5:洋梨タルト(緑の国・辺境)

 忘れ得ぬ光景が、トトナ・ドロックを絵の道に邁進させた。

 

 周囲は止めた。流石に35歳から始めるには、険しい道だと。有閑貴婦人ならまだしも、彼女はしがない新聞記者である。仕事との両立は中々に骨だろうし、しかも彼女は何をトチ狂ったか、趣味ではなく個展を開きたいなどと言い出したのだから、良心のある親類縁者が止めるのも至極当然と言えよう。


 トトナはしかし、曲げなかった。取材や編集、記事作成と、日々の業務に追われながらも、時間を見てはキャンバスに向かった。仕事上がりには街にあるプロのアトリエへ行って教えを請うた。周囲の反応と言えば。一年、よく続いたものだ。二年、まだ頑張るのか。三年、実を結ぶかどうかは兎も角、熱意は本物のようだ。四年、五年、六年。気が付けば周囲は全員、彼女を応援し、そして彼女が描く絵のファンとなっていた。


 苦悩や挫折は無かったかと問われれば、トトナは両手両足の指では数えきれないと答える。当然だ。若い頃と違って、吸収力も衰えているし、続けるうち老眼にもなった。仕事に支障をきたした日には、編集長に面罵めんばされることもあった。最愛の父も亡くし、そんな日まで絵の構図を考えてしまった自分を不孝者と自責し、いっそ辞めるべきだと本気で考えた。


 だが、それでも。トトナは描き続けた。あの忘れ得ぬ光景を、どうしても自分の手で再現したかった。ギフト『記憶保存きおくほぞん』。見る物すべて、ではないが、任意のいくつかを脳裏に鮮明に焼き付けておける能力だ。彼女は若い頃は、これは自分が新聞記者になるために女神セレスが授けてくれたものだと信じて疑わなかった。だが、あの日、あの光景に出会って以降は、全く考えを変えた。自分のギフトはこの光景を脳裏に刻むためにあったのだ、と。そして今なお、彼女は折を見て、あの光景を記憶の中から引っぱり出してきては眺め、恍惚とすることをやめられない。


 そしてそれこそが、彼女の心の支えとなり続けていた。天授のフィルムが、折れそうな願いを何度でも蘇らせる。そうして乗り越えてきて、10年が経ち……ついには、世界一の芸術の都・緑の国の首都で個展を開催する栄誉を勝ち取った。

 そのことを、泣きながら父の墓標に報告した。彼の遺品、結果を出すまで読まないと決めていた、自分宛ての手紙もようやく開封した。


『親愛なる娘へ』

 そんな書き出しから始まった文章は……トトナが子供の頃から好奇心旺盛だったことや、ギフトを使って新聞記者への道を決めた時には家族総出で激励したことなど、思い出話が綴られ。後半では娘の夢を応援し、きっとプロとして生きられる日が来ると信じているといった温かい言葉が並んでいた。ただ自分がそれを見届けられないことを残念がり、そして彼女が絵を志すキッカケとなった、この世のものとは思えない絶景を、それを描いた彼女の絵を、ただただ一目見たかった、とも記されていた。そして文末、初めてトトナが絵描きの夢を語った時、すぐに応援してやれなくて、すまなかったという一文と『愛している』という言葉で手紙は〆られていた。


 トトナは誓った。必ずや天国の父に見てもらうのだと。自分の持てる全てをこめて描きあげた、生涯最高の絵を。もちろん、題材は10年焦がれてやまない、あの至高の景色だ。


 トトナは休職を願い出た。いつの間にか編集長という立場に就いていたが、降格も覚悟の上だった。社長は言った。「叶えてこい」と。


 ………………

 …………

 ……


 緑の国、その第70番目の都市(いや村と評した方が適切か)から、東へ一日歩いた先にある辺境の滝。トトナの目的地はそこだった。

 腐葉土の上を歩き、森を抜けると、足元はやや硬い地面(岩の上に土が乗っているのだろう)に変わる。

 滝は急峻きゅうしゅんな崖から落ちてきていた。崖の斜面、滝を囲うように逞しく生えた木々が枝垂しだれ、色づいた葉に水飛沫を浴びている。

 黒岩の合間を流れる白い水飛沫と、紅葉の対比。今のままでも心洗われるような光景だった。だが勿論、トトナが追い求める一枚は、これではない。いや、場所は合っているのだが。時が満ちていない。そして、何より役者が足りない。


