14:ブリ大根(白の国・辺境)
「これ、情報を集めて編纂するのに何年くらいかかったんですか?」
「うーん。ざっと15年、じゃな」
歯の何本か欠けた口元をニッと歪めて、科野は笑った。今は齢60ということなので、45から始めたことになる。
「すごいですね。道場をやめられてから、ずっと……」
「まあ、やることも、ありゃせんしな」
ギフト『
「この資料、写す価値があるなら、写してもらってええよ」
「え? よろしいんですか? 科野さんの努力の上澄みを
「なんの、なんの。そのために、せっせと書いてるようなもんじゃから。むしろこっちが感謝したいくらいじゃ」
背を反らせて笑うと、いまだ衰えぬ筋肉質な体がシャツを押し上げた。
「それにまあ、美味い飯の代金も含んでるとあれば……なにをか言わんや、じゃな」
科野は軽く腹をさすってみせる。飯福は微苦笑しながら、こうなった経緯を、心の中で振り返るのだった。
………………
…………
……
朝、日課のチラシチェックをしていた飯福。付近のスーパーのデジタルチラシをHP上で確認して回る。子供の頃は実家が新聞を取っていた関係で紙のチラシを見ることが多かったが、一人で暮らすようになってからはすっかりこの形が定着している。
「そういや、黒の国では機械を使った活版印刷が普及しだしたんだよな」
あちらの最先端が、こちらでは下火となりつつある。文化の盛衰を、クローゼットの出入りだけで体験できるのは、世界広しと言えど飯福だけだろう。
「お。ブリが美味そう」
今が旬で、脂の乗った良いものが出回っている。
更にその店のチラシを見ているうち、「あ」と飯福は声をあげる。野菜の欄に、大根一本、108円の文字が。
「安い。銅貨一枚と青銅貨一枚……じゃなかった」
青銅貨は、一枚が約10円の価値だ。ちなみに飯福の屋台メニューでは使用しない予定だ。青カビのようで彼はあまり好きではなく、持ちたくないらしい。ただ、銅貨の持ち合わせがなく、青銅貨10枚で払う客がいつか出てくるやも、とは覚悟しているが。
「しかし、ブリと大根って、こんなんもう」
作れと言われているようなものである。
「セレス様のお導きかね」
言いながら、厳かな大聖堂の奥から『飯福。ブリ大根を作りなさい』なんて天啓の声が聞こえてきたら、途轍もなく嫌だな、と飯福は勝手に想像して勝手に噴き出す。
出掛ける前に水を張った鍋に昆布を浸しておく。一時間ほどで良い出汁になってくれるだろう。
今日は一段と寒いので、何枚か着込み、自転車を漕いでスーパーへ。開店直後だが、人でごった返している。
(普段とはなんか客層が……あ、そっか。今日、日曜か)
スーパーの特売に30~50歳台のオッサンが送り込まれている様子を見て、初めて曜日を知る、オッサン予備軍の飯福航29歳。
売り場の大根をベタベタ触られる前に、サッと行って、するすると掻き分け、パパッとゲットする。流石に普段は主婦連中のブロックを掻い潜っているだけはある。慣れない労働者男性たちなど、相手ではなかった。
「良い買い物になったな」
鮮度が良く、値段を考えれば十二分だった。ブリの切り身も、色味がよく、肉厚な物を選べた。自分の夕飯用の食材も買い足し、会計。店を後にする。慣れない世のお父さんたちは、電話で色々と聞いているが……怒鳴られているのだろうか、電話を耳から少し離している者もいた。
(休みの日まで手伝いさせられて……大変だよな)
ああいうのを見てしまうと、結婚への興味が薄れてしまう飯福。まあ勿論、それぞれの家庭の事情は分からない。共働きで普段は妻の方が家事を全負担、たまの日曜くらい手伝え、と言われて出てきた可能性も全然あるが。
家に戻ると、まだ10時前だった。どうしようか、と思案。取り敢えず米を炊く。その間に調理を済ませれば、昼提供に間に合うだろうか。早速、取り掛かる。
