8:善哉(黒の国・第4の都市)

「オマエさん、やっぱり才能無いよ」


 工房長の言葉に、ジェロル・ミオングは項垂れた。この工房に入って、約一年。師は彼女に非情であり優しい通告をした。ジェロルはまだ19歳。やり直しが効くうちに、突き放してやるのが彼女のためである。そして同時に、役に立たない者を置いておくことは出来ないという、長としての非情だが合理的な判断でもあった。


「明後日までに荷物をまとめておけ」


「……」


「次の仕事がないなら、俺の方でも……」


「いえ。ありがとうございました」


 それだけ言って、ジェロルは工房長に背を向けた。振り返ると縋ってしまいそうで、涙を堪えながら、早歩きに工房を出ていく。その彼女に、嘲笑を向ける者、同情的な視線を向ける者。

 どちらにも目もくれず、ジェロルは最後はもう半ば走るように、工房の敷地を抜けて行った。


 ………………

 …………

 ……


 今から15年前。黒の国の南部で巨大な赤のマナタイト鉱脈が見つかった。寒冷地ゆえ、木炭は貴重、赤のマナタイトも輸入に頼っていた黒の国だったが、この発見により火の確保が容易となった。

 かねてより石炭資源は豊富だった同国だが、火力が足りず持て余していた。それが、問題が一気に解決、石炭を使った新たな基幹産業確立への機運が高まることとなる。


 そして今から八年ほど前に、石炭を蒸し焼きにして炭素だけを残す技術が完成。それらはすぐに、製鉄に使われるようになった。

 結果、鉄工業が栄え、国力は飛躍的に向上した。そして需要の下がった海外産の赤のマナタイトに関税をかけるようになったのだが、これが赤の国との戦争の引き金となった。

 戦禍は苛烈を極め……やがて黒の国の勝利で幕を閉じた。くだんの関税策は両国間で認められ、しかし黒の国の鉄工品に、赤の国側は関税をかけることは許されないという不平等条約のもと、和平が成されたのだった。


 今、黒の国は成長著しい。飛ぶ鳥を落とす勢いだ。産業はどんどん伸び、人口も増えてきた。鉄の家を作る技術が完成すれば、冬の寒さで凍死する人間も減るだろう。未来は希望と光に満ちている。


「……なのに、私はお先真っ暗」


 鋳型職人いがたしょくにんの道を志し、初めて工房へと飛び込んだのが15の春。そこから二度の解雇を受け、ようやく入れた三つ目の工房も、今まさにクビを宣告されてしまった。


 中等学校の社会科見学で鋳型と、そこに流し込まれる赤橙色の鉄に、すっかり魅了されてしまったのがキッカケだった。自分もあれをやりたい、と子供心にワクワク、ウズウズしたのをジェロルは覚えている。

 だが今、その原初の熱が急激に冷えていくのを自覚していた。才能がない。言われなくとも、誰より自分が分かっていた。後から入った少年の方が良い物を作る。それとなく雑用のような仕事を任される比率が日に日に増してくる。


「……」


 思い起こせば、もう今の職場の後半くらいからは、半分諦めながら仕事をしていたような気がする。いや、仕事になっていると思っていたのは自分だけで、周囲から見ればただのお荷物だったのやも。そんな卑屈な思考まで、ジェロルの脳内を駆け巡るのだ。


 足を止めず、通りを歩く。道の両側には黒い外壁に少しだけ灰色の混じった家々が建ち並ぶ。

 黒いレンガを組んで、石灰を焼いて砂と混ぜたドロドロな液状物質、モールタールと呼ばれる物を塗装して、隙間を埋め、寒さ対策をした家屋だ。ここ第4のような都会の都市(もちろん第3~首都もそうだが)の家屋は、こういう造りの物が多い。この建築技術もまた、自国の誇れる産業である。自分とは縁遠いが。


(……どうしようかな、仕事)


 夢破れたことも辛いが、同時に生業なりわいも失ったワケだから、そっちの心配も当然捨て置けない。というより、喫緊の問題である。夢が叶おうが破れようが、飯は食わないと生きていけないのだから。


 工房長が他の仕事の口利きを提案してくれる雰囲気だったが……感情任せに飛び出すのではなく、話くらい聞いておくべきだった。いや、だが。工房長の口利きなら、同じ技術職だろう。ならそこに入れたところで、みじめな想いをしてまたクビになるだけか。

 はあ、とジェロルの口から大きな溜息が出る。


(人生のドン底って感じ)


 いよいよ悄然しょうぜんとしたジェロル。前をよく見ていなかった。

 ハッと気付いた時には、その青年は、彼女の目の前まで来ていた。走っていたのだろう、かなり勢いがついていた。


 ――ドン!!