「いない……わね。本当に」


 第70番目の村で聞いた通りだった。


 ――今年の幼龍ようりゅうはダメかも知れない。


 村の老人たちが渋面を作って、異口同音に言っていた内容。ただ、彼らには来年を待つという選択肢もあるのだろうが、トトナはそうはいかない。無理を言って、ここまで来ているのだ。故郷、青の国を出国したところから数えれば丸一月近くかかっている。更に来年の個展までの期限を考えれば、この滞在で是が非でもモノにしないといけない。

 永続記憶があるのだから、昔の記憶を頼りに描いても、それなりの絵は出来上がるだろう。だが、それなりではダメなのだ。一世一代の絵でなくては。いくらギフトの力とて、完全に色褪せずに10年は無理があり、本当に細部のところは曖昧になりつつあると自覚している。


「それじゃあ嫌なのよ」


 妥協はしたくない。客はもしかすると、それでも喜んでくれるかも知れないが、自分自身がそれでは許せない。描いた己が息を飲むような絵を、亡き父にこれが我が人生と胸を張れるような絵を、描きたいのだ。

 

 トトナは滝の付近を捜し回った。忘れ得ぬ、あの光景には幼龍ようりゅうは不可欠だからだ。木立の一本一本を見上げ、枝葉の間に隠れていないか目を皿のようにして捜す。岩の陰や、下生えの中も念入りに。と、そうしているうち、丸太小屋を発見した。ああ、そういえば、とトトナは思い出す。10年前、観光で訪れた時、彼女もここに泊まったのだ。


 小屋の中から話し声がする。トトナは試しにノックをしてみた。すぐに内側から扉が開かれ、学者風の優男と老女が顔を見せた。二人はトトナを見て、少し驚いた顔をする。


「ビックリした。アナタも観光客かい?」


「ええ、そうよ。ということはアナタたちも?」


「うん。黒の国から。昇龍紫葉しょうりゅうしようを見にきたんだけどね。今年はダメみたいだ。母を連れてこられるのは、もう何年もないから、是非とも見たかったんだけどね」


 少し自身の境遇と重ねてしまうトトナ。


「本当に今年はダメなの? 70番目の村の老人たちも言っていたけど」


「うん。今年の幼龍は諦めちゃったみたいだ。僕たちも、もう下山するところだったんだよ」


「そんな……」


 幼龍が滝登りを諦める。滅多にない事態だと聞いている。


「直近では38年前、らしいよ。つまり38年ぶりの珍事に当たってしまったってことだ。お互い、ついてなかったね」


「よ、幼龍が今どこに居るか」


「分からない。きっともうどこかに隠れてると思うよ」


 遮るように答えた青年は、老母を連れて、トトナの立つ入口まで歩いてくる。道を開けると、二人は肩を落として、トボトボと下山道へ向かっていく。その背が「アナタも早く諦めて帰った方が良いよ」と告げているようで。


「だから、アタシは諦めるワケにはいかないんだって」


 頭をブンブンと横に振って、トトナは決意を新たにする。ふと、最初に絵の道を志した時の心境を思い出していた。無理だ。諦めた方が良い。無駄な努力。このような言葉は常につきまとっていた。他人に言われる物もあったが、自身で思うこともあった。だが、それでも。10年続けて、結果を出すまで食らいついてきた人生だ。一度や二度、他人に諦めろと言われたくらいで諦められるほどスマートなら、そもそも今ここに立っていない。


