10:冷やし茶漬け(赤の国・第19の都市)

 最初に炎道えんどうを越えた時、ダーナー・カルフォーンは、まだ14歳だった。

 比喩でも何でもなく、死ぬかと思った。それが当時の彼の率直な感想だった。なので今、32歳になってなお、この死の道を行くことになるとは思いもしなかった。しかも数日おきに、などと。


「これも戦争で負けたツケだ……なのに政府は何もしちゃくれない。クソッタレめ」


 同僚の男たちが毎日のように吐く、このような悪態が、しかしまさに真実だった。

 赤の国の中央を縦断するように走る炎の道。すさまじい地熱に茹り、冬場でも陽炎が昇り立つ、この不毛のライン。書物によれば、最低でも800年以上前には存在していた、自然の枷である。

 地下には大量の赤のマナタイトが眠っており、その一つ一つが仄かに熱を持ち、寄り合わさって高熱となっているという説があるが。誰もその深くまで掘る術も体力もないため、真相は闇の中、いやまさに土の中である。


「……はあ、はあ、はあ」


 先を行く荷車の背を見ながら、ダーナーは荒い息を吐いている。燻製肉ですら、急がないとダメになるような、時間制限も厳しい行軍。重い荷車を男たちが二人がかりで牽き(牽方ひきかたと呼ばれる)、後ろからも二人(押方おしかたと呼ばれる)が押す。この重労働を丸一日続けて、ようやく炎道を抜けることが出来るのだ。


「はあ、げほっ、ごほっ、はあ、はあ」


 この炎道を抜けずとも、海路を使って国の東西を行き来することは出来るが。南側はそれで良いのだが、北側は黒の国の領海となっているため、通行税がかかる。しかも荷の検閲があり、そこでは黒の国の検閲職員による窃盗も横行。使えたものではない。

 国の北部には、戦時中、黒の国に攻め入るための軍港が幾つもあったのだが、全て閉鎖され、そして今後も海路での侵略が出来ないよう、こうして制海権までも奪われたという経緯だ。


(俺たちに死ねって言ってるようなモンだ。黒の国の連中は魔の者たちだ)


 実際のところ……赤のマナタイトにかかる関税についての話し合いの場を欠席し、一方的に宣戦布告。黒の国の南側に奇襲をかけて暴虐の限りを尽くした際には、他の五国全てから非難を浴び、しかもその上で敗戦。そこを踏まえると、黒の国はむしろまだ優しい戦後処理だったとは、各国の政治学者の総意に近いが。


 だが市井の人々にとっては、ただただ己の生活を苦しめる怨敵でしかない。自国の政府と甲乙つけがたい程に嫌われている。

 元は漁師だったダーナーも、戦後、漁に出ると黒の国の海軍に「通行税を払え」と追い回され、捕まるとボコボコに殴られて追い返されたということがあり、廃業。加えて、戦禍により母は未だ行方不明である。

 赤と黒の両国に、彼の人生は壊されたと言っても過言ではない。憎んでも憎みきれない、という状態だった。


「きたぞ! 地獄坂じごくざかだ!」


 約300メトルの勾配。そこまで傾斜は急ではないが、この極悪な暑さと、時間制限下での強行軍と合わされば、まさに地獄。誰が言い出したのかは定かではないが、誰もネーミングに異論を唱えることはない。分かりやすく的確だった。ただそれ以外にも、ここがそう呼ばれる所以はあるのだが……


「「ぐおおおお!」」


 前を行く荷車の、押方おしかたたちの呻き声。こちらの荷車は迂回して、その斜め後ろを登り始める。縦列で登っては、前の車が場合、二次被害が及ぶ。そのため地獄坂の上り下りの際は、こうして横に広がる習わしだ。


「ぐう」


 ただこれがまた重い。方向転換といっても、そう小回りが利くものではない。鉄の車輪がジャリジャリと音を立てながら、赤土を噛んでゆっくりと斜め前に進む。そしてある程度、横の距離を稼げたら、今度は車輪を真っすぐに戻す。