 正面衝突。体格で劣るジェロルの方が引っくり返り、尻餅をついてしまう。青年の方も彼女に覆いかぶさらないように避けながらも、斜め前方に倒れ込んだ。


「い、いたた」


 今日はどこまでツイていないのか。怒鳴りつけてやろうかと、青年を見ると……気の弱そうな面差しに、申し訳なさそうな表情を浮かべている。何か言う前に、


「ご、ごめん! 前方不注意だった。大丈夫?」


 キッチリと謝ってくるので、ジェロルもそれ以上、責め立てるような言葉が出てこなかった。


「う、うん……というか、私も前、全然見てなかったし」


 実際、考え事をしながら歩いていた自分も悪いと、今更ながらに反省するジェロル。

 と、そこで。青年の傍に落ちているカバンから、コロコロと何かが転がり出ているのに気付いた。金属製の角柱のように見える。


「……それ、なに?」


 ジェロルが指さす先に視線をやった青年は、自分のカバンの惨状に気付く。口を縦に細長く開いて、青ざめた。彼はすぐさま地べたを這うように進んで、角柱を搔き集める。そして一つ一つ、角柱の先っぽを確認しては安堵する。そんなことを繰り返していた。


 ジェロルは自分の近くに転がってきていた一つを手に取り、彼と同じように角柱の先を見た。そこには文字が彫られていた。ただし鏡で見るように左右反対。


「これは……?」


「活字だよ。ああ、すまないけど急いでるんだ。こっちに貰えるかな」


「え、う、うん」


 活字と呼ばれた謎の角柱を、青年に渡す。彼は受け取ると「ありがとう」と返し、すっくと立ち上がった。そしてジェロルの方に手を伸ばし、助け起こす。最後に拾いそびれた物がないか、周囲を改めて確認し終えると、


「それじゃあ、僕はこれで。本当にごめんね」


 青年は駆け去ろうとする。

 ジェロルは咄嗟に……彼の服の裾を掴んでいた。自分でも制御不能な行動だった。何故こんなことを、と自分で自分に問いかけるが、明確な答えは浮かんでこない。ただ何となく、この青年があの角柱をどうするのか、それが知りたかったのではないか、と。そう結論づけた。


「わ、私もついて行っていい?」


「え!? ど、どういうこと?」


 青年の疑問は当然のものだった。彼としては、ぶつかった負い目はあるが、前方不注意はお互い様。謝って許されたし、もうそこまでの関係である。私事に首を突っ込まれる謂れはない。


「なんか……なんかね。気になるの」


「えっと?」


「それ、どうやって使うのかなって」


 ジェロルがそう告げると、青年は少し驚いた後、ニコリと嬉しそうに笑った。


「キミも印刷に興味があるの?」


「印刷……」


 もちろん、ジェロルも印刷自体は知ってはいるが、それがどういう形で行われるのかまでは知らない。だがどうやら、さっきの角柱は印刷業で使う物らしいということは窺い知れた。


「なんだったら見に来るかい?」


「え? 良いの?」


「うん。こうして出会って、ぶつかったのもセレス様のお導きかも知れないしね」


 そんなお導きがあるだろうか、とジェロルは苦笑するが、とにかく見せてもらえるのなら、お願いしよう、と。どうせ彼女は今日から無職、時間ならたっぷりあるのだから。


 




 道すがら、互いに自己紹介を済ませる。青年はエヴァードと名乗った。歳はジェロルの三つ上。割と童顔なので、同い年くらいかとジェロルは踏んでいたが、年上だった。


 いわゆる『鉄成金てつなりきん』と言われるような、ここ数年で急成長した家の次男とのこと。元々、炉を持っていたのが、八年前からの製鉄技術の飛躍的発展に伴い、需要の波を掴んだのだ。こういう家は、この国には幾つかある。


「家は兄さんが継いでくれるから、僕は自由にやりたいこと、やらせてもらえるんだよね」


 羨ましい、とジェロルは素直に思った。だがすぐに気付く。長年の夢が潰えたばかり、今、自分には彼の言う「やりたいこと」自体がない。羨む以前の話である、と。

 それに彼女の家も平均以上ではある。手堅く家業を継いで、隙間時間にやりたいことをやる、という選択肢だってあるのだ。やりたかったことが、片手間では出来ないような性質だったから、工房に飛び込んだだけの話。それすらも親に少なからず援助してもらっている。エヴァードの境遇を羨む資格は、恐らく自分にはない。