「よし!」


 取り敢えず、この昇龍紫葉の同好の士たちが建てたと思われる観測小屋を使わせてもらうことにして。まずはここを拠点にして、徹底的に幼龍を捜そう。トトナはそう決意して、行動を開始した。






 と、意気込んだは良いが、先に何人もの村人や(先程の二人のような)観光客が捜し尽くしてダメだと判断したものを、そう簡単に覆せるハズもなかった。特に村人にとって昇龍紫葉しょうりゅうしようは観光資源でもあるワケで、それこそ金の成る木を捜すつもりで事に当たっただろう。その上で諦めざるを得なかったのだから……


「はあ……弱気になってるわ」


 パチンと自分で頬を張るトトナ。


「おーい! 幼龍ー! 出ておいでー!」


 木の枝で下草を叩きながら、木立の間を動くものがないか目を凝らして牛歩のごとく進む。日が暮れそうだ、と頭の冷静な部分で考える。

 せめて。せめて水龍が好む梨でもあれば状況は違うのだろうが。ここら辺の岩の多い地形では、あまり生育しないようで、手に入らない。いつもは頑張った幼龍へのご褒美に、第10都市あたりの果樹園から取り寄せているそうだが、今年は村全体が見切りをつけたせいで、それも無いそうだ。


「はあ。ないものねだりよね。何か魔法のようなお店が出張してきて、梨を売ってくれたりしないかしら」


 自分でもバカげたことを言っているとトトナも自覚はあるが。現実逃避くらいしたくなるというもの。

 結局、その日は収穫なしで小屋に戻り、床に就いた。木台のような簡易のベッドに横になると、すぐに肩が痛くなったが、不平不満を脳内で吐き出しているうちに眠ってしまった。長旅と骨折り損で、心身ともに疲れきっていたのだろう。夢も見ずに、そのまま朝までコースだった。


 翌朝、彼女は何かの物音を聞きつけ、目を覚ました。半覚醒の頭が思考を回すうち、もしかしたら幼龍ではないかと思い至り、弾かれたように小屋の外へ飛び出した。しかし、そこで見た光景に……トトナは固まってしまった。

 白い木台。その両横面に黒い板張りがなされ、上に伸びている。そのテッペン同士を平たい屋根のように渡す、これまた黒い板。全体的に白と黒が半々くらいの……


「や、屋台?」


 昨日までは、こんなもの当然なかった。いや、今ここに存在していてなお、魔法か何かではないかと疑ってしまう。なにせ意味が分からない。


「一体誰が何の目的で……」


 と。突然、屋台の向こう側(店主が立つ側だろうか)の更に奥、虚空が光を放ち始めた。何かの攻撃か、と岩の陰に慌てて隠れる。それでも記者魂が疼き、トトナは岩から頭だけひょっこり出し、そっと覗いていた。

 光の中から現れたのは、白いシャツを着た30歳くらいの男。細長い目と薄い唇。あまり印象に残らない顔立ちだが、髪と瞳が黒曜石を散らしたような漆黒で、トトナは息を飲んだ。


 そこで。男と目が合ってしまった。マズい。危害を加えられても、こんな辺境では助けも呼べない。知らず生唾を飲んだ喉がゴクリと鳴る。だが男に敵意はないようで、小さく笑って目礼のような真似をしてきた。更に出方を窺おうと思った矢先。


「良かった。人が居たよ。てっきり無人の辺境に繋がったのかと思ってマジで焦ったからな」


 トトナに話しかけているというより、独り言のようだった。瞳にも言葉にも理性が見て取れ、一段階、警戒を下げた。そして警戒が下がると、記者の血が騒ぐもので。


「……アナタは何者?」


 つい訊ねていた。青年は一つ頷き、


「俺はこの異世界屋台・ボヤージュの店主だ」


「いせかい、やたい……ぼやーじゅ」


 ボヤージュの方はサッパリだが、異世界屋台の方は意味が取れた。


「べ、別の世界から来た屋台ってこと?」


 男は頷く。信じられないかも知れないが、本当だ、と。

 確かに信じがたいことではあるが。先程の謎の発光に加え、見たところ、傷一つないキレイな屋台。山道を登ってここまで無傷のまま引っ張ってきた、と言われても、それはそれで現実味がない。様々、勘案すると。


