと優しく提供台の上に置いた。


「わあ!」


 黄色い楕円の上に、赤褐色のソースがかかった料理。噂通りなら、この中にはライスが埋まっているのだろう。

 ゴクッと喉が鳴る。巾着から金貨を一枚取り出した。店主に渡すと、銀貨四枚と銅貨三枚のお釣りを受け取る。


「……」


 メルキオットはスプーンで黄色い卵の塊を割る。すると途端にトロトロと固まりきっていない黄身が溢れ出した。慌てて掬いあげ、反射で口に運んだ。


「っ!? ほ、ほれ! ふごい!」


 まろやかで、蕩ける食感。卵の芳醇な旨味に加わる少しの甘さ。その正体は噂のクリームなるものだろうか。卵の表面の方は、中より少しだけ固まっているのだが、やはりまるで硬さはなく、フワフワに仕上がっている。


 続いて、ライスと卵のヴェールを重ねて、口の中へ。赤橙のライスなど見たことがなく、少しだけ警戒しつつも、卵の美味さを思えば外れるワケがないと。一口でいった。


「~~~!!」


 僅かな酸味と、甘さ、塩気。絶妙な調和を見せる赤橙のライス。更に鶏だろうか、柔らかい肉まで入っている。いつも自分が食べる筋張った物とは段違いで、軽く噛むだけでホロホロと崩れる。そしてそれら全てに溶け込み混ざり合う二層食感の卵。


(た、たまらない!)


 悶絶しながら、咀嚼、嚥下する。


「その上にかかってるソースを混ぜて炊いてるライスなんだ」


 店主が、すっと指さした赤いソース。やはり見た目から抵抗があり、最後に回していたが。


「血……とかじゃないよね?」


「ははは。まあ確かに血を使った料理も俺の世界にはあるが……そいつの赤みはトマトによるものさ」


「とまと?」


「こっちでも、青や緑の国で見られる……まあ酸味と甘みの強い野菜だと思ってくれ」


 なるほど、とメルキオット。自分が知らないだけで、こちらの世界にもある野菜と聞けば、安心である。

 スプーンで掬って、ペロリと舐める。


「す、すっぱい!」


 言われた通り、かなり酸味が強い。だが、後からまろやかな甘みも追いかけてくる。不思議なソースだ。いや、それを言い出したら、料理全てがメルキオットの理解の埒外だが。


「……」


 卵、ライスと絡めて食べてみる。味変だ、と店主が言った。一通り食べた後、もう一変化を料理に加えて楽しむことを、そう言うらしい。

 

(確かに、これはこれで)


 ライスが含む僅かな酸味と、ソースの強い酸味で、トロトロ卵を挟んでしまうような。

 これもまた美味しい、と大きく頷いた。


 それからは、卵とライスだけ、少しソースを加える、ソースたっぷり等々、思う存分、オムライスを堪能した。おかわりもあると言うので頼んだ。合計で銀貨一枚、銅貨四枚の出費になるが、元々エッグライスを大枚はたいて食べに行こうかなどと考えていたことを思えば、破格も破格である。


(しかも……多分だけど、こっちの方が美味しい)


 エッグライスを食べたことがないので、正確には分からないが。それでもオムライスが、この世界の水準から逸脱しているのは察せられる。


「美味しかった。本当に美味しかった……」


 しみじみ言いながら、ポロリ、と。メルキオットの頬を雫が伝った。


「あ、あれ?」


 二度とこんなに美味しい物を食べられないという惜しさからだろうか。そう思ったが……店主が神妙な顔でメルキオットを見ていた。


「なあ、お客さん。何かあったのか?」


「え?」


「飯食ってる間は嬉しそうだったけど、屋台見つける前のアンタ、死にそうな顔してた」


 言われて、メルキオットは自分の頬をペタペタと触る。その指先に再び熱い雫。涙がとめどなく、流れているのだ。


(ああ、確かにマレビトさんの言う通りだ)