「ぬぐおおおお!!」


 食いしばった歯が折れたという話も時々聞く。ダーナーもいつ血管や歯が飛んでもおかしくない、と毎回思う。

 隣の相方(名をロッペルという)も持ち手と荷台の間に体を入れ、掌と胸で押し込むようにして車を動かしている。顔が真っ赤で、発汗は滝のようだ。


「があああああ!!」


 とはいえ、自分も同じようなものであろう、と。獣のような声をあげながら、隣のロッペルと同じようにして体全体を使って車を押す。外側の彼の方がより多くの力を込めているので、ダーナーはまだ楽なハズだが、そんなことは微塵も感じられない。

 やがて車輪が真っすぐの軌道に乗る。持ち手を握った手、その甲にボタボタッと汗が落ちた。


 そのまま気力を振り絞り、坂を登っていく。斜め前を行く先行車の四人と合わせて、むさくるしい呻き声が何重にも響く。

 それから五分以上かけて、坂を登りきる。そこでようやくほぼ平坦な道に戻ると、格段に楽になった気がするが、重労働には何ら変わらない。

 と、そこで。


「……ん? ああ!?!?!?」


 ダーナーが牽いている荷車の後部、押方おしかたの男から悲鳴が上がった。荷車を止め、ダーナーとロッペルは後ろに回る。そこには男が一人だけ。前に二、後ろに二の配置のハズが、もう一人がどこにも見当たらないのだ。


「またか……」


 ロッペルが呟く。


「いや、まだどこかで脱落した可能性もある」


 ダーナーが冷静に言う。だが、押方の残り一人は、


「俺も気付かないうちだったからなあ……に加わったにちげえねえよ」


 ヘラヘラと軽薄な笑いを浮かべながら、そう言って締め括ろうとする。


「おいおい、オマエがよく見ていたら気付いた話じゃねえのか」


「やめてくれよ。知ってるだろう。誰も気付かない間に、一人減ってるんだ。そういいうモンなんだって」


 ロッペルと後ろの一人が言い合うが、ダーナーは手を叩いて制止する。


「まだそうと決まったワケじゃないんだ。坂の途中で倒れてるだけかも知れねえ」


 なにせ、この暑さと重労働である。そっちの可能性も十分にある。というより、基本的にこういったケースは、ニブイチである。ダーナーの言う通り、途中で倒れているか。男が言うように、に加わったか。


「探すってのかい?」


「探さないのか?」


「……どっちにしろ、助かんねえよ」


 押方の男は首を横に振る。隣で作業していた者が消えたというのに薄情……と言いたいところだが、この極限状態では仕方ない部分もある。今から探しに行って、全員が倒れる可能性だって無きにしも非ずなのだから。


「五分だけ、というのはどうか。俺が数えておく」


 ロッペルが折衷案を出す。


「一応、一人減った報告はしなくちゃいけない。そん時に、一秒も探しませんでしたってのは具合が悪いだろう?」


 彼の言葉に、押方はなおも何か言いかけたが、結局黙って頷いた。恐らく嘘の報告をすれば良いと提案しかけたのだろう。だが牽方ひきかたの二人が、思いの外、人道的だったため、そんな提案をしたら組合に告げ口をされるかも知れないと危惧した、というところか。


 それから五分。三人で坂を下り、左右にも広げて捜索を行ったが、押方の残り一人は見つからなかった。これだけやれば、行列に魅入られて加わった、という報告でも問題は無いだろう。


「くそっ。結局、俺の言った通りだったじゃねえかよ」


「……」


「……」


「あーあ。押方は俺一人になっちまったし、最悪だよ」


 空気もまた最悪となった。


「死にてえんなら、他人に迷惑かけずに家で一人で死ねっての」


 言い過ぎだ、とは思うが。内容自体は間違いとも言えないので、牽方の二人も黙っている。

 荷車まで戻ると、三人になった布陣で作業を再開する。ダーナーは一段と重くなった荷車を、歯を食いしばって牽いていく。ふと、途中から残り一人の押方の力まで消えたかのように、更に重たくなった気がするが、また言い合うのも労力が惜しいので、黙って牽き続けた。


