妻は夫を信じます
アイシャの言葉の迷いなさは、アルジュンにも伝わったのだろうか。寝室に差し込む月の光が、彼の整った顔をいっそう明るく照らしたようだった。
「アイシャ。ありが──」
月よりも眩しい夫の笑顔に、けれどアイシャが見蕩れることはできなかった。アルジュンからの口づけに、再び溺れることも。
だって、アルジュンが彼女の頬に手を添えた瞬間に、アイシャのお腹がきゅう、とはしたなく鳴いたのだ。
ふたりきりの寝室で、音の出どころを誤魔化すことなんてできなくて──しばし、無言で見つめ合った後、アイシャは慌てて夫の腕の中から逃れようともがいた。
「あ、あの! あまり、ものを食べていなかったものですから。ええと……胸が、いっぱいだったので! いつもは、こんなことは──」
どれだけ言い訳しても、
俯いた頬が、燃えるように熱い。
ほの暗い薄闇の中でも、真っ赤になっているのがアルジュンには見えてしまっているのでは、と思うと怖くて顔を上げることなどできなかったのだけれど──アイシャの髪を揺らす吐息は優しく、呆れや嘲りの気配は欠片もない。
「それだけ思い悩んでいたのだな」
「申し訳ございません……」
いまだ顔を伏せたまま、消え入りそうな声で呟くと、穏やかな笑い声が降ってきた。愛でるような調子は、アイシャには耳に馴染んだもの。かつては安心して安らいだものだけれど、今は子供扱いされてる気配も感じてしまう。
(ううん……実際、子供だったわ。お腹を鳴らしてしまうなんて……)
時機を弁えてくれない自分の身体を恨みながらしょんぼりとするアイシャを、アルジュンはそっと抱き寄せた。内緒話のように、低く耳元に囁く声は──甘いだけでなく、少し硬くて鋭い。
「何か運ばせよう。──寝るまでにもう少しかかるだろうし、な」
意味ありげな物言いに、思わず顔を上げると、アルジュンは真剣な面持ちで小さく頷いた。彼が無言のうちに仄めかしたことは、アイシャにも分かる。
(
今宵は、初夜とは違った意味で長い夜になるのだろう。侍女も従者も控えることなく、本当の意味で夫婦でふたりきりになれる時間は、とても貴重だから。
「……はい。アルジュン様」
長く──そして特別な。夫婦の関係を変える、絆を深めるための夜。その濃密な時間に臨む覚悟ができていると示すために、アイシャも夫の目を見つめて頷いた。
* * *
熟した瓜を口にすると、甘味と水分がアイシャの身体に染み渡るようだった。
深夜ゆえにごく軽く簡単な食事ではあるけれど、贅を凝らした晩餐よりも美味だと思うのは──ダミニと対峙しての食事にそれだけ気を張っていたからだろう。それとも、餌付けのようにアルジュンの手で食べさせてもらっているのが幸せだからか。
いずれにしても、夜食を摂りながらの話題は楽しいものでは決してないから、せめて味覚だけでも快を求めているのかもしれない。
(少し、お行儀は悪いけれど……)
寝台に食べ物を持ち込むのは、ほんらいならば怠惰な無作法だ。新婚の夫婦だから目こぼしされているだけで。でも、アルジュンと寄り添って互いに食べさせ合うと胸が温かい何かで満たされる。
とはいえ、このささやかな幸せも、ほんの短い間だけしか続かない。もっと大事で、そして重苦しいと分かり切っていることの前座でしかないのだから。
「──結局のところ、
アルジュンが、自嘲の苦い笑みを浮かべて呟いたので、アイシャは慌てて口の中に残っていた瓜を種ごと呑み込んだ。
「そんな。アルジュン様は慈悲深く聡明な御方。これ以上王に相応しい方なんていらっしゃいません……!」
「慈悲深く聡明──そうありたいと、思ってはいるのだが」
アイシャの心からの称賛は、けれど夫の心に届いた様子はなかった。アルジュンは軽く首を傾け、言葉を選ぶようにしばし沈黙してから、続ける。
「例えば、夫が死んだ後に妻までも死なせるのは慈悲深くはないだろう。だが、殉死を禁止すれば怒る者や不快に思う者もいるだろう」
アルジュンは、殉死は慈悲深く
互いに寝台に半身を横たえていてなお、夫婦の目線の高さは違う。小柄なアイシャに対して長身を縮めるようにして、上目遣いに見上げてくる彼は、きっと妻がどんな反応をするのかが不安なのだ。
(さっきの私と同じ……拒絶されるのを恐れていらっしゃるのね)
私は迷わずお供する覚悟がありますのに。アルジュン様は私の想いを疑っていらっしゃるのですね! そんな
かつての自分なら言ったかもしれない、
でも、今のアイシャは違う。驚きに目を瞠ったし、息を呑んだけれど──夫を傷つけないように、そっと問うことが、できる。
「……そのようなことを、お考えなのですか……?」
「考えていることのひとつ、かな。まだ、誰にもはっきりとは言っていないが」
アイシャの声と表情の穏やかさに安堵したのだろうか、アルジュンは小さく吐息を漏らすと、彼女の髪を指で梳いた。何かに触れて、縋って──気を紛らわせなくては居られない、というかのような。夫のそんな様子は、アイシャが初めて見るものだった。
「神や伝統や慣例の名のもとにまかり通る不合理が多い、と思うのだ。新しい技術や薬や食べ物は取り入れても良いし、開拓も徴税もそれらを前提に制度を改めても良いはず。いっぽうで、身分の上下は絶対ではないのではないか──優れた者が民を導くことは、神も
独り言のように、自らに言い聞かせるようにつらつらと述べてから、アルジュンはちらりと苦笑を浮かべた。
「難しい話で、受け入れがたいことでもあるだろう。アイシャを驚かせて、困らせてしまったな」
「いいえ!」
否定される前に謝ろうとするのは、先ほどのアイシャもしたことだ。夫の遠慮というか怯えがよく理解できたから、あえて大きく、はっきりと首を振る。
「私は、アルジュン様の妻ですもの。夫である方のお考えは信じます。正しいと、思います!」
それに──やっと分かった、と思ったのだ。
婚礼の席に居並んでいた貴顕が、
(たとえ王の考えでも、神に背くと思われたら──)
すべての者が、アイシャほどにアルジュンを盲信しているわけではないだろう。あるいは、王に忠実であるからこそ、諫めようとするかも。アイシャにとっては計り知れない理由で国を乱した、と思っていた者たちも、実はスーリヤの国を憂えていたのかもしれない。
(──お義母様も、もしかしたら……!?)
と、そこまで考えたところでアイシャは小さく喘いだ。思いついたことを胸に留めておくことができなくて、アルジュンのほうへ身を乗り出す。
「あの。お義母様もアルジュン様のお考えをご存知なのですか!? でも、反対なさっているから、だから……?」
そもそもの切っ掛けは、王太后トリシュナが殉死を望んだことだった。アルジュンにはすでにその意志を告げているようでもあった。けれど、実の息子の考えは母の願いに反するものだった。
だから、嫁であるアイシャを巻き込んで意を通そうとした──そういうこと、なのだろうか。
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