「……風の噂で聞いたことがあるわ。白の国の聖都に、久しぶりのマレビト様が現れたって」


「へえ。情報通だな。白の国の他の都市でも知らない人は結構いるのに……」


「これでも新聞記者をやってるのよ。各国の目ぼしい情報は一通りね」


「なるほど」


 もうここまでの問答で、対する男は理知的で常識的な会話をこなせる相手だと十分に理解したトトナは、岩間から出てくる。そして男に握手を求めた。


「トトナ・ドロックよ」


「ワタル・イイフクだ」


「変わった名前ね。本当にマレビト様なのかしら? 敬語を使った方が良い?」


「まあ、聖都に行けばそういう扱いをされるのは事実だが……敬語は使わなくて結構だ。ただ俺のギフトについては記者魂の方を控えてくれるとありがたい。あと、これから供する料理についても」


 男はすんなりマレビトと認めた代わりに、そういった条件を出してきた。普段ならゴネるところだが、


「いいわ。今はアタシも休暇中だし」


 快諾する。


「ただし、これだけは聞かせて欲しいの。アナタ、果物の梨って持ってないかしら。あるいはその光の奥? 収納庫のようになっているんだとしたら、そちらでも構わないけど」


 トトナからも条件を出した。軽いものである。彼女にとっては重い意味を持つが。


「ほお。マジですごいな」


「え?」


「いやね。昨夜、良い梨が手に入ったから洋梨タルトを焼いてみたんだ。そしたら思いの外、良い出来になったから、こりゃ明日のモーニングで出すかと一晩寝かせたんだが」


「???」


「……いざ来てみりゃ、こんな辺境だろう? こんな所に客なんて居ねえだろうと思いながらも屋台を組み立ててたら……本当に客が現れて、本当に梨を欲しがってるからさ。クローゼットの選球眼に感心してたんだよ」


「えっと?」


「ああ、すまない。こっちの話だ」


 店主の男、イイフクは独りよがりに話し続けていたことに気付いて、謝罪した。


「梨そのもの、素材のままは無いが、梨を使った菓子ならある」


「菓子……ジャムのようにしてしまっているのかしら?」


 流石に原形を留めないほど加工してしまっているのなら、水龍も好物とはいえ、食いつかないかも知れない。そういう危惧があったが、


「ああ、いや。タルトってのは……まあ現物を見てもらった方が早いか」


 イイフクはそう言って、再び光の中へ消えていく。持ち前の旺盛な好奇心から、トトナは光の中を覗きたい衝動に駆られたが、先ほど取材活動はナシと約束している。それを反故にして、ヘソを曲げられて梨ごとトンズラされるという事態は避けなくてはならない。

 

 イイフクが戻ってきた。手に白い陶製の皿を持っている。提供台に、それを置いた。

 茶色い縁取り(変わった形状のパンだろうか)の中に梨の白い果実が均等に切り揃えられた状態で詰められている。その真ん中にはハーブだろうか、小さな双葉の緑が添えられていた。