まずブリに塩をまぶし、10分ほど置く。その間に、大根を二~三センチ幅で切り、面取り。裏表両面に十字の切り込みを入れ、味が染みやすいよう下処理。生姜は薄切りに。湯沸かしポットが沸騰を告げるのと同時、寝かせていたブリの方も10分が経過。熱湯を回しかけ、流水でヌメリを取る。出汁とは別の鍋に水を張り、米を少々&大根を投入。中火にかける。沸騰したら、弱火に落とし、15分ほど煮る。その間に。
「屋台を出さないとな」
そう言えば今日は予習なしだった、と飯福。クローゼットを開けると……山裾の丸太小屋の前、のようだった。
「いや、どこだよ」
以前、
「白の国か。でもやっぱ辺境だな、これは」
と結論付けた。
まあ飯福としては、繋がって客がいる以上は、どこだろうが誰相手だろうが、飯を出すだけだが。
ちゃっちゃと組み立て、屋根を乗せる。椅子も三つ(最大キャパ分)用意して、外へ出す。屋根のすぐ下、暖簾をかけて完成。昼間なので提灯はナシだ。地面が安定しているので、すぐに設置できたのはありがたい。
サンダルを脱ぎ、部屋に取って返すと、キッチンタイマーが残り一分を切ったところだった。セーフ。
出汁の入った鍋を弱火にかける。そこで先程のタイマーが鳴った。煮込んでいた鍋、その中の大根を箸でつついてみる。十分に柔らかくなっていたので一つ頷き、火を止めた。慎重に湯を切る。
時計を見る。良い時間帯に出せそうだった。
出汁が沸騰する前に、昆布を取り出す。中火に落とし、鰹節をひと掴み投入して、少し煮る。頃合いで火を止め、五分ほど放置。その間に調味料を用意する。料理酒、みりん、砂糖、醤油。それらをカップの中で混ぜ合わせ、出来上がった頃に五分のタイマーが鳴った。
ザルにキッチンペーパーを敷き、出汁を
「あ」
客がいた。白髪の老人だ。屋台を不思議そうに見ている。飯福はゆっくりと外へ。例の発光が起こるため、相手は眩しそうに腕を上げて顔をガードする。概ね、客側はこういう反応である。当初は飯福としても、「この光いらんくね?」と思っていたのだが、この後光を背に現れるという異常事態で、特殊なギフト(ひいてはマレビト)と認識してもらえるのは、大いにメリットがあると、屋台をやっているうちに気付かされた。ヌルッと隠密のように出ていくと、最悪、攻撃されるかもしれない。異世界には(言い方は悪いが)日本人離れした粗暴な人間も割合いる。そういった相手に宗教の威光を使えるのは、ハッキリ言ってかなり大きい。
そして今回も、
「オマエさん、マレビトかの?」
と、このようにスムーズに……
「奇遇じゃな。儂もマレビトでな」
「ええ!?!?」
スムーズに爆弾発言を投げつけられ、飯福は危うく転びそうになる。
「カッカッカ!」
「えっと……」
「儂は
言われて相手をよく見れば、頭こそ白髪だが、目は黒色、顔立ちもアジア系だった。
「ほ、本当に?」
「この国でマレビトを騙るなんて不敬をする者はおらん」
それはそうだ、と飯福も胸中で同意する。と、そこで記憶にかすかに引っかかるものがあった。ヨミテ(飯福が最初にこちらに転移した際に一週間ほど世話係をしてくれた少年)が以前、マレビトはこの国にもう一人いると言っていたのを思い出したのだ。
「……異世界一刀流」
「なんじゃ。聞いてたのか」
「はい。今思い出しましたが……」
世にも珍しい、岩をも斬ると言われる『
「……はは。今は楽隠居の身じゃがな」
「ここで、一人で?」
「ああ。墓守ってヤツじゃな。墓石も作っとる」
「石職人さんですか」
「天剣の応用じゃな。
天恵。ギフトという変換がなされないということは、
「科野さんは日本語を話されているんですね」
「ああ」
「……科野さんが日本に居たのは、どれくらい前なんですか?」
「そうさな。今が還暦で、向こうから来ちまったのが15かそこらだったかの」
つまり45年前くらい、となるか。彼が異世界転移した時、日本は1980年前後。
