幾重もの裏切り

 問いかけの形を取ったものの、アイシャとしては義母の考えを言い当てられた、と思ったのだけれど。でも、アルジュンはゆっくりと首を振った。


「少し、違う。母上は、あくまでも私を慮ってくださっているのだ」

「それは……どういう……?」


 義母が殉死を望むのは、亡き夫君への思慕が理由のはずだ。息子のアルジュンに対しては、もちろん愛はあるだろうけれど、反対されることに対しては母として面白くないだろう。


(私に伝えることで、アルジュン様を説得しようとなさったものとばかり……)


 思えば、婚礼の翌日に殉死を言い出すのはあまりに性急だと思ったのだ。ダミニが仄めかした通り、嫁なら、義母の願いを叶えるように夫に執り成すものであって──何がどう、違うというのだろうか。


「そうだな──」


 アイシャが戸惑う気配が伝わったのだろう、アルジュンはまた、考え込むように沈黙した。彼が考えること知っていることをそのまま伝えても、たぶんアイシャには理解できないのだろう。


「私の考えに従って統治すれば、背く者が出る。不安や混乱も起きよう」

「……はい……」


 わざわざ平易な言葉に言い直す手間をかけさせてしまうこと、申し訳ないことこの上ない。なのにアルジュンは苛立ちなど欠片も見せないのだ。


(早く早く、もっとたくさんのことを知らないと……!)


 夫の言葉をひとつたりとも聞き漏らすまいと、アイシャは耳に神経を集中させた。そもそも愛する人の声はいつまでも聞き惚れていたいもの、頭にも染み入ってくれるはずだと思いたかった。


「母上は、王への不信が膨らまぬように、とのお考えなのだ。身をもってスーリヤの美徳と貞節を示せば、私がに取り憑かれたのでないと分かるだろう、と……!」


 だから──アイシャは、アルジュンの言葉をゆっくりとじっくりと噛み締めた。こうしてきちんと説明されれば、分かる。


(お義母様は、死を望まれているだけではないのね。ご夫君のお墓に入ることを美しいと思われているだけでも、なくて)


 厳しくて恐ろしいと思っていた義母にも、温かな情があるということ。彼女と同じ想いを持っているということ。しばしの間、考えて、呑み込んで──そして、アイシャは心から微笑んだ。


「では──お義母様も、アルジュン様のお味方なのですね」


 昼間、義母トリシュナの覚悟を聞かされてから思い悩んでいたよりもずっと、実際の状況は良いようだ、と結論したのだ。


「アイシャ……?」


 アイシャの反応は、アルジュンにとっては予想しなかったものらしい。年上の夫が、幼い風情で戸惑うように瞬いたのは、微笑ましく胸のときめく表情だった。


「そう、だな。そうとも言える、だろうか」

「お義母様が、ご夫君を慕われているのも真実なのでしょう。でも、アルジュン様のことも大切に思ってくださっているなら、分かっていただくことは──できないの、でしょうか? だって、そういうことなら、やはり私には教えていただかなければいけないことが多いと思いますもの」


 いまだしきりに首を捻るアルジュンが可愛く思えて、アイシャは彼の頬をそっと撫でた。

 アイシャの言葉は、子供の気休めのようなもの、そう簡単に上手くいくようなことではないのだろうけれど──少しでも、夫の心を軽くすることができるだろうか。


「うん……。やはり、貴女の教育が必要だということにしよう」


 アイシャが触れたところから、アルジュンの頬が和らいでいく。ぎこちなくとも微笑んでくれたのが嬉しくて、アイシャも口元をほころばせる。


「はい。王妃の知るべきことを、急ごしらえの詰め込みで済ませてしまってはいけませんもの」


 アイシャが頷くとアルジュンは嬉しそうに、そして安堵したように破顔した。薄闇の中、白い歯がちらりと煌めく。


「その間に、私を信じていただけるようにしなければ、な。……説得できそうな諸侯と接触するのに、王妃のお披露目はまたとない機会だ。貴女を口実に使っても良いか……?」


 妻が頷いただけで、夫はこんなにも嬉しそうにしてくれる。そして、協力を求めるのに、こんなにも後ろめたそうに申し訳なさそうにする。

 アイシャはそれほどまでに子供だと、頼りにならないと思われていたのだ。、死の瞬間になっても彼女が何も知らなかったのは、そういうことだ。


「もちろんですわ。夫の力になれるのは妻の喜びです」


 の生ではできなかったことを、今度こそ──かつては守られるばかりだった不甲斐なさを噛み締めながら、アイシャは強く頷いた。


      * * *


 詳しいことはまた明日、と言い交わして、ふたりは眠ることにした。

 憂いや悩みが解決したとは言えないけれど、ひとまずの指針はできた。夫と心の距離を縮めることもできた。昼間の幾つかの騒動による疲れと緊張も相まって、睡魔はすぐにもアイシャの目蓋にし掛かる。


「アイシャ。ひとつ約束して欲しい」

「はい。何なりと」


 とろりととろけた意識に、夫の囁きが甘露のように滴り落ちる。ふたり寄り添った格好で、心も身体も溶け合うようで心地良い──良かった、けれど。


「この先、私に何が起きたとしても、決して後を追おうなどとは考えないで欲しい。できることなら、私の遺志を継いで──いや、それよりも、何よりも」


 不吉な言葉に身体を強張らせたアイシャを宥めるように、アルジュンの腕に力がこもった。あるいは、それは彼の想いの強さを示しているのだろうか。


「健やかに生きて欲しい。寡婦は、衣食の快を求めぬのが美徳とは言うが、貴女にはそのようなことは望まない。花も果実も、歌も舞も──この世の美しさと楽しさを、私の分まで味わってほしい」


 眠気は、もう遥か遠くに逃げ去ってしまった。アルジュンの腕の中でぱっちりと目を開けて、アイシャは首を振った。その動きで、彼女の解いた髪がしなり、アルジュンの身体を打つ。きっと、抗議の想いが伝わっただろう。


「そんなこと……無理、ですわ。アルジュン様がいなくなってしまわれたら、何もかもが色褪せてしまいますから」

「アイシャ」


 母君の殉死の意志を聞かされたばかりの方だから、妻までも、と思うと恐ろしいのは、分かる。恐れるほどに想ってもらえることが、嬉しくもある。でも──今、言うことではないはずなのだ。


「私の想いは、昨夜もうお伝えしました。アルジュン様と共に生きたい、と」


 アルジュンがいない世界には、生きる意味を見出せなかった。アイシャが身をもって知る真実だ。だから、彼女の生を望むなら、アルジュンも決してたおれてはならない。


「生きることの楽しさを共に味わうための夫婦ではないのですか? 私から喜びを奪わないでくださいませ。──いいえ。誰にも奪わせません」


 彼女が夫に対して意見めいたことを言うのは、初めてのことだった。まして、は婚礼を挙げてやっと一日が経ったばかりの時。


(……無礼とは、思われなかったかしら……!?)


 咎められないか、不審には聞こえなかったかと、心臓に氷を押し当てられた気がしたのも一瞬のこと。すぐに、苦笑の吐息がアイシャの首筋をくすぐった。アルジュンが、彼女の胸に顔を埋めて、降参、の風情で囁いたのだ。


「アイシャの言う通りだな。すまない、気弱になった」

「……いいえ。とんでもないことですわ」


 今度こそおやすみなさい、の口づけを交わした後──アルジュンは、間もなく寝入ったようだった。

 安らかな寝息を胸に抱いて横たわるのは幸せなはずなのに、アイシャの心臓は不吉に高鳴ったままだった。うるさい鼓動に、夫が目覚めてしまうのではないかと思うほど。


 今のやり取りの中で、気付いてしまったことがある。


(アルジュン様が、お考えを変えるはずはない……と、思う。だって、私が殉死することは望まれていなかったはず。でも、私がそれを知らなかったのは、どうして……?)


 のアイシャに、日ごろから心構えを説いておくことができなかったことは、分かる。でも、病に倒れた──ということになっていた──後、アルジュンは死を意識しなかったのだろうか。

 王妃の殉死を禁じるという意志を伝えられる相手も、きっと限られてはいたのだろうけれど。自身の死の後、アイシャが殉じるであろうことを失念していた、だなんてことは考えづらい。


 死の床にあったアルジュンが、密かに後を託すことができたとしたら──


(ダミニ。貴女が、やっぱり……!?)


 側室であり、王妃アイシャの忠実な侍女だと思っていたはず。血の繋がった従姉妹でもあるし。女主人を助けると、信じて疑わなかったとしてもおかしくはない。アイシャだって、最後の最後までダミニを信じ切っていたのだから。


 ダミニが犯した罪は、肉体の上での不貞や、王の暗殺だけではないのかもしれない。アルジュンの、妻を思っての最後の願いさえ踏み躙っていたのだとしたら。


(そうだとしたら──)


 許せない。ダミニは、彼女と夫に対していったい幾つの裏切りを重ねていたのだろう。


 胸を焦がす怒りの熱さ激しさのせいで、安らかな眠りはなかなか訪れてくれそうになかった。

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