 つまり……嫉妬だ。


「さあ着いたよ。ここを借りているんだ」


 ジェロルが飛び出してきた工房がある一帯、工業地帯の中にそれはあった。近辺の家屋と同じく、レンガとモールタールで組まれた小さな作業所。

 鍵を開け、エヴァードは扉を内側に押し開いた。途端、独特な匂いがする。ジェロルがあまり嗅いだことのない……


「インクだよ」


 眉間に皺を寄せている彼女に、エヴァードは答えを言った。


「へえ、こういう匂いなんだ」


 鋳造工房では、まあ確かにあまり嗅ぐ機会はないだろう。

 エヴァードは白のマナタイトが入ったランタンに向かって、


「大いなる白の女神セレス様。ご加護をお与えください」


 祈りを捧げると、パッとランタン内で白い光が灯った。作業所内を明るく照らす。

 内部の全貌が見えると、ジェロルはハッと息を飲んだ。何より目についたのは、鉄の機械だ。複雑な機構を持っているようで、一見ではどういう動きをするのか判然としない。


「アレは印刷機だよ。活字を揃えたらセットして、インクを使って紙に印刷するんだ。木と鉄を組み合わせた構造で、そして今までのプレスとは違って大した力が要らない」


 そこまで言って、自虐的に笑ったエヴァードが自身の二の腕を、もう一方の手でパンパンと叩く。


「僕のような非力な男でも扱えるのさ。たぶん、キミみたいな女の子でも」


 確かにエヴァードは線が細い。気弱そうな面差しと相まって、雄々しさとはかけ離れた印象だ。もしかすると工房勤めの長かったジェロルの方がまだしも筋力があるかも知れない。


「さ。活字を棚に入れていくよ」


 機械は一旦、置いておいて、エヴァードは壁際へ。そこには木製の棚がしつらえてあった。そこそこの大きさで、横長の長方形。台座で嵩上げされている。しゃがむことなく、横の移動で棚に角柱を入れていく。


「えっと。それは……」


「僕も実際にやるのは初めてなんだけど、この鉄の角柱を棚の所定の位置に入れておくんだ。そして一つずつ拾っていって、連ねて文章を作る。それを型にして、インクで紙に印刷する。終わるとまた角柱を元の棚へ戻す」


 その繰り返しで文章をどんどん作っていくということらしい。


「なるほど。鋳型みたいだけど、中に流し込むのはインク」


「そういうことだね」


 中々に興味深く、ジェロルは目を輝かせた。


「やってみたい」


「あはは。まずは角柱をセットしないと。手伝ってくれる?」


「うん!」


 胸の内にワクワクが湧き上がっていた。不思議な感覚だった。あの、中等学校生の頃に初めて見た鋳型工房の時と同じ。その夢が破れたばかりだというのに、一日も経たずに、新しいワクワクに出会えるなんて。或いは自分は薄情なのか、とも思ったが。


「ほら、早く」


 優しく笑いながら、それでも自分以上にワクワクを抑えきれていないエヴァードを見ていると、胸の内からコンコンと力が漲るのは、止めようもなかった。


 棚に全て納めると、今度は活字拾いという作業をやることになった。納めた端から、逆に取り出すなんて非効率なのでは、とジェロルは訴えたが、


「いや、毎回、使ったら所定の位置に直すクセをつけていないと、大変なことになるみたいなんだ」


 具体的には拾い人がそれぞれ自分の好きな所に置きっぱなしになり、紛失等の実害が出てくる。結果、作業効率は逆に下がるのだ。


「そっか。自分が知らないうちに道具が別の場所に移動させられていたら」


 ジェロルも工房での作業を思い出す。確かにそれは困るし、イライラするし、非常に効率が悪い。


「だから、使って戻す、取り出して使う。この循環は必要なのさ」


 言いながらエヴァードは棚を左右にウロウロ。その手にはメモ書きのような、ボロボロの紙が何枚も握られている。それを時々、確かめながら活字を拾っていくのだ。あの紙に書かれている文章を構成しようとしているのは明白で。


