13:フカヒレ丼(青の国・第28の都市)

 ボートに乗り込み、眼前に広がる大洋と正面から向き合った、その途端。トムソン・レーノの脳裏に、あの時の光景がフラッシュバックする。大きな声をあげながら、機体から飛び降り、桟橋に乗った。それでもまだ周囲が海なのを見て、桟橋を駆け、陸地へと足を着けた。そこでようやく、精神が落ち着く。


 トボトボと砂浜を歩き、ゆっくりと座る。ここまではも来られない。そういう安心感と共に、情けなさが込みあげてくる。未だに自分は逃げ回っている。

 半ズボンのトムソンは、自分のふくらはぎを見た。毛深い体質の彼だが、丸く盛り上がって傷が治った痕、そこには全く毛が生えていなかった。そんな傷が幾つもあった。それはよくよく見れば歯型のようにも見える。


「……サメ」


 怨敵の名を口にした。

 

 トムソンは、一年半前までボートレースの選手をしていた。そこそこの戦績を残しており、稼ぎもそれなりにあり、女にもモテた。このまま頂点までいけるのではないか。そんな風に調子に乗っていた矢先。事故に遭った。練習中だった。ウミガメと勘違いしたのだろうか、気が付けば巨大なサメに船底を押し上げられ、転覆していた。あの浮遊感。そして深い青の中に潜む、黒い魚影が網膜に焼き付いて、彼を縛り続けている。


「くそっ」


 足の傷に拳を打ち付ける。

 ただ。食いちぎられなかっただけ、運が良かったというのが医者の診立てだった。恐怖で振り回した腕か足が、サメの鼻を打ったのだろう、と。トムソンは知らぬ事だったが、サメは鼻が弱いのだそうで、そこを捉えたからこそという推測だった。逆に言えば、あとほんの少し(蹴りか拳か知らないが)当たる箇所がズレていたら、あえなく右足を食いちぎられていた、ということ。


 その事実にまた身震いして、トムソンは自己嫌悪に陥る。ほんの数日前まで、怖い物なんて何もない、とすら思っていたのが、こうまで弱くなるのかと。自分で自分を笑いたくなるが、しかし笑えなかった。


 事故後、周囲はどんどん離れていった。トップレーサーのツレという恩恵がなくなった途端、女も男も離れていった。訓練して何とか歩けるようにはなったが、再びボートに乗れるのはいつになるか分からないと医者に宣告されてしまったのがダメ押しとなった。

 自分が築いてきた仲間たちというのは、こうも脆いのかと驚き、失望した。当時は彼らを呪ったが、これだけ時間が経つと理解できる。自分が招いたことだ。それなりの連中を侍らせて、悦に入っていたのは自分も同じ。クズ鉄の周りに落ちているのもクズ鉄。この帰結も道理だと。


 それから一人になり、僅かな貯蓄と、首都の家を売り払ったカネで、この第28の都市(と呼ぶのもおこがましい寂れた漁村)に引っ越した。ここなら誰も自分を知らない。ただのトムソンとして第二の人生を歩み始めたのだった。故郷である25番目とも近いので、折を見て父母や兄弟と会うのにも便利だった。

 ちなみに家族は彼から離れなかった。ありがたみを骨身に沁みて理解したし、彼らの協力があったからこそ、再び歩けるようになるまでの訓練も乗り越えられた。共に暮らすという選択肢もあったが、やはり生業が厳しい。漁の「り」の字くらいはトムソンも知っているが、レーサーになると決めた時から、網すら触っていない。


「結局、俺にはこれしかないんだよな」


 やりたいこと、と言われれば。やれること、と聞かれたら。

 それでも体が全くダメなら、諦めもつくのだが。先ほども走って海から逃げ出せたように、もう事故前と大差ないくらいに動けているのだ。医者も存外、診立てがテキトーだ。


 結局。重症なのは体ではなく、心の方だった。海が怖い。特に暗がりのように底の見通せない深い海は、何が潜んでいても分からないから。あの浮遊感が怖い。己の城、ボートから裸一貫で投げ出されれば、自分はもうプカプカ海面を漂うエサに過ぎないから。