 更に行くこと三時間。ようやく炎道の東側の街、第19の都市に辿り着いた。

 荷主に車を引き渡し、受領のサインを貰うと、都市の外れにある炎道事業組合えんどうじぎょうくみあいの建物へ。受付で受領サインの入った依頼書を渡し、人員が一人減ったことを報告した。職員はあっけらかんとしたもので、


「お疲れ様。これ、報酬ね。行列に加わった作業員に関しては、こっちで死亡届とか諸々やっとくから。帰っていいよ」


 それだけ言って、窓口の向こう、自分の作業机の方へ戻っていった。押方の男は、自分の分の報酬を手に取ると、挨拶も無しに街へ消えて行った。ロッペルの方も、


「じゃあな。また組むことがあったら、よろしく」


 とだけ残して去っていった。ダーナーと彼は同じ組合の労働者ということで、二、三回組んだことがあり、それで知人程度の間柄だ。劣悪な環境には劣悪な労働者が集まる。そんな中で、割と話せるとお互いに思っている相手だが、それ以上の友誼を温める気はないようだ。


(一人死んだってのに軽いよな。みんな)


 自分も含めて、であるが。

 行列。あの地獄坂で見えるという骸骨たちの行列。それを見てしまうと、そこに自分も列してしまって、二度と戻ってこられない。そういう伝奇じみた噂なのだった。車を押して(牽いて)地獄坂を通過している最中、絶対に振り返ってはいけない。でなければ行列に魅入られてしまう、と。


(お伽噺かよ)


 実際のところとしては……不意に嫌気が差して逃げ出した。残りの面子が見つけられない場所で息絶えている。ここら辺が有力だろうと、ダーナーはじめ、ほとんどの労働者が考えている。

 仮に噂が本当だとしても、後ろなんて振り返る用もないし、余裕もない。自分には縁のない話だ、と。それにこの仕事をやっている人間は大半がここ以外に働き口がない。続けるしかないのだ。


「……」


 ダーナーは苦笑しながら首を振った。報酬の金貨六枚を手にして彼も建物を後にする。まだ日は高い。腹も減っているが、体の疲れが酷い。

 組合員は多少の割引が受けられる安宿に泊まる。一泊で銅貨八枚。丸一日、あの地獄を行って金貨六枚。そしてこの必要経費。報酬が支払われる前に、組合が中抜きしている分。考え出すとやめたくなるので、ダーナーは思考を停止して、硬いベッドに体を預ける。すると、すぐに意識が遠くなり、眠りに落ちた。



 ◇◆◇◆



 異世界で屋台を営む、しがない料理人、飯福航いいふくわたるは病み上がりだった。昨日の熱中症が地味に尾を引いており、食欲があまりない。今日は何かサッパリした物が良いなと考えていた。


「うーん」


 冷蔵庫の中を一通り見て、しばし黙考。


「お茶漬けにしようか」


 ただ、もちろん白米に鮭フレークを乗せて湯をかけて終わり、では具合が悪い。

 いつぞや、自分用に作った料理(確か手抜きうどんだったと記憶している)をうっかり選ばれてしまい、客に出す羽目になったが、あれと同じ轍を踏んではならない。


「今度は客にも出す意識で作らないとな」


 サボる時は外食にしよう、と。或いは休日の自炊。


「……まあ、やりますか」


 ということで調理開始。


 鍋に水を張り中火にかけ、そこに少量の昆布を入れる。しばらく煮込み、鍋の内側に小さな気泡がくっつき始めた頃、昆布を網杓子あみじゃくしで掬い上げた。そのまま水だけの鍋を加熱。沸騰直前で鰹節を一掴み投入する。火を緩め、灰汁を取り除きながら、鰹節が鍋の中に沈むのを待つ。全部沈んだところで、軽く一混ぜ。ざるでした煮汁だけをボウルに受け止め、再び鍋に戻して、煮詰める。再び90度くらいまで火にかけたところで止める。塩と醤油を軽く足し、くるりと一混ぜ。スプーンで掬って味をみる。