(ブラウン管のテレビで、インベーダーゲームとか、その辺りか。携帯はおろか、ポケベルも無いかな)
同じ日本人でも、文化レベルがかなり異なる。スマホなどは下手に見せられない、と飯福は内心で肝に銘じた。
「それで……オマエさんの方は?」
「あ、申し遅れました。
「そちらも、かなり珍しい天恵のようじゃが」
「ええ。何故か我が家と異世界が繋がるようになりまして……元から飲食やってた身なので、こうして屋台を出しているんです」
「屋台! やっぱりそうか! 懐かしいの~。焼き鳥か?」
「いえ。日によって料理は変えてるんですよ」
「日替わりかあ、ええのう。それで今日は?」
「ブリ大根です」
「ああ! 好物じゃった。もう何年も口にしておらんが」
味を思い出しているのか、うっとりとした表情の科野。
と、飯福は火をかけっぱなしだったことを思い出す。
「すいません、調理の途中でした! どうぞ、座って待っていてください」
「え? 飯福クン、儂は……」
何か言いかけていた科野を残し、飯福は日本側に戻る。キッチンに飛び込むと、タイマーを確認。まだ10分程度しか経っていなかった。ホッと息を吐き、鍋の中を覗く。香りも見た目もバッチリだった。
水を持って戻る。科野は光を眩しそうに受け、しかし収まっても渋い顔をしていた。
「もう少し、お待ちください。あと10分ほど煮たら出来上がりますので」
「あ、いや。そうじゃない。実は、儂はもうカネを持たない生活をしているんじゃ」
「え?」
「石を切り、墓を建て、遺族に感謝され、カネは受け取らん。それでも聖徒たちが足繁く食い物を届けてくれるから不自由しておらんのじゃよ」
まるで仙人のような生活だ、と飯福は思ったが。
「今までの財産は」
「全て寄進してしまったよ」
「そ、そうなんですか」
「じゃから、悪いが屋台は他を当たってくれ」
「え!? あ、いや」
本日の客は恐らく、この科野だ。同じマレビトだから、屋台が見えているという可能性もゼロではないが。ここには彼以外は誰もいないのだから、状況証拠的にクローゼットが選んだ客で相違ないだろう。
「もし余裕があるなら、儂ではなく、
「……」
好物だというブリ大根。何十年ぶりかで食べられるチャンスを、みすみす他人に譲ることが出来る。本当に悟りを開いた仙人級の御仁なのでは、と飯福は感嘆する。
ともあれ、事情を説明する。アナタに料理を振る舞わないことには、この長方形の出入口は、他へは動いてくれないのだと。
「そうか。それは災難じゃな。ううん、なら誰かに用立てしてもらうか」
もはや飯福はありがた迷惑の状態だ。飯を押し売りして、このような人格者に借金をさせようとしている。いたたまれない。
「あの! 無料でも大丈夫です。提供さえすれば!」
「いや、それは。オマエさん。商売である以上、対価を取らんと……」
断りかけた科野だったが、ハタと何かに気付いたように、言葉を切った。そして、
「カネではないが、どうじゃろう? 知識では対価にならんじゃろうか?」
「知識?」
「ああ。実はあの霊園、名のある大聖徒たちも眠っておってな。世界中から信者たちが墓参りにくる」
「はあ」
話がよく見えてこない。
「その彼らが元マレビトの儂の小屋もついでに詣でること、しょっちゅうでな。よく他国の話も聞けるんじゃ」
「あ、なるほど」
飲み込めた。つまりここには(断片的ながら)世界中の口コミ情報が集まるのだ。
「まあ学者でもないからの。そこまで期待されても困るが」
「いえ、是非、見てみたいです」
スーパーで買った食材で作るブリ大根など、正直800円くらいで売るつもりだった物だ。閲覧料としては少々足りず、むしろ飯福が差分を払うべきかも知れない。
「決まりじゃな。ブリ大根か……本当に久しぶりじゃのう」
「あ」
腕時計に視線を落とした飯福が声を出す。ちょうど煮込みが終わる時間だった。