「……」


 悪態をつく元気もない。そういうのは、もう散々やったのだ。やって、何の意味もなかったし、支えてくれる家族が嫌な想いをするだけだと知った。それでも時折、何かに当たりなくなる事があるので、そういう意味からも家族との同居は控えているのだった。


「何か、何かキッカケが欲しい」


 他力本願は趣味ではないが、そもそも、こうなったのも外部からの不可抗力のせいである。


「……はあ」


 トムソンは今日の訓練に見切りをつけ、海から逃げるように踵を返した。30分ほど歩く。地面が砂地から土へ変わり始め、やがて小高い山のふもとに着いた。そこに六色神を祀った白い石造りの小さな建物があった。その奥には青い大きなマナタイトが置かれている。トムソンの背より低いそこへは、必然、こうべを垂れるようにして、入っていく。石床に膝を着き、両手を組んで祈った。


「青の神よ。ミストルア様よ」


 ボートレーサーは、マナタイトの奇跡を日常的に享受する身である。その性質から、彼らが個人や団体で青の神殿に詣でる、ということは間々ある。年始め、大きなレースの前、年納め……

 だが、トムソンは事故に遭ってからは、一年近く神殿にも分殿ぶんでんにも参っていなかった。無理からぬ事だった。欠かさず詣でていたのに、海の事故に遭ったのでは信心も薄れようというもの。


 それでも最近になって、また詣でるようになっている。理由は単純だった。青のマナタイトに願っても、反応しなくなってきたのだ。今では、真水で体を洗い流すのにも四苦八苦している。

 レース用のボートは重い樫の木で作られた楕円型をしているのだが、その後部、二つのマナタイトを嵌め込む穴を設けてある。レーサーはレース開始と同時、そのマナタイトに向かって祈りを捧げ、起動。マナタイトは渦のような水流を吐き出し、ボートに推進力を与える。つまり青のマナタイトが動かなければ、ボートなどただの海に浮かぶ木塊に過ぎないのだ。


(……このままじゃ、レーサーとして死んでしまう)


 心の傷とは別に。不信心のツケが本格的に彼の道を塞ごうとしている。

 過去の自分を呪いたくなる。そもそもボートを動かすのに神の御業を頂いているのに、更に加護をもらおうというのが図々しかったのだ。思えば、もう現役の時から罰当たりだった。あるのが当たり前、自分の手や足が動くのと同じように考え、感謝を忘れきっていた。そんな自分が、足に大怪我をしたのは何か皮肉的というか示唆的というか。それで、神への不心得を悔い改めればまだ救いもあったのだろうが。どころか逆恨みのように信仰を疎かにすれば、今度は最低限の加護すら失われていくのは道理なのかも知れない。


 トムソンは祈りを終え、ゆっくりと中腰まで立ち上がる。最後にもう一度、マナタイトへ礼をして、分殿を辞した。


 ………………

 …………

 ……


 翌朝も、ボートに乗った。櫂を使って、人力で少しだけ漕ぐ。朝は太陽が水平線と近いため、かなり遠くまで見渡せる。そのおかげで、あの暗がりのような深い青を見なくて済む。もちろん、沖の方まで出ればその限りではないが、今のように浅瀬を漕ぐくらいなら、恐怖もいくらか少ない。


「ミストルア様、どうかご加護を」


 唱える。ボート後部が淡い青の光を放ち、ゆっくりと水流を吐き出した。微速前進。遊覧船なら、さぞ快適だろう。だがこれはレース用のボートである。大きなマナタイトの、その性能の五分の一も出ていないのではないか。


「……」


 トムソンは気ばかりが急く。こんな所で終わりたくない。


「ミストルア様! ご加護を!」


 叫ぶように言って、後ろを見やる。だが相も変わらず、進みは悪く。それどころか、徐々に減速しているようにさえ感じられる。何故なのか。一体何が悪いのか。確かに祈りを欠かしたことは落ち度だが、自分よりも詣でる頻度の低い者でも平気で使えているというのに。トムソンは天を仰いだ。神がそこに居るのなら、答えを教えて欲しい、と。


「……まあ。朝だけ、しかも岸に近い場所でしか走れないんじゃ、どの道、無理だけどな」


 自嘲の笑いが生まれ、ふと、このまま終わりかもな、と先程とは真逆のことを考えてしまったトムソン。

 と、そこで突然。後部に二つ嵌ったマナタイト、その内の一つが暴走気味に水流を放ち始めた。通常はターンの時だけ片方のマナタイトの出力を絞るという手法を使うのだが、今はその意図もないのに、片側だけ爆発したかのように噴き出しているため、