「ねえ、それって何なの?」


「え!? あ、ああ。これは試験用というか。試運転用というか」


 歯切れが悪い。試し打ち、という割には熱心な様子も気になった。いや、そもそも機械の調子を試すだけなら、テキトーな文字の羅列でも問題ないハズ。


「ほんとぅ? 怪しいな。ちょっと見せてみてよ」


「ええ!? ダメ、ダメだよ」


 ますます怪しい。ジェロルは手を伸ばして、エヴァードの持つ紙を引ったくろうとする。逃げるエヴァード。追いすがるジェロル。数分後、ジェロルに腕を掴まれ、奪い取られてしまったエヴァードの力負けという形で決着。


「……うう」


 観念したようだが、未だ恨みがましい目をジェロルに向けているエヴァード。だが当の彼女の方は、紙の上の文字を追いかけるのに忙しく、その視線には気付いていなかった。


 それは、小説だった。体の小さな狼が、群れの中で役に立たず居場所を失いそうになる。だがそこで一匹のメスの狼が彼を庇い、共に生きることを選んだ。二匹はタッグを組み、外敵を陽動、撹乱し、その隙をついた群れの本隊が連中を叩くという戦法を編み出し、群れに貢献し始める。

 ここまでが第一章、といったところだろうか。


「続きは!?」


 読み終えたジェロルの第一声がそれだった。エヴァードは驚き、肩を跳ねさせる。


「ま、まだだよ。骨組みは考えてあるけど、文章にはしてない」


「す、すぐ書くべきだよ! これ、すっごく面白いよ!」


 息せき切って、ジェロルは紙束をバサバサする。体全体を使って、言葉が嘘ではないことを示していた。


「……そんなに喜んでくれるなんて」


「え?」


「いや。実はそれ、兄にも見せたんだ。そしたら、趣味も良いけど、勉強も頑張りなよって。将来、ウチの家業も安泰じゃなくなるかも知れない。その時に備えておきなさいって」


「……」


「兄さんは、いつも正しい。だけど僕はそれが時々、息苦しくなるんだ」


 なんとなく、ジェロルにも気持ちは分かる。彼女の両親も、二度目に工房をクビになった時に、他の道を探せと散々言ったものだ。反発して三度目の正直に賭けたが、結局、親の言うことが正しくて、夢を諦めることになったのだから、それが余計やるせない。


「でも……こんなに楽しんでくれる人が居るんだって思うと……うん、すごく、すごく嬉しいよ」


 やや涙声になっている。


「ありがとう」


 泣き笑いのような笑顔。それを見た瞬間、ジェロルは胸の奥をきゅうと摘ままれたかのように、疼くような痛むような不思議な感覚に襲われた。


(???)


 人生で初めての体験。胸の病気じゃなければ良いけど、と軽く心配になるが。

 目元を軽く擦り、エヴァードが再びすっくと立ちあがる。


「じゃあ最初の数行、まずは印刷してみよう。また手伝ってくれる?」


「う、うん」


 不自然な動悸を押さえながら、ジェロルは人生初の活字拾いに挑戦し始めた。

 

 ………………

 …………

 ……


 拾った活字の列を金属の板で囲むようにして、最後に締め木を上下に配する。下側の締め木に沿うように金属の締め具を乗せ、その穴に鍵のような物を挿し入れて回した。それで締め木が締まり、活字列が固定される。


「よし、これで大丈夫なハズ」


 インクの入ったビンと、出来上がった組版を持って、いざ印刷機へ。版盤に組版をセットし、機械の上部についた鉄の丸板、そこにインクを点線状に塗布する。

 足元のペダルを踏むと、鉄の棒をつけたローラーがその円形のインク台の上を転がる。棒の表面にインクが移り、台の上にも満遍なく残りのインクが伸びた。


 レバーを引くと、ゆっくりと版盤と圧盤が合わさる。その状態でペダルを踏むと、下りてきたローラー部が版にインクを塗りつける。振り子のようにローラー部が上にあがるのと同時、手前側の紙をセットした木台が前へ。版盤とくっつき、紙に文字を印字する。


「お、おおっ!!」


 複雑な機構が画一的な動きを生み出す様子を見て、ジェロルが口を大きく開けて感嘆の声を漏らした。

 そして不意に気付く。自分は鋳型のその先、出来上がった同一規格の金属部品を組み合わせて何を作り、そしてそれが何を成すのかを全く知らなかった。恐らくこの活版印刷機にも、彼女が所属していた工房ないし同業他社の製品が使われているハズなのに。