戻り、鍋の火を止めると、後は器に盛りつけるだけ。大根とブリの向きを揃えて、見栄えを整え、トロリと煮汁を足して完成。炊き上がっている白米を茶碗によそい、ブリ大根の器と一緒に盆に乗せた。
「お待たせしました」
盆を持って、異世界側に戻ると、科野はソワソワしながら椅子に座っていた。天剣のマレビトも、美味い料理の前では形無しのようだ。
飯福は提供台に盆を置くと、割り箸を差し出した。
「ああ、これも懐かしいな」
やり方は体に染みついているらしく、片方を口に咥え、もう片方を引っ張ってパキンと割った。
「あいた!」
「大丈夫ですか?」
「平気、平気。歯が悪くての……なのについ、昔のようにやってしもうた」
日本のことについては、若い頃のままの記憶で止まっているだろうから、仕方ないのかも知れない。気を取り直した科野は、早速、箸で大根を四分の一に切り分けた。「ああ」と声を漏らす。煮た野菜を箸で切る感触は白の国でも味わうことは出来るだろうが、彼の反応からして、大根は手に入らないのかも知れない。
そして、その切り分けた大根を口に運び入れた。途端、科野の皺くちゃの顔、その目元に更に深い皺が幾重にも刻まれた。ゆっくり噛み締めるように咀嚼、嚥下し、
「美味い……」
たった一言。しかし万感の思いが込められている。
「ああ、醤油とみりん。この味じゃ、この味」
天を仰いだまま固まり、深く目を閉じ、余韻に浸っていた。
飯福も、この白の国に初めて来て、ヨミテと過ごした一週間を思い出していた。日本の調味料が手に入らない世界での生活。多大なストレスだった。日本に戻れるようになっても、あって当たり前の物への感謝を(時々でも良いから)口にするようになった。誰も聞いていないのに言うようになったのは、飯福にも少し六色神への信心が芽生えつつあるのかも知れない。実際、この数ヶ月の不可思議な体験の連続は、超越的な存在を否が応にも意識させる。
「白飯も……美味いのう。こっちのライスより」
その質の差は、品種改良や環境データに基づく農業工学等の賜物だ。
そして彼はいよいよ、ブリに手を付ける。箸を入れると、ホロリと崩れる身。一口掴んで、そっと口にした。何度か咀嚼して飲み込むと、またも天を見上げてしまう。
「こんなにも……美味かったのか。母ちゃんが作ってくれた物より美味い気がするのは、久しぶりじゃからか。飯福クンの腕が良いからか……ああ、美味い。染み入るようじゃ」
野暮は言いたくないが。各種調味料のクオリティも、ブリの養殖技術も、70年代とは文字通り隔世の感がある。彼の母の腕が劣っているというより、久しぶりで補正がかかっているというより、人類の歩みがもたらした味の進化、というのが正解だろう。
「歯が悪くても、バクバク食えるのう」
言葉の通り、科野はブリ、大根、米のループに入った。60歳というより、16歳の食べ盛りのような食いっぷりだった。「美味い、美味い」と飲み込むたびに口にし、また次の一口へ。
あっという間に完食してしまった。ブリの皮すら残さず、米の一粒も残さず。
「あ~……」
しばらく放心していた科野が、次に言葉を発したのは、完食から二分ほど経ってからだった。
「妻にも食べさせてやりたかった」
「奥様が」
「ああ。道場を後進に譲ったのが15年前。そのすぐ後じゃ。これからは老後を二人でと思っとった矢先でな……妻は儂の故郷の日本料理をいつか食べてみたいと言っていたが……叶わんかったなあ」
「……」
「あ! 飯福クンを責めているワケじゃないからの。儂が無知じゃった。調味料の作り方くらい知っておれば……」
それは酷な話だと、飯福は思う。彼の時代にはネットで調べればすぐ分かる、という理屈は通じない。15の学生に、調味料の専門書を買って、来たる異世界転移に備えておけ、というのは荒唐無稽に過ぎる。
「大豆も無いしの」
本場の地球でも、大豆が欧米に伝わったのは江戸時代中~後期とされている。それまでは東アジアでしか食されていなかった。こちらの世界ではどこにあるのだろうか。或いは、まだ発見されていない、そもそも種がないという可能性も。