「うん。良い感じ」


 簡単な料理ゆえ、出汁に手間をかけてみたのだが、正解だった。飯福は満足げに頷くと、出来上がった出汁をボウルに移し、ラップをかける。しばらく常温で冷やした後、冷蔵庫へ。

 その間に冷蔵庫の野菜室から、きゅうりを取り出すと、小口切りにした。次いで梅肉をほぐしておく。ボウルに卵を落とし、砂糖、塩を一つまみ入れ、よく溶いた。フライパンを熱し、油を引くと、溶き卵を投入。フライパンを回し、卵液を満遍なく。火を止め、乾くのを待つ。


 その間に、冷蔵庫の中身を再び検分。もう一つくらいトッピングが欲しいのだ。冷凍庫からササミ肉を出そうか……と思ったのだが。飯福は肉の気分ではなかった。シラスが欲しい、と不意に思った。近くのスーパーまで歩いても五分とかからないのだから、買いに行くべきか。


「うーん。別にシラスだろうが鶏ササミだろうが、生死を分けるほどの大問題じゃないんだけど」


 こだわりの話。ただそれでも、この茶漬けにはシラスだ、と何となく思ってしまったのだから仕方ない。飯福は作りかけの錦糸卵だけ仕上げると、居間に戻って外套を掴むのだった。



 ◇◆◇◆

 


 ダーナーは夢を見ていた。炎道付近の暑苦しい夕刻。それに呼応するかのような悪夢だった。


「母ちゃん! どこだー!? 母ちゃん!」


 焼け落ちる家々の間を縫うように、ダーナーは走り回る。


(やめてくれ。今更こんな夢)


 どこかの家の柱が崩れ落ち、街路に倒れ込んできた。道が行き止まりになってしまった。ダーナーはそれを迂回して先へ。


「母ちゃん! 俺だー! ダーナーだ! いたら返事してくれー!」


 父を早くに亡くし、女手一つで育ててくれた母。ダーナーが14の頃に、炎道を越えて国の北西部へ引っ越して以来、ずっと共に暮らした家に彼女は居なかった。玄関に彼女のサンダルがなかったのだ。

 隣町に魚を売りに行っていたダーナーが戻ってきた時には、街ごと炎に包まれていたが、なんとか自宅に戻り、それだけは確認できた。


 つまり。彼女はどこか別の場所にいる。死んではいない。だから声の限りに呼ぶ。

 商売女に入れあげ、大金を騙し取られた時も。不漁で頭を抱えていた朝も。戦争が始まって徴兵されるかも知れないと怯える夜も。彼女はいつだって、「大丈夫」と笑って、ダーナーの傍にいた。あの笑顔を見るだけで、全ての問題は大した事のないように思えて、そして実際うまくいった。


 それが唐突に、あの絶大な安心感を失ってしまうのか。想像するだけで、目の前が真っ暗になるような心地だった。

 走る。走る。走る。

 だが、足が鉛のように重い。いつの間にか荷車を牽いている。こんなものを牽きながら走って速度が出せるワケがないのに。放り出せば待っているだろう激しい罵声を想像すると手を離せない。


(速く! 速く! じゃないと、母ちゃんが……)


 そして目の前でそれは起きた。街路に立つ母。そこに崩れ落ちてくる瓦礫の山。


「母ちゃああああああああああん!!」


 体がようやく動いた。


「はあ、はあ、はあ」


 いつの間にか夢の境を越え、現実に戻っていた。それすら一瞬、認識できず、伸ばしたままの手で虚空を掴んでいた。

 最後の映像は己の恐怖が見せた幻だ。母は今なお行方不明で、最期の瞬間には立ち会っていない。理性では分かっていても、体の芯が冷えきっていて、どうしようもなかった。


「うるっせえぞ!」


 隣の部屋から壁をドンと叩かれる音。ボロ宿に防音など望むべくもなく。


「くそっ」


 悪態をついて、ベッドから起き上がる。共用の水場へ行き、裸になると、青のマナタイト(一勤務に一つだけ組合から支給される)を使って汗を流した。

 と、鐘が鳴る。八回。空は暗いので、午後の八時と知れた。


「腹……減ったな」

 