 隣のエヴァードを見る。子供のように目を輝かせ、出来上がった試し刷りの紙を天に掲げている。まるで六色の神々にご照覧あれとでも言わんばかりに。

 自分が所属していた業界が作った物が、こうして人を喜ばせる。胸を張って自分の仕事だと言えたら、なお良かったのに。悔しい。ジェロルは素直にそう思った。


 ――だが次の瞬間、彼女の人生が大きく変わる。


「ジェロル、もし良かったらさ。僕の印刷を手伝ってくれないかな。僕の小説はさておき、世界の学術書や稀覯本きこうぼんを、なるだけ印刷するんだ。そしてそれを多くの人に届けて、知る喜びを、読む楽しさを分かち合いたいんだ」


「え?」


「そのためには人手が要る。キミのギフトはもしかして、集中力に関連するヤツじゃないのかい? さっき活字を拾っている時、物凄い集中力だったよ」


「ええ!?」


 言い当てられたことは人生の中で一度たりともない。『集中持続しゅうちゅうじぞく』のギフト。目に見えないし、効果も分かりにくい。親ですら、もしかしたら自分たちの娘は無能力ではないかと疑う事すらあった。最近になって「集中力」という概念が心理学者たちによって唱えられているが、まだまだ一般への浸透とは程遠い。


「なんでそんなこと知ってるの!?」


 そう訊ねると、エヴァードは自分の持つ試し刷りの紙をヒラヒラと得意げに振った。


「本さ。本は沢山のことを教えてくれるんだ。経験したことのない事柄でも、見たことのない景色でも」


 ジェロルは揺れる紙には目もくれず、熱をこめて話すエヴァードの瞳に吸い寄せられていた。夢、自分は失ってしまったけど、


「だからそんな本の魅力を沢山沢山、届けたいんだ。だから手伝って欲しい。キミのような優秀な人が仲間になってくれるなら、こんなに心強いことはないよ」


 この人となら、もう一度。いや違う、自分がこの人と同じ夢を見たいのだ。自分の人生の中でこれほど評価を受けたことも、能力を乞われたこともなかった。

 使いたい。自分の力を、自分の全身全霊を。彼のために。これも人生で初めての感情で、だけどアッサリとその正体に気付いてしまった。ドクドクと早鐘を打つ胸の鼓動。顔が熱病のように火照っている。

 こんなにも突然。出会って一日も経っていないのに。そうは理性が思っても、心は待ってはくれないのだった。






 12月に入った。寒冷地である黒の国の冬は厳しい。朝早くに起きて、印刷工房へ向かうジェロルは、しかし寒さを吹き飛ばすほどの熱を内に秘めていた。夢に向かって進んでいる実感。思えば鋳型工房を転々としていた間は、ただ藻掻いているだけで前に進んではいなかった。


 だが今は違う。自分の『集中持続』のギフトが、人より遥かに速く目的の活字を探し当て、拾う。それをエヴァードが版に組んで印刷すれば、文字の世界が創造される。二人の共同作業。役に立っている、喜んでもらえている。その実感は、何物にも代えがたい、人生の潤いだった。

 しかもそれに、


「おはよう、ジェロル。今日もよろしくね」


 想い人の笑顔がついてくるのだから、冬でも春のようだった。

 

「うん。今日も頑張ろう。あと少しで完成だもんね」


 黒の国の歴史を紡いだ『黒国年代史こっこくねんだいし』、それがあと数十ページ分だ。一両日中にあがるだろう。取り敢えず500部。完成したら、上流階級の子女に売るのだ。既に上巻は300部売り上げ、工房の経営も黒字。どころか追加で上巻400部&現在編纂、印刷中の下巻も500部の発注が飛んできているのだ。


 エヴァードがこれに味を占めて利益優先に傾いたら、とジェロルは少し心配したが。「これで趣味全開の物がコケても倒産しないだけの蓄えが出来たね」などと言ってのけるあたり、彼は何も変わっていなかった。そのことにジェロルは大きく安堵したのを覚えている。


 一日があっという間に過ぎる。午後の18時。もう日はドップリ沈み、辺りには夜の帳が下りていた。製本スタッフたちも帰り、エヴァードと二人きり。ジェロルはそのチャンスを逃さず、