「う、うおおおお!?」


 ボートがその場で、回転してしまう。ひたすら右回りに。その遠心力で、スポーンと、いとも容易くトムソンの体が宙に放り出された。そしてそのまま、少し沖の方へ着水。あの浮遊感を味わった後、間髪入れずに、この深い青。トムソンは半狂乱のまま、必死で手足を掻いて、岸へ戻る。何度も沖合の方を振り返り、何も追いかけてきていないことを確認しながら。


「……ぷあっ! げほっ! げほ! はあ、はあ、はあ」


 ほうぼうの体とは正にこのことで、這いつくばって砂浜を進み、海から距離を取る。荒い息が、壊れそうな心臓が、冷え切った肝が、徐々に平常へ戻ってくると……トムソンは激しい怒りに我を忘れた。


「ちくしょうがああああ!! 俺が一体なにをした!! なにが青の加護だ!! 疫病神め!!」


 悪態はやり尽くしたと思っていたが、まだこれほど残っていたらしい。いや、溜まりなおしたということかも知れない。何もかも上手くいかない。図に乗っていた、下らない連中とつるんでいた、参詣も疎かにしていた。だが、それだけだ。他人をイタズラに傷つけたことはないし、犯罪をしたこともない。それでも、ここまでの仕打ちを受けなければいけないほどの悪人だと言うのか。


「……くそっ。ちくしょう」


 涙が出てきた。誰もいない浜で良かった、と切に思う。トムソンはそのまま、声を押し殺して泣いた。



 ◇◆◇◆



 薬草転売野郎、飯福航いいふくわたるがジムから帰ってくると、家の前に置いた宅配ボックスに荷物が届いていた。

 居間に入り、段ボールを開けてみる。すると中から、有名な中華料理屋のロゴが入ったオシャレな外箱が現れた。


「あ! フカヒレか」


 なんとなく食べたくなって頼んだ物だった。最近は異世界のおかげで羽振りが良すぎる飯福。こちらも一万円オーバーのお買い物だ。ちなみに通販の購入画面で、金貨二枚と脳内変換してしまった辺り、だいぶ向こうに染まっているなと苦笑したものだった。

 

「半分は俺。半分は屋台で出してみるか」


 大きなヒレが二枚入っているセットを買った。注文時は二つとも自分で消費するつもりだったのだが。


「通販は買った時の食いたい熱が、届く頃には若干冷えてるんだよな」


 二枚も要らない、というのが今の飯福の飾らない本音だった。

 箱を開け、中身を取り出す。パックに入ったフカヒレ×2。パウチのスープ、紅焼醤ホンシャオジャン。それらを見て、しばし固まる飯福。


「うーん。これ煮込むだけじゃつまらないな」


 姿煮、シンプルで良いとは思うが。やはり何かここから別メニューにして出したい、と考えるのは料理人の性だった。とはいえ、悲しいかな、29年間ずっと庶民だった飯福には、フカヒレ料理のレシピはレパートリーに無い。スマホで調べるか、とポケットに手を入れかけた時、


「お。アレンジレシピがついてる」


 紙ペラ一枚の親切を発見したのだった。プロが美味いから、と付けてくれているレシピなのだから、これは素直に作っておこう、と飯福は一つ頷く。最初から自己流でやると大体失敗するものだ。

 レシピを確認、足りない物を買い出しに行った。


 ………………

 …………

 ……


 チンゲン菜は商店街で、紹興酒しょうこうしゅは『戦場石井せんじょういしい』で購入。家に戻ると、飯福は早速、調理に取りかかった。

 まずはスープのパウチと、フカヒレの入ったパックを一緒に湯煎にかけ、もう一つの鍋でチンゲン菜も茹でておく。その間にフライパンに油をひき、長ネギと生姜を炒める。香り立ってきたら、紹興酒を小さじ1杯。漂う芳香に、飯福は鼻を鳴らした。

 中華鍋を出し、先に湯煎していたフカヒレとスープをそれぞれ封を切って、投入。周りが焦げないよう、適宜、回しながらジックリと煮込む。ラーメンスープのような色味、とろみがついてきた辺りで火を止める。ごはんを大きめの皿に盛りつける。鍋の中から、香りつけのネギと生姜を取り出すと、白米の上へ餡ごとかけていく。フカヒレは崩れないように、慎重に落として、茹で上がったチンゲン菜を添えた。


「できた。贅沢フカヒレ丼」


 色も見た目も香りも。食欲を刺激してやまない。


「今日はコイツを出すよ。一人前でよろしく」


 クローゼットに声をかける。キラッと光るのを見届けると、飯福は一足先に味見兼実食といく。


「まあ味見なんてしなくても、絶対美味いけどな」


 スプーンを持つと、早速フカヒレを割り、白米と絡ませ、口元へ運ぶのだった。



 ◇◆◇◆



 トムソンはあの後、精魂尽き果て。砂浜に座り込み、ただ何もせず時間を浪費した。そうして夜になると、肩を落としながら自宅に戻った。浴室で青のマナタイトを使って真水を浴びる。相変わらず加護は不調で、水はチョロチョロとしか出なかったが、もう怒る気にもならなかった。神に嫌われたのだろう、と妙に納得してしまったのだ。


「もうやめよう」


 最後に、今までボートで稼がせてもらったことへの感謝と、今後の生活に最低限必要な加護をお願いして終わろう、と。

 彼の心は折れてしまっていた。


 着替えると、再び山の麓へ。もう鐘は先程、八つ鳴った。トムソンは夕飯はおろか、昼飯も抜いてしまっていた事に気付いた。

 道中も、分殿の周りも、白のマナタイトが嵌め込まれた街灯が煌々と光っている。この加護は世界中どこでも、誰相手でも平等に照らす。こんな嫌われ者の自分でも、と自嘲まじりに感謝する。


 屈んで分殿に入る。膝を着くと、目を閉じ、指を組んだ。


「ミストルア様。今までありがとうございました。これからはアナタの加護で稼いだボートの賞金と……普通に働いて稼ぐおカネで生きていこうと思います。そうだな……漁でも覚えようかな」


 そうなると実家に帰るべきだろう。久しぶりに母の手料理が食べられる。そんなことを思えば、トムソンの胸の内は不思議と凪いでいるのだった。


「それじゃあ。ミストルア様も、お達者で」


 神に達者も何もあったものではないが。どこか馴れ馴れしい雰囲気は、吹っ切れた証だろうか。

 分殿を辞し、元来た道を引き返す……気にはなれず、今日は遠回りして帰りたい気分だった。昼間は小さないちが出ている通り。村で一番賑やかな区画へ。


「夜に見ると、寂しいな……店なんて……一軒……やってるな」


 都会からの交易品が大半の市。魚以外の食べ物を手に入れようと思えば、村ではここだけ。従って大体、夕飯前の遅くても午後五時にはハケているのが常だ。間違っても夕飯後の八時現在に開いている店などありはしない。ハズなのだが。目をゴシゴシと擦る。


「やっぱり、あるな。屋台か」


 不思議な形の屋台は、やはり夢でも幻でもなく、そこにあった。

 と、よく見れば、人がいる。闇に紛れるような黒髪黒目。長身の男。年の頃はトムソンより少し上くらいだろうか。


「……いらっしゃい」


「……ここは、屋台、なのか?」


「ああ。異世界屋台・一期一会だ」


「いせかい……本当に?」


「本当だ。と言っても信じられないか? まあ信じなくても良いけどね」


 男は本当にそこには興味無さそうで、そういう姿勢はトムソンには新鮮だった。少し興味が湧き、屋台の全容を見る。近くで見るとかなり上質な木材で出来ているらしいことが分かった。表面がツルツルした台、そこから四本上に伸びる木棒。その上には三角の屋根が乗っている。そしてそこから垂れ下がる四枚の赤い布。これもかなり縫製がシッカリしていた。


(見たことない文字だ。青の国の字じゃないけど……)


 トムソンは他の国の字はよく知らない。そこまで学があるワケでもなく、文字も都会に出るまでうろ覚えだったが、レースの仕事をやる以上は必要だったので勉強し直したくらいである。


「……今日はフカヒレ丼だが、どうする?」


「フカヒレどん?」


「サメのヒレを煮た料理だよ。独特の食感があって美味い」


 トムソンはヒッと息を飲んだ。衝撃が脳と体を駆け抜け、動けなくなった。


「サメを…………食べる?」


「ああ。こっちの世界では食べなかったか。鯨に似た珍魚は食べてるみたいだけど」


 そう言われると、鯨もサメも大差ないような気もしてくるが。あんな恐ろしい生き物を食うという発想がなかった。もしかすると、あまり漁に詳しくないトムソンが知らないだけで、食べている街や地域は存在する可能性はあるが。


「……美味い、のか」


「まあ俺は好きだね」


「……」


「どうする? 嫌なら無理強いは勿論しないが……その場合は、リシャッフルしてくれるんだろうな」


 後半は小さな声で囁くように言うので、トムソンには聞こえなかったが。


「食ってみたい」


 気付けば、そう答えていた。


「結構、高級食材だから高いけど、大丈夫か?」


「具体的には?」


「金貨一枚に銅貨七枚」


「大丈夫だ」


 蓄えはそれなりにある。


「だがマズかったら、言い触らしてやるからな」


 ここいらで商売は出来なくなるだろう、と脅しをかけておく。これでテキトーな物を出される心配は減るだろう。

 店主は苦笑を残し、


「はいよ。水持ってくるから、少し待っててくれ」


 そう言って、くるりとトムソンに背を向けた。そして次の瞬間、店主は突然、発光し始める。いや、彼が光っているのではなく、彼が進む先、何もない空間が光っているのだ。驚きに声をあげる間もなく、店主はそのまま光の中へ消えて行った。


「……」


 眩しい光の残る屋台。手庇を作りながら、トムソンは呆然としている。と、すぐに。店主が戻ってきた。手に水の入ったグラスを持っている。それをトンと提供台に置くと、


「次は料理だから、少し時間をくれ」


 と言い残して、再度、光の中へ。なんの反応も返せないまま、見送るトムソン。やがて光は収まり、ぼんやりと向こう側の景色が映った。緑色の草を編んだマットを敷いた部屋が見える。その向こう、先程の店主の男が立っているのは調理場だろうか。よく見ようと近づいて……ゴツンと椅子に足をぶつけてしまった。


「いてて」


 下を向いて、椅子を確認する。こちらも上等な品だ。キレイな曲線が入った、匠の仕事としか思えない仕上がり。トムソンはそっと座ってみる。暗くて分からなかったが、座部に小さくて柔らかい布団が敷かれているらしい。尻を優しく包み込むようだった。青の国の首都、そこの高級宿でもこんな物は見たことがなかった。


「異世界……本当なんじゃないか」


 水も一口飲んでみる。美味い。川や井戸から汲んだものとは雲泥の差だ。澄んでいて、匂いもない。


「これはいよいよ……」


 そこで、あの長方形がまた光り輝きだす。うわ、と思ったが、今度はそこまで大きくもなく、目も慣れていたせいか、軽く目を絞るだけで大丈夫だった。そして、光を背に戻ってきた男。手にトレーを持っていた。そしてその上には深くて大きめの器。コトンと提供台の上に置かれたその中には……


「……黄金のスープ」


 差し込む光も相まって、キラキラと輝いている。そしてそのスープの中に沈む半月型の食べ物。輝く糸が密集したような、不思議な形状。緑の瑞々しい添え野菜も、あまり青の国では見かけない物だった。


 そして漂ってくる芳香。甘さと辛さと、塩味と。複雑な味わいを持っているのが、匂いだけで分かる。ゴクッと喉を鳴らしたトムソンに、店主の男が微笑する。どうぞ、と目顔で促した。


「それじゃあ早速……」


 サメのヒレ。あの海面から飛び出している黒い刃物のような恐ろしい背ビレだろうか。それとも他の部位のヒレだろうか。いずれにせよ……

 震える手を押さえながら。スプーンを持ち、そっとヒレに突き立てる。すると、ホロリと崩れるように割れた。その下にはライスが埋まっていたらしく、白く輝く粒々と千切れたヒレの薄茶色がキレイに色の対比を生み出している。なんとなく、不信心者の自分すら等しく照らしてくれる、あのマナタイトの白い光を彷彿とさせた。妙な安心感を覚え、


 ――パクリ


 一口、食べてみた。すると、


「~~!?」


 濃いスープの味わい。先ほど予想したように、甘さと辛さ、塩味、そして酒の匂いもほのかに感じられる。複雑で重厚な味わい、それをたっぷりと吸い込んだサメのヒレは、ジョリッと不思議な歯応えを残す。糸の部分はキノコのカサの裏側を噛んだような。それでいて、とろけるように柔らかく。噛めば沁み込んだスープを吐き出してくる。そして最後に絡むライス。こちらもスープがよく沁みているが、噛むと米本来の甘さも出てくる。


(す、すごい。色んな味、食感が……こんな複雑な料理、初めてだ)


 直前まで手が震えていたことなど、すっかり忘れたかのようにトムソンは料理をどんどん口に運んでいく。濃いスープと、それをシッカリ吸った不思議な歯応えのヒレ、柔らかくて掻きこみやすく腹を満たしてくれるライス。青野菜のシャキシャキ感と甘苦い味わい。混然一体の一皿を、ガツガツと。途中から昼飯分の空腹も思い出したかのように、それはもう一心不乱の様相だった。


「……終わってしまった」


「いい食いっぷりだったね」


 店主が歯を見せて笑う。


「……これがサメ。あんな恐ろしい生物を、美味い飯に変えてしまう。アンタ、あれか? なんだったかな、白のセレス様の隠し子……じゃなかった」


 店主が噴き出す。


「マレビト、だろ? 真っ先に疑われないあたり、信仰心が薄そうだなと思ってたが……まさかロクロク覚えてないとは」


「うっ。け、敬語とか使った方が?」


「いらん、いらん。珍しいギフトをもらった、ただの人間だよ。俺は」


 手をヒラヒラとやる店主。苦手な敬語を使わなくて済むと、トムソンは安堵した。それで気が緩んだワケでもないのだろうが、


「……なあ。そのギフトは、神の恩恵は、アンタを幸せにしてくれてるか?」


 気が付けば、脈絡もなく、そんな事を聞いていた。サメをあれほど劇的に変えてしまうほどの技量に感服し、料理一つで少し心を開いてしまったのかも知れない。そして何より、知りたかった。正負を問わず、神から一方的に与えられるモノに対して、彼のような珍しい人間が、何を思って、どう感じているのか。


「ん? そうだな…………こっちに放り込まれた当初は、正直なぜ自分が、と理不尽に泣いたよ……それでもさ。見方を変えれば、カネも稼がせてもらえるし、色んな人に色んな料理を食わせてやれる。面白いし、今では感謝感謝だ」


「感謝……」


「理不尽を嘆くより、起こったことはもう仕方ないと割り切って、そこからどう立て直すかだと思うんだ。小さなことにも感謝して、恵まれている部分にも目を向けていけば、自ずと生活もマインドも良くなっていくもんだなって実感したよ」


「……そういうものか」


「まあ実際の話、こっちのカネを俺の世界のカネに替える手段を見つけた時には、大感謝で恵まれてる部分ばっかり、超ラッキーってなったけどな」


 カカと楽しそうに笑う。どうも結構、儲けているらしい。


「……感謝、か。俺が恵まれている部分。小さなことにも」


 それは先程、分殿で青の神に伝えた、今までの恩恵と蓄えに対する感謝と同質のものか。


「毎日とる食事、例えばこのサメだってさ。確かに殺して食ってるのは間違いないんだが……頂いた命に感謝して、せめて無駄なく役立てようって主旨なんだ。身は煮物やソテーにして食ったり、皮は皮製品に使ったり、出来る限りな。生きて、我々の糧になってくれた事への感謝だな」


「サメにも……感謝」


 驚きの発想だった。恐らく事故当時の自分が聞けば、怒りで我を忘れただろうが、今はストンと落ち着いた心境で話を聞けていた。


「……」


「……」


「なんか、いきなり変なこと聞いて悪かったな。でも答えてくれてありがとう」


「構わんよ。客がポロッと何かを零したら、それに店主のオヤジがテキトーなこと言ってやる。まあ、ある種、屋台の醍醐味だ」


「なんだ、それ」


 二人で笑い合う。男二人が夜半も過ぎた屋台で。それはこの世界ではあまり馴染みのない不思議な風景で、トムソンはその特別感に酒も飲んでいないのに、良い気分だった。


「お勘定」


 金貨二枚を置いた。店主が目を丸くする。


「礼も兼ねてね。アンタと……サメにも感謝だ」


 そう言って、トムソンが椅子から立ち上がった。

 そう。自分は立てるのだ。少なくとも体は立てるのだ。なら店主の言う通り、生活と心も立て直せる。どこか吹っ切れたような晴れやかな気持ちで、店を後にする。


「ありがとうございました」


 店主からも感謝が返ってきた。その声がまたトムソンの背を押すようで、来た時よりもずっと軽やかな足取りで家路を辿った。






 翌朝、日が昇ると同時に、トムソンは家を出た。なぜか無性にボートに乗りたくて仕方なかったのだ。浜へと駆けていく。不思議だった。昨日、浜から帰ってくる時は、もうボートはやめようと思っていたのに。今はもう加護がなくても、櫂で漕いででも海を走りたい。それ以外、頭にないのだ。


「ああ!」


 自分のボートを見ると、思わず声が出た。何年かぶりに親友に再会したかのような。

 抱き着くように乗り込んだ。係留杭からロープを外し、櫂を取る。加護はもう頼まない。今までの感謝を伝え、ここからは自分の手で、足で。当然、競技では勝てないだろうが、趣味として続けていく。足を繋いでおいてくれたから、それが出来る。その強運に感謝である。


 ゆっくりと漕ぎ出す。スーッと進むボート。日の出のオレンジと、深い青の対比が、地平線を紫に染めている。美しかった。自然と感謝の言葉が出ていた。


「ミストルア様、ありがとう。海を作ってくれて、俺を海と出会わせてくれて、ありがとう」

 

 微笑みすら浮かべて、トムソンはそう言った。

 と、その時。


「え!?」


 ボートの後ろ、二つの穴に嵌った青のマナタイトが宝石のように輝き、朝日を照り返した。そして次の瞬間、


 ――ギュオン!


 と音がしたかと錯覚するような勢いでボートが急加速する。頭は混乱。しかし体は覚えている。櫂をボートの床に放るように置いて、膝を畳んで前傾姿勢を取る。体が低くなったことで、風がぶつかる面積が減り、更にボートは加速する。


「ああ!」


 久しく感じていなかった、全身で風を切る感触。


「左、半分!」


 指示を出すと、左の穴に嵌ったマナタイトからの水流が半分になる。必然、右側が偏重。左側に身を乗り出すようにして、遠心力を抑える。そして曲がり切る頃合いで、真っすぐボートの中央へ戻る。熟練の動きだった。第三者が見ていたなら、一年半ぶりの操縦とは絶対に気付けないだろう。


 ボートは走る。二度、三度、左右のターンを繰り返し。傍目にはグルグルと同じ所を回っているだけなので、あれで楽しいのかと疑問に思うだろうが……乗っているトムソンは笑っていた。泣きながら笑っていた。


(楽しい。こんなにもボートは楽しかったのか)


 やがて減速(これも滞りなくマナタイトは言う事を聞いてくれた)、接岸。トムソンは浜に下り立った。泣き笑いのまま。未だ溢れ続ける涙が頬を伝っている。


「ありがとう。ありがとうございます」


 ボートに、海に、深く深く頭を垂れた。身の回りのものは、とかくあるのが当たり前と思ってしまうが、そうではないのだ。頂いているのだ。小さなものも、大きなものも。恵まれている部分は必ずあるのだ。忘れがちなだけで。


「ああ……」


 帰ったら家族にも改めて感謝を伝えよう。それだけじゃない。レースの運営をしてくれていた裏方、去って行ったが確かに楽しい時間を共に過ごした元仲間たち、ボートを整備してくれていた整備士たち、処置をしてくれた医者、をくれた屋台の店主、そして自分に試練を与えたサメにさえ。最後に、それら全てを包む母なる海と創造主たちに。


「ありがとう。俺は今、ここに、この場所に立っています。皆さんのおかげで立っています」


 浜に一人立つトムソンはいつまでも「ありがとう、ありがとう」と繰り返す。そんな彼を、昇りゆく太陽が優しく照らしていた。

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