 言葉に応じるように腹の虫が「ぐうう」と鳴いた。


 ………………

 …………

 ……


 あらゆる栄養が足りていない。作業中、塩と水だけはマメに摂取していたが、それも汗でほとんど流れてしまった。そしてそれ以外は悲惨な状態。手っ取り早く、そして美味く、サッパリしていて、様々な栄養を一度に摂れたなら……理想だろうが、そんな高尚な料理が、こんな安宿街にあるハズもない。


「パンに肉と野菜を挟んだもの、くらいかな」


 塩味一辺倒なので完全に飽きているが。そしてどこで食べてもほぼ一緒の味である。なら最寄りの店に入ろうと、宿を出てすぐ右に折れた。食べ物の屋台が立ち並ぶ、代り映えのしない通りに、しかし一軒だけ見慣れない屋台があった。何故かそこだけ、人が居ない。


「……んん?」


 ポツンと奥まった所にあるから。とは思うが、通行人の様子は、あの屋台の存在を認識すらしていないように見受けられるのだ。視線が行って興味を失う、ではなく、すぐ近くを通っているのに誰も視線が向かないのだ。


 興味を惹かれたダーナーは、フラフラとその屋台に近づいていく。近くで見れば、やはり珍妙だ。四本立った柱の上に屋根を乗せ、そこから非常に品質の良い赤い布を四枚垂らしている。文字が書いてあるが読めない。ダーナー自身に識字能力がないから、というのもあるが、どうにも異国の文字に見える。


「いらっしゃい。八時回ってるから、もうお客さんは来ないのかと思ってたよ」


 いつの間にか、青年が一人。その姿には後光が差している。後ろに謎の光源があるようだ。


「うおっ!?」


 驚いたダーナーが飛び上がる。光を背負った黒髪黒目の男。怪しいを通り越して、超存在かと疑ってしまう。


「神か何か……か?」


 ダーナーは信仰が薄い。苦難の中にあって、それが役に立った試しがないからだろう。


「……ただのしがない料理人だよ。異世界屋台・一期一会の店主をやってる」


「いせかい……いちご」


「イチゴは出せんぞ。今日のメニューはシラスの冷やし茶漬けだ」


 店主が品を告げるや、ダーナーの目が輝いた。


「シラス……あの、魚のか!?」


「なるほど。シラスはあるんだな」


「え?」


「あ、いや。何でもない。たぶん、アンタが考えてるのと同じ物だと思うよ。透明で小さな魚だろう? 茹でると白くなる」


「ああ! そう、それだ!」


 まだ漁師だった頃、よく獲っていた。懐かしい、と目を細めるダーナー。


「一杯、銅貨七枚でどうだい?」


「や、安いな。ちゃづけってのが何なのかは分からないが、シラスがあるならハズレはねえだろ。一杯くれ」


「あいよ。今、水を持ってくるから」


 そう告げると、青年はダーナーに背を向け、光の中へ迷わず飛び込んだ。


「あ、お、おい!?」

 