「何か食べに行かない?」


 そう提案した。今までも二人で昼食に行くことはあったが、夕飯は初だった。


「うん、良いよ。今日は一段と寒いし、夜が更ける前に行こう」


 作業所の暖炉の火を落とし、外套を羽織って出かける二人。やや早足。あまり暗くなると、どこも店を閉めてしまうのだ。選択肢は刻一刻と狭まっている。


「シチューかな」


「そうだね。あったまるなら」


 同意しながらも、エヴァードは気乗りしなさそうな声音。近々で食べたのかもしれない。

 何か。何か、他にないだろうか。そう願うが、黒の国の食文化は厳しい気候のせいもあり、やや貧弱だ。それに加え、食べられれば毎日のように同じ物でも気にしない人が多数派、という国民性もある。


 と。パアッと光が放たれる場所を見つけた。白のマナタイトを大量に使っているのだろうか。照明を惜しまずに営業する店、さぞ儲かっているのだろう。

 隣のエヴァードと頷き合うジェロル。行ってみよう、と。


 手庇てひさしを作りながら、光の放たれる場所へ一歩一歩進んでいく。だがそこで、唐突に光が消えた。突然暗くなったため、一瞬目が追いつかない。そうこうしているうち、再び光。だが今度は弱々しい光量だ。赤いミノムシのような物が吊るされる、珍しい形の木組み。光はそのミノムシから放たれているようだ。


「な、なんだろう。黒の神・ビズス様のお戯れか」


 黒の神は悪戯好きの青年で、白の神・セレスとは相性が悪い、とされている。転じて、不思議な現象を目の当たりにすると、黒の国の人々は「ビズスの戯れ」と口にする、いわば慣用句のような使われ方をしている。


「ううん。人、人がいる」


 黒髪、黒目の男。口元を上等な白い布で覆っている。不思議な男だった。否定しておいてなんだが、ジェロルは本当に超常の存在かも知れないと思い始めたが。


「いらっしゃい。今日のお客さんは二人か」


 男が人懐っこく目を細めて笑うので、急に毒気を抜かれた。口から鼻まで覆った布のせいで顔全体は分からないが、人間なのは間違いなさそうである。

 恐る恐る近づいた二人。


「えっと。その口元の布はなに?」


「マスクだ。黒の国は空気が悪いからな。公害まではいってないみたいだが」


 言いながら、軽く布をズラす。不思議な紐がついていて、引っ張って下ろして、戻すとまた同じ位置に貼りついた。すごい代物だが、やはり隠された部分の顔も人間のそれだったので、二人は安心する。


「ますく? こうがい?」


「ああ。工業化の弊害みたいなモンだな。っとと……そんな話は良いんだよ。異世界屋台・一期一会にようこそ。今日のメニューは善哉ぜんざいだがどうするね?」


 更に知らない単語で畳みかけられ、ジェロルは混乱する。代わりにエヴァードが訊ねた。


「よく分からないけど、食べ物を提供する屋台ってことで大丈夫だよね?」


 店主が頷くが、ジェロルは首を傾げた。


「やたい?」


「うん。青の国が一番盛んかな。こういう木で組んだ移動式店舗を屋台っていうんだ」


 黒の国にはない販売形式だ。寒冷地ゆえ、吹き晒しのスタイルは流行らないだろうな、とジェロルは思う。


「ぜんざい、っていうのは知らないけど」


「まあ少し待ってな。ご夫婦には打ってつけの盛り付け方があるんだ」


 それだけ言い残して、店主は踵を返す。夫婦、という言葉に素っ頓狂な声をあげかけたジェロルだが、更に衝撃的な光景に逆に言葉が喉の奥に引っ込んでしまう。


「っ!?」


 店主が何もない空間に踏み出したかと思うと、突如、長四角(ちょうど活字の角柱を納めている棚くらい)の光が発生したのだ。そしてそこにスッポリと吸い込まれる店主の男。二人は口をあんぐり開けている。


「…………これは」


「マレビト様かも知れない」


 人間には違いなさそうだが、この世界の規格に収まるようにも思えない。


「そう言えば、異世界屋台って」


「あ! 確かに。色々ありすぎて聞き流してたけど」


 二人、顔を見合わせる。


「け、敬語を使った方が良いのかな?」


「でも別に全く気に障った感じはなかったけど」


 態度を決めかねているうちに、店主はすぐに戻って来てしまった。非礼を謝るべきかとジェロルが紡いだ、その思考は、圧倒的な甘い匂いで掻き消される。

 男は裏側が黒、表側が赤のトレーを持っていた。そしてその上に同じく外側が黒、内側が赤の椀を二つ乗せている。椀の中には黒いドロッとした半液状の何かと、そこから顔を出す丸っこくて白い何か。