「洋梨の素材が良かったから、生地の中に入れて焼くのではなく、焼き上げたタルトの上に乗せる形にしてみたんだ」


「よく分からないけど……タルトというのが、この茶色い縁取りかしら?」


「ああ、クッキー生地で、噛むと歯応えがあって美味い」


 先ほどから漂い続ける甘く香ばしい匂いに、空腹を刺激されていたトトナ。そこに未知のパンの食感まで具体的に説明され、いよいよ本格的に唾を飲む。

 本当は歯が折れるほど硬いパンと、干し肉のセットの携行食で朝飯とする予定だったが、期せず、とんでもないご馳走にありつけそうだった。


「い、いくらかしら?」


「そうだな。ミルクもつけて、モーニングセット、銅貨7枚でどうだろう?」


「や、安い! 頂くわ!」


「はいよ。今ミルクを持ってくるから……」


「あ、違った! そうじゃないのよ! アタシが食べてどうするのよ!」


「え? なんだ? 要らないのか?」


「いえ。要るのは間違いないの! ああ、でも。美味しそうだし」


「……なんかワケありみたいだな。良かったら話を聞こうか?」


 イイフクの申し出に、トトナは隠す必要もないので、状況をつぶさに話した。といっても、昇龍紫葉しょうりゅうしようが見たくて来たのに、幼龍が行方不明だから、好物の梨で釣りたいという、言葉にすると割と単純な話だが。

 しかし昇龍紫葉が如何に美しく素晴らしいか力説してしまったため、10分くらいかかった。話を聞き終えたイイフクは、


「なら問題ない」


 と請け合った。


「なぜ」


「ダース……12個焼いてるからね。誘き出すにしても、そんなに要らないだろ」


 その言葉でトトナの本日の朝食は決まった。

 すぐにミルクの入ったグラスも持って来てもらい、セットが完成する。先に勘定を払い、いざ実食ということで、トトナはフォークを持った。こちらも銀の光沢が眩く、とても品質が高い。この男、何者? と記者の血が騒ぎかけるが、今一度、約束を思い出してかぶりを振った。


「いただくわ」


 フォークを入れると、梨と下の柔らかい部分(クリームとかいう物だろう)には簡単に刃が通ったのだが、クッキー生地という部分は中々硬い。無理に切るとガチンと皿にフォークを打ち付けてしまい、無作法にバツが悪い思いをした。が、ここはイイフクくらいしか見ていない辺境の地であることを思い出し、気にしないことにする。


 一口分切り分けたそれを、ゆっくりと口に運び、咀嚼した。

 途端。

 クッキー生地は硬く、しかし噛めばホロリと砕け、口の中に淡い甘さが広がり。その後にクリームの濃厚な甘さと滑らかな舌触り。梨を噛めば、柔らかく煮込まれた実の中に芯の硬さが少しだけ残っており、シャクッと音を立てる。そして鼻を抜けるラム酒と、甘く爽やかな風味。


「んん~!!」


 口いっぱいに頬張りながら、トトナは愉悦の声を漏らす。年甲斐もなく、少女のように高い声だった。


(美味しい。なんて上品な甘さなの。こんなお菓子、食べたことない)


 更に一口と焦る手元。フォークがクッキー生地を切り取る際に、カチンとさっき以上の音が鳴ったが、気に留める余裕もない。かぶりついた。甘さの競演に、再び悶絶する。


「さっきも感じたけど、この鼻を抜ける甘いような爽やかな香りは何なのかしら」


「う~ん、シナモンのことか?」


「しなもん。とても合うわね。梨の本来の甘みを邪魔せずに、だけど違った風味をもたらしていて」


 早口になるトトナ。職業病だろうか。

 と、そんな彼女の背後、茂みがガサガサと揺れる。二人でそちらに目を向けた。


「い、猪とかじゃないよな?」


「いえ、多分だけど……」


 トトナが言い終わる前に、茂みから顔を出したのは。

 青い体色の大きなトカゲ、いや、トカゲよりも遥かに巨大だ。更に瞳も大きく、口も前方にアゴごと突き出している。ワニを思わせるが、その頭には水色の角が二本生えており、やはり他のどの生物とも違う。