 自分は、この屋台に出会うまで何を考えていただろう。自暴自棄、破滅願望。いずれ真っ当な生者の思考ではなかった。

 そして真っ当な、いや最高の飯を食って、生を取り戻した。取り戻した途端、鈍磨させていた感覚も甦った。つまり正常な思考で以て、今回の一連の事件を考えれば……


「ちくしょう……悔しい、悔しいよ。俺、何も悪くないよ」


 泣きながら、感情を吐き出す。それだけで、少し楽になった。溜め込み、賢しく弁えたフリをするより、よほど健全だと知った。


「……良かったら、話してみるか?」


「聞いて……くれるのかい?」


 店主は優しい微笑をたたえたまま、ゆっくり頷いた。

 それを皮切りに、メルキオットは今日の不条理、これまでの鬱憤、全てを吐き出した。店主は時折、相槌を打ちながら、静かに聞いていたが。

 やがて、全てを聞き終えると……


「そりゃあ良くないな」


 とメルキオットの姿勢を非難した。


「え?」


「泣き寝入りじゃダメだ。ブラックは耐えても、相手をつけあがらせるだけ。自分が死にかけるだけ。俺も辞める時は散々戦った」


「えっと?」


 何か店主のツボを押してしまったらしい。目がメラメラと燃えている。


「こういう時は、メディアだ」


「めでぃあ?」


「新聞だな。アンタらの世界なら」


「新聞……この屋台のことも書いてた、エヴァード・ウィザローとか……?」


「げ。それ、そんなに広まってんのか」


 店主が苦い顔をした。


「けど紹介してもらう伝手がないよ……」


 銀行の警備員と、新聞や書籍の印刷屋。


「いや。諦めるのは早いな」


「え?」


「俺の善哉を持っていけ。それで働かせたら良い。ゴネたら、勝手に記事にされたマレビト様が怒ってて、協力すれば許してやると言ってると伝えるんだ」


 地味に無断で記事にされたことを根に持っているのだろうか。とにかく、店主は協力を惜しまないようだ。


「ありがたいけど……マレビトさんが食べようと思ってた料理まで貰ってしまって……」


「気にしなさんな。アンタが解雇された日に、この屋台に出会った。しかもたまたま善哉まで揃ってて、新聞屋とも繋がれる。まさに天の配剤。捨てる神あれば、拾う神ありってヤツだ」


「捨てる神……拾う神」


 マレビトが言えば、中々の信憑性だ、とメルキオットは頷く。

 店主はまた光の長方形の中へ消え、二分と経たずに戻ってきた。手には深皿。上に紙の蓋がついている。善哉だろう。こちらに渡してくる。


「あ、ありがとう。何から何まで。本当にアナタは神様のようだ」


 メルキオットの言葉に、決まり悪そうな店主。その様子が可笑しくて少し笑ってしまった。


「……頑張れよ」


 拾う神の暖かな言葉に背中を押され、メルキオットは夜の街を走った。






 あれから馬車に乗り、第4の都市には夜半に辿り着いた。街灯の白光と星の光以外は、全くの暗闇の世界。人家で光を放っている所は皆無だった。


(しまったな……そりゃそうだよな)


 エヴァードの印刷所も、望み薄だろう。更に言うなら、詳しい所在地も知らない。無計画にも程があった。

 仕方ない、とメルキオットは嘆息する。どこかで夜を明かして出直し、朝になったら街の住人に聞いてみよう。そう決めると、工場地帯を歩いて抜ける。

 と、その時だった。


「ん?」


 街灯に照らされる人影が二つ。近くの建物から出てきたのだろうか。


「エヴァード、見て! 星がキレイ!」


「本当だね……けどもう、僕は眠いよ」


 そんな会話が聞こえてきた。目を凝らして見ると、若い男女。どちらもシャツがインキで黒く汚れている。

 これはまさか、とメルキオットの胸中で期待が膨らむ。慌てて駆け寄った。


「人違いだったら、ごめんよ。もしかして、エヴァード・ウィザローさんじゃないかな?」


「え? そ、そうだけど……」


「ああ、本当に……」


 まさか、こんな時間まで残っていてくれたとは。メルキオットは店主の言葉を思い出す。拾う神。ここにも居たようだ。


「お願いがあるんだ。この善哉で、どうか話を聞いてはもらえないだろうか」


 深皿を両手で捧げ持ち、頭を下げた。まさに神に献上するような姿勢。


「ぜ、善哉!?」


「どうしてそれを!?」


 エヴァードと連れの女性が、揃って素頓狂な声をあげる。

 