「……」


 普通なら黒い半液状の物など、食欲をそそられようもないのだが。そこから、蕩けるような甘い香りが漂っているのだから、度し難い。


「夫婦善哉だ。椀同士が寄り添っている様が可愛らしいと、ウチの世界の女性に人気だそうだ。知らんけど」


 夫婦。先ほども否定しそびれたが、もうその前提で料理を出されてしまったようだ。二人、またも顔を見合わせる。思えば、こういう息の合った様子が、夫婦の誤解を生むのかも知れない。


「い、頂こうか」


「うん。どんな味がするんだろう」


 匂いは間違いなく美味そうだが。

 二人、これまた息の合ったタイミングで木のスプーンを持つ。椀の中に突っ込むと、小さな白い玉を掬い上げた。黒いエキスも一緒に入っているようで、少し怖がる。


「豆を煮た汁みたいなものだよ。泥とかじゃないから安心して啜ってくれ。あ、熱いから少しずつな」


 そういうことなら、と。目で合図をしたエヴァードが先に口に含む。途端、目玉が飛び出るくらい驚いていた。マズいのか、と心配しかけるが、それより先にもう一口啜り始めるので逆と知る。


「甘くて、あったかい。美味しい。なんだこれ。僕が知るどんな食べ物とも似ていない」


 そして白くて丸い物を、恐る恐る半分ほど齧る。


「小さい白玉だから大丈夫だと思うけど、慌てて食って喉に詰まらせるなよ」


 店主の忠告を聞き、エヴァードは慎重に咀嚼して飲み込んだ。またも目を見開き、口が半開きになる。


「お、美味しいの?」


 コクコクと頷きが返ってくる。

 ジェロルもそこでようやく、スプーンの中の汁をまずは一口。


(!?!?)


 ドロリとした食感が舌に残るが、それは甘さとコクを多分に含んでいた。かすかに残る豆の皮を噛むと、そこからも甘い汁が溢れ出てくる。白玉とやらも掬って、エヴァードに倣い半分齧ってみた。

 柔らかいのに歯を包み込むような食感。それ自体もほんのり甘いが、先ほどの汁を吸わせると甘さの二重層が完成する。淡い甘さの部分と濃い甘さの部分。一口でどちらも味わえるのは、なんと贅沢なことか。


「はふ、はふ、はふ」


 隣を見ると(椀が近いので、想像以上にエヴァードと顔の距離が近かった)、白い息を吐きながら、熱い汁を掬っては飲んでいる姿。


「あ」


 目が合ってしまった。いつの間にか肩も触れ合っていて。


「~~~」


 恥ずかしいのに、体を離す気にはならない。すると、エヴァードの方も同じく肩を離さず、それどころか、更にそっと身を寄せてきた。


「ト、トレーが小さいから……」


 真っ赤になって言い訳するエヴァード。恐らくだが自分も同じような顔をしているだろう、とジェロルは自覚している。


 甘い甘い食事を、二人たっぷりと堪能した。


 ………………

 …………

 ……


「美味しかった。こんなの初めて食べた。甘くて、柔らかくて」


「うん。僕も。甘い物はそんなに好きじゃない方なのに、これだったら何杯でも食べれそうだよ」


 店主に素直な感想を伝える二人。


「そいつは良かった。お勘定を良いかい?」


「あ……そうだった」


「あの。もしかすると足りないかも」


 こんなに不思議で珍しい、或いはこの世界の誰も食べたことがないのではないかという料理。べらぼうに高いのでは、と今更になって思い至った二人。だが、


「銀貨一枚と銅貨四枚だね」


「へ?」


「そ、そんなに安くて良いの……良いんですか?」


「うん。一杯700円。まあまあ貰ってるよ」


 男はあっけらかんと言う。割安ですらない模様だ。二人とも再び黒の神のイタズラを疑いたくなる。


「あ、そうだ」


「え!? な、なんですか?」


「やっぱり数え間違えてた、とか?」


「いやいや。そうじゃなくてね。良かったら冷やし善哉もあるけど、買ってくかい?陶器の皿に入れて、紙の蓋をしてあげるよ。小さいから、そうだな……二つで銅貨七枚でどうだ?」