 龍、という種族。


「い、居た!」


「おい、あれ大丈夫なのか? アンタと同じくらいの身長がある気がするが」


「みだりに人間に危害を加えることはないハズよ」


 などと話しているうちに、龍はゆっくりと茂みから全貌を現す。大蛇よりも体の幅はあり、小さな手は生えているが、それは使わず腹這いでズリズリと地面を進んでくる。


「西洋のドラゴンより、日本の龍が近いな」


 イイフクの感想は、いまいちトトナには要領を得ないが。


「きゅ~い」


 存外、可愛らしい声で鳴く。なおもズリズリと進んでくる。体長150センチほどはあろうかという生物が(敵意は感じられずとも)迫りくる様には、やはり身構えてしまう。イイフクが半歩後ろに下がった。


(アイツ、いざとなったら、さっきの光の中に逃げ込む気ね!?)


 薄情な店主にトトナが静かな怒りを抱いているうちに、龍はすぐ傍までやって来て、


 ――ぎゅるるるる


 腹を鳴らした。

 場に沈黙が下りる。トトナとイイフクは顔を見合わせた。そんな二人に、きゅうと弱々しい声で鳴く幼龍。


「アナタ、おなか空いてるの?」


「きゅい」


 肯定のようだ。イイフクは少し待っていろと言い残し、光の中へ消えたかと思えば、すぐにタルトと、平皿に入れたミルクを持って戻ってきた。12個既に焼いていると言っていたのは嘘ではなかったようだ。

 イイフクは屋台を出ると、近場の岩の上にそれら二つを置いた。そして幼龍に目でサインを送る。オッケーという事らしい。きゅい! と嬉しそうに一度鳴いた龍がそちらへ這っていく。そして首を伸ばし、タルトを一呑み。


「ちょっと、もう少し味わいなさいよ……」


 もう二度と食べられないかも知れないほどの絶品を、ありがたみもなく一口では、つい言いたくもなる。だがそんなトトナのお節介は、幼龍にはどこ吹く風で。


「きゅい……きゅーい!? きゅい! きゅい~! きゅいきゅい♪」


 咀嚼するたびに表情が変わり、最後は喜びに両目を細める。


「感情表現豊かなんだな。知能も高いんだろうか」


 呟くイイフクに、幼龍はにじり寄り、頭を近づける。恐る恐る、彼がその頭を撫でてやると、


「きゅい! きゅい!」


 掌に擦りつけてくる。はは、と小さく笑ったイイフクも、満更でもなさそうだ。


「イイフク、アナタ意外と肝が据わっているのね」


 一応、幼龍に触れたという記録はあるにはあるが、まあ非常に珍しいことなのは間違いない。


「まあどっか危機管理が壊れてるんだろうな。じゃなきゃ、そもそも異世界で屋台を開こうなんて思わんよ」


 自嘲気味に笑ってみせるイイフク。


「まあでも兎に角。これで主役を確保できたわね。梨のタルト様様よ」


 トトナのニヤリとした笑いに、しかし幼龍はイヤな気配を感じたのか、イイフクの後ろに回る。


「おいおい、あんまり手荒な真似はしてやるなよ?」


「笑止! アタシの滞在期間中、それもなるべく早く飛んでもらうわよ!」


 意気軒昂。

 こうしてトトナと幼龍と、ついでに屋台店主の、滝登り大特訓が始まった。



 ◇◆◇◆



 ザパーンと大きな音が立ち、滝壺の中へ沈み込む巨体。落下中の「きゅい~!」という叫び声がドップラー効果のように飯福の耳に残っていた。

 滝壺の近くの岸まで駆けて行き、タルトを見せる。ウミヘビのように器用に体をくねらせ泳いできた幼龍が、飯福の手からパクリとそれを食べた。


「よ~し、良い調子だぞ。半分まで行った。天才じゃないか、クッキー!」


 いつの間にか名前まで付けてしまっていた。タルトのクッキー生地の部分が特に好きなようで(梨が一番の好物のハズなのだが、それすら押しのける勢いだ)、最後に味わうように噛むことから、そう命名したのだが。