「……ちなみに、そういった各国の食文化も多少なり調べてあるのじゃが」
「是非」
お代の話だ。
「……では、ついて来てくれ」
老人は年齢を感じさせない姿勢の良さで立ち上がると、自宅の丸太小屋へと歩き始めた。
………………
…………
……
小屋に入ると、すぐに科野は奥の部屋へと消えた。応接のリビングで待つこと、五分ほど。戻ってきた家主が両手に抱えた何十枚にも及ぶ紙の資料。ドカッとテーブルに置く。飯福は軽く断って、パラパラと目を通す。地理や、言葉、料理、文化。詳しく精査されているのは、書き込みの量からも知れた。
「これ、情報を集めて編纂するのに何年くらいかかったんですか?」
「うーん。ざっと15年、じゃな」
歯の何本か欠けた口元をニッと歪めて、科野は笑った。今は齢60ということなので、45から始めたことになる。
「すごいですね。道場をやめられてから、ずっと……」
「まあ、やることも、ありゃせんしな」
妻を亡くして、ポッカリ空いた穴。やることを見つけないと、苦しかったのだろうことは想像に難くない。
「この資料、写す価値があるなら、写してもらってええよ」
「え、ええ? 良いんですか? 科野さんの努力の上澄みを攫うようで申し訳ないのですが」
「なんの、なんの。そのために、せっせと書いてるようなもんじゃから。むしろこっちが感謝したいくらいじゃ」
背を反らせて笑うと、いまだ衰えぬ筋肉質な体がシャツを押し上げた。
「それにまあ、美味い飯の代金も含んでるとあれば……なにをか言わんや、じゃな」
科野は軽く腹をさすってみせる。飯福は微苦笑しながら、小さく頭を下げる。
「この歳になるとな。後進のことばかり気になるんじゃ。新しくマレビトが来たと聞いた時も、ならこういう資料も役立てられるかも知れんと、ボンヤリ思っておった。いつか機会があれば会いに行こうかとも」
情報はかなり断片的なようだ。飯福の場合は来たという表現が微妙に当てはまらない。行き来、が正解だ。なので定住地がなく、会いに行くというのは事実上、不可能だったのだが。
(これも情報伝達の技術差だよな)
異世界には、SNSはおろか、電話すらない。同じ国の、同じマレビトという立場の人間ですら、正確な情報が入っていないのだ。伝言ゲームよろしく、人々の間を伝う間に、変容し、尾ひれがつき……といった具合だろう。
まあそのおかげで、白の国のどこに行ってもスター扱いのような面倒なことにならないので、飯福としては助かっている部分も大いにあるが。
「……ありがとうございます。そこまで気に掛けて頂けているなんて」
逆に。この会ったこともない人間、希薄な関係の相手でも、情をかけ合う文化は、もう現代日本が失ってしまったものではないかと。そんなことも、彼は思った。
改めて、資料を検分する。
「しかし、地図は凄いですね」
「まあこれも、正確ではないがね。Aさんは黄の国の西には大河があると言うが、Bさんは北だと言う。それぞれが住んでいる地域を基準に言うもんじゃから」
さながら水平思考クイズの様相だ。
「大河を基点に、Aさんが住む第○都市は国全体で見た時の北東。Bさんが住む第○都市は南側という風に埋めていく」
地図をポンポンと鉛筆で叩く科野。
「ちなみに各国がセレスティバーグ以外の都市に名前を付けないのは、白の女神が人間にお与えになった最初の街以外は、全て借りている物だから、という論理らしいぞ」
「へえ。そうなんですか。そんな理由が」
覚えなくて楽ではあるが、イチイチ、○の国と頭につけないと、どこの国の都市か分からないのは面倒でもある。
更に資料を捲る。
「……箸食文化も調べてあるんですね」
「ああ。それも面白い。魚の小骨などを取るのに箸の方が便利に思えるのに、一番の漁業国、青の国はスプーンや手掴みが多い」