 ダーナーは思わず立ち上がるが。


「いねえ……」


 店主の姿が消えていた。本当に神か何かではないか、と疑い始めたと同時、戻ってくる。手には水の入ったグラス。提供台に置くと、


「次は料理を持ってくるから、少し待っていてくれ」


 また光の中へ。ダーナーは手庇を作りながら、出された水を恐る恐る飲んでみる。


「う、うめえ……こんな美味い水、初めて飲んだかもしれねえ」


 雑味や臭みが全くない。それにやけに冷たい。光の中へ出入りするギフトといい、理解を超えていた。


「おまち」


 店主が戻ってきた。速い、美味い、サッパリ、色んな栄養。ここら辺がダーナーが高望みしていたものだが、一つ(速い)はクリアしてしまった。


 提供台に置かれたトレー。テカテカと表面が光る黒いそれに、乗せられている椀の中身は……


「ライス、か。その上に……シラス!」


「お客さん好きだね」


「おう。けどそれ以外にも沢山。この黄色いのは卵か? 赤い果肉みたいなのは? 緑の野菜も、あまり見慣れない物だな」


 興味津々、という感じだ。店主は敢えて答えず、手に持った(どこぞの貴族が使うような)陶器のポットを傾け、椀に中身を注ぐ。やや茶色がかった透明の水。


「あ、おい! 川の水じゃねえだろうな」


「冗談。嗅いでみろ」


 言われ、ダーナーは鼻をひくつかせる。途端、嗅いだことのない芳香に胃を強烈に刺激される。甘いような辛いような、形容しがたい香りだった。


「……」


「食ってみな」


 ダーナーはスプーンを持ち、そっと椀の中に入れた。ライスと、少しふやけたシラスをたっぷり乗せ、口の中に運び入れた。


「…………!?」


 瞬きも忘れて固まる。柔らかく優しい味のスープと、ホロリと崩れるライス、シラスの塩と旨味を、舌の上で踊らせていた。そしてゆっくりと噛む。ライスの甘みが増し、シラスのプチッと千切れるような歯応えも加わった。


(美味い……)


 全ての味が、体中に染み渡るようだった。嚥下する。ダーナーは次に何の具を乗せようかとスプーンを迷わせ、ハタと気付く。スープの中に謎の塊が浮いている。見たこともない透明の塊。


「これは……」


「氷だ。そうか、赤の国だと見かけないか。そうだな……小さいヤツを掬って噛んでみな」


 言われるまま、一番小さな塊を掬い、口に放り込む。途端、感じた事のないほどの冷たさに、吐き出してしまう。地面を転々と跳ねる氷とやら。


「ごほっ! げほっ!」


 もしかすると、神ではなく、お伽噺にある魔術師とやらではないか。そんなことを思いながら、店主を睨みつけようとするが……口に残る得も言われぬ清涼感に、驚きや怒りはやがて掻き消されていく。どころか、今度は少し大きめの氷をスプーンで掬い、


「……」


 口に入れた。途端、先程と同じく冷たく爽やかな水が氷から溢れ出す。湧水を閉じ込める魔術だろうか。それにしたって、ここら辺の温い湧水ではない。冷たくする魔術も重ねているのかもしれない。


「あー。自分で勧めといてなんだが、それはオマケみたいなモンだから、料理の方を食ってくれると嬉しい」


「……あ、ああ。そう、だな」


 ただこれで冷たいライスや具の秘密が、この氷にあることが分かった。

 気を取り直し、今度は細長くなった卵、緑の野菜を乗せて、ライスと共に啜った。


「んん!」


 卵の甘み、黄身と白身の僅かな弾力の違い。野菜のシャキシャキ感と瑞々しい旨味。スープの甘辛い味わいが、そこに混ざり合い、しかし喧嘩せず。


「美味い!」


 続いて謎の赤い果肉。こちらは甘いのではないかと予想しながら、ダーナーは一口啜ったが。


「!?!?!?」


 口の中を刺激が走り回る。酸っぱい。そしてやや塩辛い。グジュッとした食感も驚きだ。味を全てぶち壊された。一瞬はそう思ったのだが、スープや甘いライスと馴染んでいくにつれ……


(いや、美味いな。これも)


 むしろ皿全体で見れば、良い刺激になっている。というより、この酸っぱくて塩辛くて、それでいて微かに甘いような、複雑な味わいの果肉にハマりつつある。


 それからは茶漬けをひたすらに貪り食ったダーナー。僅か五分で平らげ、おかわりも要求。そちらも五分で完食した。こんなに食が進んだのは、いつ以来だろうか。それこそ、母と共に食べたシラス、あれくらいまで遡るのではないか。


「……美味かったよ。本当に。ああ、また食いたい」


「それはどうも。ただ残念だが、アンタとはまた会えるか分からない」


「え? また俺はこの街に来るぜ?」


「いや。俺の方が居ないんだ。この屋台は世界を旅する。明日はきっと別の国だ」


「そ、そうなのか。つくづく不思議な人だし、屋台だな……」


 言いながら、ダーナーは気持ちが沈んでいくのを感じる。折角、この地獄のような仕事の後の憩いとなりそうな店を見つけたと思ったのに、と。


「……あ、いや。本当に美味かった。銀貨一枚と銅貨四枚か」


「あいよ、確かに」


 勘定を終え、店を後にする。速さも美味さも、サッパリ感も、多様な栄養も、全て満たしてくれた完璧な料理だった。幸せに包まれた。だが。だからこそ、そこから、夜でもうだるような暑さの炎道の傍に戻ってきたと実感させられ、落差で立ち眩みを起こしてしまいそうになる。

 先に見た悪夢と真逆だ。最高の夢なら覚めなくて良かったのに、と。






 翌日の昼間に安宿を発ったダーナーは、未だに茶漬けの味を反芻しながら、組合の建物を訪ねた。復路、西側へ戻る際も、ただ戻っても仕方が無いので、こうして仕事を請ける。受付は彼の登録番号を訊ね、書類を確かめると依頼書を渡した。一度もダーナーの目を見なかった。


(……俺たちは馬以下だ)


 炎道で絶命させてしまえば、馬の方が高くつく。人の方が替えは利く。ひどい話だが、真実だった。


 帰りもロッペルと組むことになった。一方の、あの薄情な押方おしかたは、もう西側へ戻ったのか、まだ休んでいるのか。いずれにせよ、ダーナーが気にすることではなかった。


 四人揃ったので出発。荷は恐らく鉄製品だ。重い。ハズレだ。あの屋台を見付けられたことで、運を使い果たしてしまったのかも知れない。内心で悪態をつきながら、炎道に入る。


 今日は押方の方だった。隣はロッペル。謎に縁があるな、と苦笑すると、向こうも同じことを思っていたのか、ダーナーを見て似たような笑みを浮かべていた。


 三時間ほど黙々と押す。

 例の地獄坂に到達した。今日は先行も後続も居ない。のびのびと地獄を堪能できる。


(ありがたすぎて、涙が出そうだ)


 ああ、と。不意に思ってしまった。自分はあと何回これを繰り返すのだろう、と。女性不信に陥ったせいで、この歳になって嫁もいない。趣味もない。生きがいもない。どうせ40を回る頃には、こんな仕事できるワケがない。そう考えれば、あと数年の命だろうか。


(みじめったらしく生きて、なんになるんだろう)


 久しぶりに母との思い出の魚、シラスも食べられた。この世の物とは思えない美味さの料理だった。


(ああ、そうか。アレはみじめな俺に神が与えてくれた最後の贅沢だったのか)


 天を見上げる。クソみたいな人生だったし、神などいないと内心ではずっと思っていた。だが、本当はいたのかも知れない。ダーナーはそんなことを考え、感謝の祈りを捧げた。

 それが終わると同時。硬い物が、カツンカツンと地面を打つ音が聞こえてきた。


「よおし! 下りだから慎重にな。危ないと思えば離れろよ!」


 ロッペルが牽方ひきかたに指示を飛ばしている。復路は逆に坂を下る格好になるため、引くのと押すのも役割が逆になる。

 だが、ダーナーはロッペルの声がどこか遠く聞こえていた。


 ――カツン、カツン


 振り返る。振り返ってしまった。骸骨の行列が炎の道を縦に移動していた。横断でも死にそうなのに、縦断など生きている者に出来るハズもない。そこに加わるということは、自分も死者になるということに他ならない。


「……」


 目から光が消えたダーナーは、ゆっくりとその列に加わる。カツンという音を立てているのは、彼の母の杖だ。見間違うハズもない。杖の中頃についた傷も、持ちすぎて黒くなった天辺も。


(母ちゃん。ここに居たのか……探したよ)


 行列を進んでいく。一人抜かし、また一人。


 父の死後、機織はたおりの仕事に就いた母は、足と腰を使い過ぎたせいか、歳追うごとに、下半身が弱くなっていった。杖は、ダーナーが初めての漁で売り上げたカネで買った。涙を流して喜んでくれたのを、彼は今でも覚えている。