「こら~! 甘やかすな~!」


 滝口の岸で待つトトナが怒声を降らせる。


「飛べたら全部、奢ってやるから! 途中で食って腹が重くなったら、飛べるもんも飛べんでしょーが!」


「きゅ!? きゅい……」


 スパルタすぎではないか、と飯福は思う。途中で褒美がないと、続くものも続かない。


「クッキー。大丈夫。次は4分の3を目指そう。いきなりじゃなくて良い。自分のペースでな」


「きゅい! きゅい、きゅい!」


 人のようにコクコクと首を縦に振る様が可愛らしくて、飯福は笑顔になる。


 だが、そこからが長かった。4分の3までが遠い。失敗は50を数えただろうか。徐々に徐々に、クッキーの瞳から輝きが失われていくのが、二人にも分かった。

 そしてついに。クッキーは止まった。水の中を泳ぎ、滝壺の岸、飯福のところまで戻ってしまう。


「きゅい~……」


 弱々しい鳴き声に、そっと首を撫でてやる飯福。


「辛いか? 明日にするか?」


「きゅい~」


 僅かに迷っている雰囲気を感じた。

 と、その時。飯福の頭上に影が落ちる。いや、とても大きなそれは、飯福のみならず、辺りを暗くした。顔を上げると、蛇腹が見えた。青い鱗が揺れる尻尾も。


「水龍の成体ね」


 いつの間にかトトナも岩を伝って下りてきており、飯福に合流しながら言った。


「きゅい!? きゅい! きゅい!」


 クッキーも空を見上げ、にわかに活力を取り戻したかのように鳴く。


「お父さんか、お母さんか?」


「きゅいー!」


 肯定のようだ。応援に駆けつけてくれた、というところだろう。


「クッキー、ラストやってみるか。ダメでも半分以上は登れたよって、親御さんに見せてやればいい」


「きゅ」


「な? そんでダメだったら明日また頑張ろう。梨のタルトもっと焼いてきてやるから」


 少し肩入れしすぎだな、と飯福自身も思うが、勢いでそんなことを言っていた。嘘にしないためには、明日になる前に、超残業で大量に焼くしかない。それならリシャッフル前に置き土産に出来るだろう。恐らくだが。


 幼龍の肩を優しく揉む。肩というより小さな腕の上の鱗だが。


「きゅ!? きゅい! きゅ、きゅ」


 くすぐったいらしく、身を捩るクッキー。逃げるように水の中へ潜った。

 そして……少しの静寂。成龍はいつの間にか飛び去っていた。恐らく遠くで見守っているのだろう。


(気楽にな)


 最後にポンと背中を押すような気持ちで、飯福は念じる。


「……っ!」


 行った。スルスルと滝壺を進み、落ちくる水流に向かって垂直に駆け上がる。力を込めて全身をうねらせ、戻し、うねらせ……蛇行を繰り返しながら徐々に徐々に流れ落ちる水の重量を押しのけ、掻き分け、登っていく。


「ちょっとこれ」


「ああ。今までにない良いペースだ」


 半分を過ぎた。危なげない。余力を感じさせる泳ぎだ。


「もしかすると、クッキーは泳ぎきる力は既に」


「そうかも知れないわね。緊張と気負いで、力を十分に発揮できていなかったのかも」


 皮肉なもので、親が来て、飯福という優しい協力者を得て、また明日への景気づけに最後のひと泳ぎと決めた途端、恐らくクッキーの心にのしかかっていた重石は消えた。


「あ!」


 だが、4分の3を超えようかという所。出っ張った岩肌の部分、鬼門だ。クッキーの体が少し浮く。滝水の中から背が見えてしまっている。ここで何度も上体が浮いて、そのまま重力にやられて落ちてしまっていた。だが今回は……