或いは魚の身は手で取った方が一番効率的という結論なのかも知れないが。
「逆に黄の国は、虫をスプーンではなく箸で掴むのは……儂の感性からすると、余計に感触が伝わって嫌じゃがな」
あはは、と飯福。
更に資料を読み進めると、今度は言語のまとめがあった。
「理屈は全く分からんが、この世界では口語は全て通じる。どんな国のどんな街から来た者同士でも、通じる」
こちらは飯福も勘づいていた事実。最初は自分がマレビトだから通じるように超存在が計らってくれた(ギフトのオマケみたいなもの)のかと思ったのだが、しばらく屋台をやっていて、時折街に出て。この世界の人々は別の国の者同士でも、言葉で苦労している様子を一度も見かけなかったのだ。
「文字は国、地域が違えば読めないのじゃがな」
そう。例えば黄の国の人間は、(その個人が勉強していない限り)赤の国の文字は読めない。だが口語に関しては……互いが自分の母語を話しているのに、相手には相手の母語に聞こえているという、翻訳ソフトが裸足で逃げ出すような恩恵が、この世界の全ての人間に生まれながらに与えられている模様だった。
先程、
(いや、そもそも。聞こえてくる言葉が、全て勝手に自分の母語に変換されるんだったら、他の言語の、文字はいざ知らず、口語は覚えようがないのか)
よく言葉は耳から覚えると言うが、それを封じられる格好だ。赤ん坊の頃に、二ヵ国の人間と接していると、どうなるのか少し興味があるが。
「ありがとうございます。すごく、すごく、有益な資料です」
文化や技術に干渉しないためにも、相手の水準を知っておくのは大切だ。学術的好奇心も然ることながら、そういった実益面でも非常に助かるものだった。
「お預かりします。すぐにコピーしてお返ししますね」
資料の束を抱えて、飯福は日本へと戻る。コンビニに走り、コピー機を占領した。10分以上かけて全て写し終えると、また走って帰宅。異世界へと戻る……前に、ふと飯福はキッチンの前で止まる。
「……少しくらい良いよな」
相手は日本人でもある。
幾つかの皿に醤油、みりん、味噌などを乗るだけ乗せて、ラップをかける。それを盆に乗せ、コピー原本は小脇に抱えて異世界へと戻った。
「ああ、お帰り。早かったの。40年以上も経っておるし、日本のコピー機も進化しとるんじゃろうか」
進化しているし、コンビニと呼ばれる店で普通に置いてある、と教えたらどういう顔をするだろうか、と一瞬、誘惑に駆られた飯福だが。
「その盆は……」
先に科野に、プレゼントの方に気付かれた。提供台の上にそっと置く。
「各種調味料です。料理に使ってみて下さい」
「い、いいんか?」
「本当はあまりポリシーにそぐわないですが。同じ日本人ですし。事情も分かって下さってますから。ただくれぐれも、この世界の人には見られないように」
ラップの処理も含めて委細承知だろうが、改めて。
「ああ……ありがとう。これで何か作って、妻の墓標にも供えようかのう」
「はい。是非そうしてあげて下さい」
とてもブリ大根の一皿では、情報料としては足りないと思っていたので、飯福としても喜んでもらえて何よりである。
互いに礼を言い合い、飯福は屋台を畳み、家へと戻った。
「……」
テーブルの上に置かれたコピー用紙の束。デジタルのチラシを見て云々考えていた朝とは打って変わって、その紙ベースの資料に、ありがたく飛びついていた。
印刷技術、地図、文化考察、調味料……あらゆる物は先人の積み重ねがあってこそ、である。
コピー用紙を項目ごとにまとめて、飯福はクリアファイルに整頓していく。この資料を基に、自分でも新しい事が分かったら、追記していこうと考える。それで、もし数十年後、新しいマレビトが現れた時には自分も継承してやるのだ、と。
そんな未来を想像して、飯福は口元を緩めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます