本当の夫婦になるために

 夫婦の寝室の甘やかな空気は、もはや完全に雲散霧消していた。アルジュンは姿勢を正し、アイシャを見下ろしている。整った唇が穏やかに笑むこともなく、深い色の目はどこまでも暗く黒く、心の裡が見えない。


「……なぜ、そのようなことを? アイシャ?」

「だって……大切な方がいなくなってしまうのは、悲しい、ですもの」


 なぜか肌寒い気がして微かに震えながら、アイシャは答えた。彼我の間に距離が空いて、アルジュンの温もりが遠ざかったからだけではないだろう。夫の心がまだ分からないから、直感が外れていた時のことを思うと怖くてしかたないのだ。


(冷たい女だと思われたらどうしよう……!)


 義母のたっての願いを妨げる嫁だと思われたら。スーリヤ国の倣いを弁えない非常識で情のない女、もしも夫に先立たれても後を追う覚悟ない不実な妻だと思われたら。

 王妃に相応しくないと眉を顰められるなら、まだ良い。何よりも恐ろしいのは、アルジュンに嫌われることだ。


(でも。私はこの方と夫婦になりたい)


 アイシャは心からアルジュンを愛していたし、今もそうだ。けれど、本当の意味で夫婦になれたかというと、違う、と思う。十年経ったでも、今、この瞬間でも。

 共に過ごした時間や、身体を重ねたかどうかだけが問題ではなくて──互いの心の裡を知らなければ夫婦とはいえないのではないか、と思う。


「私の両親は幸いに壮健です。でも、父に万一のことがあって、すぐに母まで──となったら、想像するだけでも耐えられそうにありません。もちろん、アルジュン様は私よりもずっと御心が強い御方。お義母様がご夫君を愛していらっしゃるのも存じております」


 だからこれは、アイシャが起こす変化のひとつ。無為に終わってしまったの生を、絶望に満ちた終幕を回避するためには、勇気を出して一歩を踏み出さなくては。


「愛する夫を失っては、生きて行けないと思うでしょう。私だって同じです。でも──悲しみを表すために死んでしまっては、この地上に誰も生きる者がいなくなってしまうのではないでしょうか」


 閉ざされた墓室、その恐ろしい暗闇の中で味わった絶望のことを、話すことはできない。時を遡ったなんて、アイシャ自身がまだ信じ切れていないのだ。

 想像で述べたことにするにも、義母トリシュナがその道を歩もうとしている中で軽々しく言うことはできない。


 だから──結局のところ、アイシャの述べたことは漠然としていた。アルジュンにしてみれば、要領を得ないと聞こえるのではないか、と思うと彼女の心臓は痛いほどに高鳴っていく。


(アルジュン様、お怒りになったかしら。それとも私に失望なさった……?)


 無言で考え込んでいる様子の夫の顔を真っ直ぐに見つめることができなくて、アイシャは目を伏せた。否定や叱責の言葉を浴びる前に取り繕おうと、慌ててまた口を開く。


「……私の考えが間違っていたら、叱ってください。お義母様を笑って見送って差し上げるべきだと、アルジュン様が考えていらっしゃるなら──」


 失敗した、と思った。焦って口にすべきでないことを言ってしまった、と。十年に渡って夫の心を知ることがなかった不出来な妻の癖に、婚礼を挙げたばかりの身で出過ぎた真似をしてしまった──そう、思ったのだけれど。


「何も間違っていない」


 許しを乞う言葉を言い終えるより早く、アイシャはアルジュンの腕の中に収まっていた。


「──震えている。恐ろしかっただろうに、言ってくれてありがとう」

「アルジュン、様……?」


 耳をくすぐる吐息の熱さに身体を震わせながら、呆然と瞬く。軽く眉を寄せた夫の憂い顔が、アイシャのすぐ目の前にいて、眩しい。


「……王妃を迎えるにあたっては、ずっと悩んだ。母上にも急かされたし、王の体面のためにも必要なこと。だが、それによって母までも失うことになるのが分かり切っていた。何より、妃になる人も難しい立場に置くことになる」


 アイシャを抱き締めるアルジュンの腕に、力がこもった。微かな苦しさが、彼の懊悩おうのうも伝えてくる。


(ああ、だから──)


 本当の意味で結ばれなかったの初夜、夫が何を思っていたかを悟って、アイシャは息を詰まらせた。


 彼女は、きっと子供扱いされただけではない。王妃として頼りなく無知であったのも、夫に案じられていたのも確かだろうけれど、それがすべてではなかった。アルジュンも、妻を危険にさらすことへの不安や怖れを感じていた。


 アイシャは──思った以上に愛されていたし、守られていたのだ。


「私──何も知らないままで。申し訳──」

「黙っていたことについて、非があるのは私のほうだ」


 アルジュンの腕から逃れようともがいたけれど許されず、アイシャはいっそう強く抱き締められた。またも言い切る前に、唇はアルジュンのそれで塞がれて。


 子供に対してするものでは決してない、深く長い口づけの後、アルジュンはアイシャと額を合わせて囁いた。


「アイシャは無邪気で可愛らしかったから。教えないことで守ることができれば、と考えていた。だが、貴女は私が思っていたよりもずっと大人で、賢かった。……頼りたいと縋りたいと、思ってしまった」

「頼る。縋る。あの──私、に?」

「ああ」


 そんなことができるのか──まさか、という思いを込めての呟きに、けれどアルジュンは迷いなく、そして大きく頷いた。

 夫の言うことならば間違いないと思えるほど、アイシャは自分のことを信じられないというのに。


「私に、そのようなことができるでしょうか」

「できる。というか、そうして欲しい」


 重ねて問うても、アルジュンの答えは変わらなかった。


「母上のこと──お止めしようにもどうすれば良いか分からなかったのだ。貴女以外には相談できない。アイシャ、頼むから」


 アイシャは目を丸くして、夫からの懇願を受け止めた。こんなにも真剣に何かを託されることは、の人生と併せても初めてのことだった。無知な小娘に何ができるというのか、咄嗟に首を振りたくなってしまうけれど──


(……逃げてはいけない。だってお義母様は、私のせいで……!)


 アイシャの言動が、トリシュナが殉死の決意をする後押しとなってしまったのだ。


 そして、の人生でも、彼女はきっと義母に対して罪がある。

 トリシュナは、ずっと夫のもとに行くことを切望していて、けれどアイシャの頼りなさを見て諦めたのだろうから。義母に嫌われていると感じられたのは、きっとその願いを妨げていたからだ。トリシュナは、このままだと失意のうちに病に命を奪われることになってしまう。


はまだ何も決まっていない。そのはずよ)


 アイシャが起こした変化は、さらなる変化を呼ぶのだと、もう知った。トリシュナがと違う行動をしたとしても、さらにもう一度、翻意していただくこともできるかもしれない。


 深く息を吸って──アイシャは、決意を言葉にした。


「はい。私にできるすべてを尽くします……!」

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