 ――カツン、カツン


 母が作った、ライスの上にシラスを乗せて塩をまぶした夕飯。正直に言えば、昨日食べた物と比べると雲泥の差だ。だが、それでも。美味かった。自分が獲ってきた魚で母を笑顔にしている。その誇りが飯を何倍も美味くした。


(母ちゃん、ごめんな。ごめんな。熱かったよな。炎道なんて比べ物にならないくらい)


 一人抜かした。また一人。もうすぐそこ。手を伸ばせば。


(ごめんな。母ちゃん。守ってやれなくて、ごめんな。あんなに守ってくれたのに、俺は……)


 最後の一人を抜かし、母の骸、その肩に手を置いた。


「母ちゃん。俺も一緒に行くよ。もう一人にしないよ」


 振り返った母の骸は、しかし肉付きがあった。生前と同じ顔をしていた。こけた頬と白髪の多い髪。それでも笑うと目が細くなって、その優しい笑顔が大好きだった。最期にそれが見られた。魔術か神の奇跡か知らないが、ダーナーは感謝の気持ちで一杯だった。

 だが、母はその笑顔を、寂しげなものに変えた。幼い頃、父が居ないことを母に八つ当たりしてしまった時も、こんな顔をしていた。


「……」


 首を横に振った母は、


 ――トン


 ダーナーの肩を押した。それだけで大の男が引っくり返るようにして、地面に尻餅をついた。


「え?」


 そして、気付いた時には、骸骨の行列はどこにも居なかった。


「おい!」


「え?」


「なにをボーッとしてんだ!? 速度が出すぎてる! もっと車にしがみついて、減速させろ!」


 ロッペルの怒号。頭の整理がつかないまま、それでも染み付いた習慣が体を動かす。言われた通り、荷車にしがみついて、靴の裏が摩擦で焼けるほどに踏ん張り、速度を落とす。


「「「「ぐおおおおお!」」」」


 全員のうめき声が響き渡った。ゆっくり、ゆっくり地獄坂を下りていく。


『元気でね』


 誰かの声を聞いたような気がするが……ダーナーは振り返らなかった。


 ………………

 …………

 ……


 お疲れ、と労い合い、ダーナーはロッペルと別れた。相変わらずドライな間柄。だが、少なくとも今日はありがたい。あの坂での数瞬、彼方側あちらがわへ行きかけていたことを詮索されずに済んだ。


「……」


 報酬を受け取り、ダーナーも組合の建物を出る。西側のこの都市は、彼の現住所だ。そして母と暮らし、戦火に焼かれた街の跡地とも距離が近い。

 もし彼女が見つかった時、いちはやく情報を得るため。そしてもう一度、共に暮らすため。離れられずにいた。


「だけど」


 生きろと、きっと母は最期に伝えに来てくれたのだ。

 ぽた、ぽた、と。地面に水滴が落ちる。路地に誰もいなくて良かった、とダーナーは思う。


「母ちゃん……母ちゃん……」


 うずくまり、建物の壁に身を預けるようにして泣いた。きっと一生分、泣いた。


 30分か、あるいは一時間か。鐘の音も恐らく気付かなかっただろうから、正確な時間は分からないが、泣き腫らした目でダーナーは立ち上がった。

 七年。もう前に進まなくてはいけない。母はきっと天国で待ってくれている。天国だ、地獄だ、などと。神を信じなかった自分が、随分な変わりようだと自嘲するが。


「もう一回、漁をしよう」


 黒の国の干渉のない南部に移住して、漁を始めよう。何が獲れるかも知らない。だがきっと、美味い魚がいるハズだ。無根拠にそう思えた。少しワクワクしていた。


 生きよう。生き抜こう。母が天国で待ってくれているのなら、自分も己の生を全うし、天国へ行けるよう。そして再会したら、南で獲れた魚で、また一緒に飯を食べるのだ。出来ればそれは、思い出のシラスが良いな、と。そう願いながら。


 ダーナーは歩き出した。

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