「いける!」


 頭が越えて、コブのようになった岩肌の凸の上に着いた。そこからグググと体が持ち上がっていく。絶えず轟音を立てる瀑布ばくふの中で、それに負けない龍の咆哮を聞いた。荒い呼吸の中、それでも力を込めた裂帛の気合の声を。


「きゅいーーー!!」


 越えた。全身が越えた。それを見て取った次の瞬間には、あっという間に、幼龍は滝を駆けあがっていた。そして、


 ――――翔んだ。


 その瞬間、世界が止まった。


 滝登りを終え、力を帯びた幼龍の体からマナが放出され、滝口に枝垂れた木々の葉が、青を受ける。紅葉の赤と混じり合い、それは紫へと色を変えた。夕空に向かってS字に曲がったまま滞空する龍の体は真っ青で。茜をバックに、鮮やかなる青き龍が、紫の葉のフレームの中に納まっている。


「これが……昇龍紫葉しょうりゅうしよう


「なんという……」


 成龍となった幼体が滞空に馴染むため、五秒ほど留まる、つまりそのたった五秒しか見られない光景。

 息を飲む。鳥肌が立つ。寒くもないのに背筋が震えた。

 飯福は一瞬、スマホの入ったズボンのポケットに手を伸ばしかけて……やめた。それはあまりに無粋だった。


「きゅーーい!!」


 龍がいなないた。あの甘えん坊の鳴りを潜め、雄々しく高く。

 最後に、地上の飯福とトトナを見て、クッキーは空を泳ぎ始めた。滝登りと同じように、今度は何もない空を。どんどんと登っていく。そのうち、先程の大きな龍が合流し、二体、連れ立って飛んでいく。


「きゅいーーーーーー」


 長く尾を引くような最後の鳴き声は、きっと自分たちへの挨拶だと、二人は思った。

 飯福が隣を見ると、トトナは泣いていた。それこそ滝のように、ボロボロと。いつまでも、いつまでも。


 ………………

 …………

 ……


 チーンと鼻をかむと、トトナは赤い目のまま、飯福に礼を言う。


「ありがとう。アナタのおかげよ」


「……いや、俺も良いものが見れた。圧巻だったよ」


 嘘偽りのない気持ちだった。心が浄化されたとさえ、大袈裟でもなく思えていた。


「アタシ……最高の絵を描くわ。アタシの人生で一番、もうこれで筆を折っても良いって思えるくらいの。命を、魂を懸けた絵を」


「……そいつは、凄そうだ」


 飯福は彼女の詳しい事情は知らないが、恐らく多忙を押して、ここまで来たのだろうことは察していた。失敗を重ねるクッキーに、時折縋るような目までしていたのも見ていた。きっと昇龍紫葉は、彼女にとって人生を懸けるに値する五秒間なのだろう。 


「帰るわ」


「え、もう?」


「来年の個展まで時間がないもの」


 トトナはリュックを背負い、決然とした眼差しで言った。


「あ、そうそう」


「なんだ?」


「クッキーが残したタルト、残り全部、売ってちょうだい」


「え? あ、ああ。構わないが」


「アタシにとっては幸運のお菓子だもの……はい」


 トトナが巾着を開き、金貨六枚を出して飯福に握らせた。


「いや、こんなに」


「いいのよ。お礼も兼ねてるから」


 なおも遠慮しようとする飯福だったが、トトナは不敵に笑って、こう言った。


「もし気になるのなら、来年の個展に来なさいよ。その時に観覧料で返してちょうだい。損はさせないわ。必ず」


 爛々と輝く瞳。心中の気炎が灯っているかのようだった。

 

 トトナの背を見送り、飯福も屋台の片づけを始める。


「来年、か」


 是非ともまた見たいものだ。あの魂が震える景色を。

 そしてその時には、飯福も鮮明に思い出すのだろう。好奇心旺盛で食いしん坊で。何度も夢を諦めかけたけど、しかし最後には成し遂げた力強き龍のことを。

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