 メルキオットは全てを話した。あの会社での献身、手柄、解雇。そしてマレビトの屋台に出会い、こちらを紹介されたこと。善哉の一皿で協力して欲しいこと。

 エヴァードたちは、聞きながら解雇のくだりでは憤り、オムライスのくだりでは喉を鳴らしつつ、聞き終えた。そして開口一番。


「やろう」


「うん。ひどすぎる」


 二人とも協力の意を示した。


「あ、ありがとう! 俺からも可能な限り謝礼を渡すよ」


 退職金の入った巾着をガサゴソとやるメルキオットを、二人は手で制し、


「ううん。新聞の売り上げと、この善哉で十分。これ本当に美味しいんだから」


「ね。それに、店主さんがそこまで粋をやったんだ。物書きがペンを置いてる場合じゃないよ」


 揃って好戦的に笑う。義憤の炎が瞳にメラメラと浮かぶようだ。


「明日、朝の七つ目の鐘が鳴ったら、ここに来て」


「あ、ああ。ありがとう。本当にありがとう」


 深皿を持った二人は、印刷所の建物へと入っていく。


「結局また泊まり込みになっちゃったね」


「ふふ。でも明日の朝は善哉だもん。どうってことないよ」


 仲睦まじい会話を最後に、扉が閉まる。メルキオットはその扉に向かって深々と頭を下げて、今夜の寝床を探しに向かった。


 ………………

 …………

 ……


 八時前に出立し、首都に着いたのは昼下がりだった。まずは銀行に向かい、証言を取る。メルキオットがいると、ミッデンらに絡まれそうだったので、連れの女性(ジェロルと名乗った)が聞き込みをした。まあ聞き込むまでもなく、昨日の今日、客も行員も英雄の話は向こうから振ってくるくらいだった。


「こんなに楽な取材で善哉なんて、ボロ儲けだね」


 ジェロルは歯を見せて笑った。

 何人か、名前を出しても構わないという紳士にも出会い、上首尾で取材を終えた。第4の都市に戻り、記事の草案を練る。


「銀行の人たちは悪い雰囲気じゃなかったね」


「うん。そうなんだ。特に昨日の捕り物で見直してくれたって人も多いんじゃないかな。みんな褒めてくれたし」


「ということは、やっぱりメルキオットさんの会社の独断、だね」


 方針は固まった。実際、銀行まで敵に回すのは危険なので、警備会社と社会正義の対立構図だけで書けるのは重畳、とエヴァード。そこら辺の駆け引きはメルキオットにはよく分からないが。


 そして記事の執筆、校正に二日間、印刷に三日を要し、小新聞が完成した。裏面にちゃっかりエヴァードの小説が載っているのは御愛嬌。これで中々どうして人気もあるのだ。


 超絶に重たい紙の束を載せた荷車を運搬業者に委託し、首都に運び込む。そして各飲食店や小売店などに見込み部数を売る。エヴァードの新聞は初版・マレビトの屋台の記事が好評だったため、どこの店も多めに発注してくれた。そして店に来た客がついでに新聞も購入して……

 銀行強盗犯逮捕の立役者、メルキオット・シンカノー不当解雇の報は、瞬く間に広まったのだった。


 その数日後、メルキオットの住むアパートの郵便受けに二通の手紙が入っていた。一通はなんと、あの時の人質になった男の子の母親からだった。いわく、メルキオットの窮状を知り、夫と相談の上、別邸の保守管理の仕事を斡旋したいとのこと。


「こ、これって……また拾う神」


 富豪の雇い入れ。よほど家柄が良いか、優秀か。どちらでもないメルキオットが、それにありつけるなど、神の拾い上げとしか評しようがない。

 指を組んで膝を着き、天に祈るメルキオット。これほどの恩寵に与るなど、なんと自分は果報者なのか、と。グズグズと涙ぐみ、30分ほど祈り続けた。


 そしてもう一通。こちらはあの警備会社からだった。再雇用してやるから、今すぐ社屋に来い、とのこと。ゲンナリした気持ちで読み終わると、クシャクシャに丸めてゴミ箱へ放った。渋々ながら筆を執る。返書には、もう既に次の就職先が決まったので再雇用は願い下げであると端的に記す。


 外套を羽織り、拾う神の手紙を丁寧に内ポケットに入れ、捨てた神宛ての手紙は外ポケットにぞんざいに放り込んだ。折れ曲がってしまったが、どうでも良かった。

 外に出て、社屋へ向かう。建物の外壁にはビッシリと貼り紙がしてあった。

『人非人』『見る目なし』『早く潰れろ』などなど。その中に件の銀行の名前が載った貼り紙もあった。取引を打ち切る旨の一方的な通達だった。どうやら、今度はこの会社がトカゲの尻尾切りに遭ったらしい。郵便ポストにも沢山のゴミが捻じ込まれていて、パンパンだった。メルキオットは新たにそこに自分の返書ゴミも突っ込むと、クルリと踵を返した。


「途中で第4都市に寄って、エヴァードたちに挨拶してから行こう」


 出来れば、あのマレビトの店主とも吉報を分かち合いたかったが。


(再就職までの間、そうだな……卵とライスを買って、作ってみようかな。モドキにもならない出来だろうけど)


 きっとあの屋台にも店主にも料理にも、二度と会えないのだろうと悟っていた。だがそれでも、あの一度きりの出会いを生涯忘れることはないだろう。

 そっと夜空を仰ぎ見る。黄色い半月が浮かんでいた。


「……オムライスみたいだ」


 メルキオットは小さく笑った。

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