「あ、お、お願いします」


「決まりだな。ちょいと待っててな」


 そう言ってまた不思議な長方形の中に入っていく。出入りしてしばらくすると発光は収まるようだが、また使用すると光るらしい。眩しくて、二人は両目の上に腕を掲げた。


 すぐに戻ってきた店主。言葉通り、小さな陶のカップを二つ持っていた。その上に、厚い紙をカポッと嵌めるように乗せている。


「んじゃあ〆て、銀貨二枚と、銅貨一枚ね」


「え、ええ。どうぞ」


 エヴァードが巾着から、言われた額を出す。


「はい確かに。じゃあお幸せにね」


 優しそうな笑み。マスクとやらの下も笑んでいるのだろう。そんな店主に見送られ、二人は不思議な屋台を後にした。






 夜食まで買ってしまったので、折角だからもう少しやろうか、と。二人、工房に戻った。冷やし善哉とは言っていたが、片方は冷たいまま置いておいて、もう一方は暖炉の傍に置いた。やはり先程のアツアツの善哉が忘れられない。


 二人は時間を忘れて活字を拾い、印刷機を回した。

 既に『黒国年代史』の下巻分は完成している。だから今は、完全に別案件。今日の不思議な屋台のことを新聞にしてみて、それを表面おもてめんに刷って……裏面には、あの狼の小説を少しだけ載せてみよう。ジェロルがそんな提案をしたのだ。

 

「悪いね、手伝わせちゃって」


「逆、逆。私が読みたいんだよ、ちゃんとした活字で。そして皆にも読んで欲しいんだ。こんなに面白いんだから」


 それで、想い人に自信をつけて欲しい。アナタは素敵な作家なんだと。


 拾う。版を作る。盤にセットする。刷る。バラす。戻す。次の文章へ。拾う。版を作る。盤にセットする。刷る。バラす。戻す。次の文章へ。


「……」


「……」


 やがて二人、無になる。本を作るための二人で一つの生物のように、考えず、思わず。まさに機械のようだ、とジェロルは一度だけ考えたが。


 窓の外が徐々に白んできた。と、同時。


「お、終わったー!!」

「完成ー!!」


 二人同時に歓声をあげる。そして同時に床の上にパタリと倒れた。体をグッと伸ばすと、エヴァードの手に触れた。言葉はなく、二人そのまま互いの体温を感じながら、じっと天井を見上げていた。


「……善哉、食べようか」


「うん。はは、朝ごはんも善哉になっちゃったね」


 名残惜しい気持ちもあるが、ジェロルは反動をつけて起き上がる。椅子とテーブルを窓際につけ、二人並んで座って、善哉の器に被っている紙蓋を外した。


「「いただきます」」


 二人で木のスプーン(サービスの良いことに、これも付属だった)を使って黒いスープと白玉を掬う。そして同時に口の中へ。


「あったかい」

「冷たい、けど。意外とイケるね」


 へえ、とジェロルが興味深そうにエヴァードの冷やし善哉を覗き込む。


「た、食べてみる?」


「うん……」


 そっと自分のスプーンをエヴァードの器に挿し入れ、凝固した黒いスープを掬って食べた。


「確かに食感が変わって、美味しいね」


「だよね。本当にあの人はマレビト様だったのかも」


 不思議なギフトを操り、未知の料理を作り出す黒髪黒目の男性。


「私にとっては、エヴァードも十分に不思議だけどね」


「え? どうして?」


「だって無からあんなに楽しいお話を作り出せるんだもん。あの人にも全然負けていないよ」


「そ、そうかな」


 気弱に笑うエヴァード。初対面の時は、ややもすると頼りない印象だったが、今はもう知っている。外面は柔和でも、内面には滾る情熱を持った人なのだと。


「新聞も売れると良いな」


 もっと言うと、裏面に載せた自分の小説も好評だと良いな、だろう。


「売れるよ、間違いなく」


 私が保証する、と小さく胸を叩いたジェロル。


「……売れたら二章、書いてね」


「う、うん」


 そこで言葉を切って、横目にジェロルを窺うエヴァード。


「二章、さ。二匹の狼が……け、結婚するっていうのは、どうかな」


「え?」


 狼の群れの中で上手く輝けない二匹が、それでも知恵を絞って力を合わせて群れに貢献する物語。そんな二匹に、ひそかに自分とエヴァードを重ねて読んでいたジェロルは……


「結婚。うん。良い。良いと思う」


 噛み締めるように言った。


「そ、そっか。じゃあそうしようか……結婚」


 窓の外、日が昇ってくる。黎明の空に浮かぶ太陽が、二人の顔を更に赤く照らしていた。

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