稲妻のような閃き

「おろ、か?」


 鸚鵡オウム返しに繰り返したアイシャに、ダミニはさらに声を立てて笑った。それこそ愚かな子供が、とても的外れなことを言ったかのように。


 従姉妹同士の気の置けない席、ということにしたから、今は控える者もいない。だからダミニは自ら──そしてアイシャに断りなく──果実水で杯を満たし、ひと息に飲み干した。


「私が何のために言ってと思っていらっしゃるのかしら。せっかくのなのに!」

「……どういうこと」


 トリシュナとの一幕のことなら、ダミニの発言は彼女自身のためのものだった、とアイシャは認識していた。

 王妃アイシャ紅玉ルビーを身につけたいと言って咎められた、その現場を見られたことを取り繕うために、王太后おうたいこうの気に入りそうなことを述べたのだ、と。


(……違うというの? 何がどう、私のためだったというの?)


 どうも恩着せがましいもの言いに、アイシャの眉は自然と寄ってしまう。それも、ダミニには察しの悪さに見えたのだろうか。親しいと思っていた従姉は、優しい姉のように微笑むと、身を乗り出してアイシャの耳もとに囁いた。


「義母なんて口うるさくて面倒なものでしょう? 王太后様がいなくなれば、アイシャ様の邪魔をする者はいなくなります。王宮の万事も、アイシャ様の思いのまま、ですわよ?」


 アイシャが思わず身体を跳ねさせると、その勢いで並べられていた皿の幾つかがひっくり返ってしまった。銀器がこすれ合う金属音でようやく我に返って、ダミニに反論する勇気をかき集める。


「私は、お義母様がいらっしゃって不都合なことなんて何もないわ。口うるさいだなんて──私を思って言ってくださることなのに」


 紅玉の時と同じ、震えて裏返る声での主張に、説得力も何もなかったのだろう。ダミニはまったく動じることなく、床にひっくり返った皿を戻すと、こぼれた料理で汚れた指先を拭った。アイシャに向ける眼差しも、相変わらず粗相をした子供に対するようなものだ。


「アイシャ様は、お幸せにお育ちですからそう思われるのでしょうね。自分より若く美しい者に嫉妬するのは女の習性のようなものですのに」


 ダミニは、たぶん自身の母君のことを仄めかしていた。正室と側室が対立した時に何が起きるか──確かにアイシャは知らない。も、親しい従姉と共に夫を支えられるのを、幸運だとさえ思っていたから。


(そうね。確かに私は愚かだった。その点は、嘲られても仕方ない……!)


 アイシャの口元が強張ったのを見て取ったのか、ダミニはようやく、宥めるように眉を下げた。声も、舌と唇を蜂蜜に浸したかのように甘ったるく、子猫をあやすようにわざとらしいほど優しかった。


「ああ、でも。もちろん私はアイシャ様のことを思って申しておりますわよ? 僭越ながら、妹のようなものだと思っておりますもの」

「ええ。そうでしょうね。分かっているわ」


 対するアイシャの声はどこまでも硬く冷ややかで、ダミニほどに演技が巧みでないのを思い知らされる。辛うじて、ふいとそっぽを向いたことで、拗ねているのだと思わせられただろうか。


「お義母様のことは……アルジュン様にご相談するわ。きっと、もうご存知だと思うから」

「そのようになさいませ。ご夫君に助言をするのも、王妃の務めかと存じますから」


 つまり、ダミニは母を死なせるようアルジュンに進言しろ、と勧めているのだ。何も彼女が特別に残酷だということではなく、スーリヤ国の者なら誰でも同じことを言うだろう。それは、分かっているけれど──


(誰もおかしいと思わなかったのは──おかしい、わ……!)


 晩餐は、ろくに手を付けないまま下げさせることになってしまった。けれど、嫌悪や不安、疑問や憤りが入り交ざってお腹の中で渦巻いていたから、空腹を感じる余裕はなかった。


      * * *


 その夜、アルジュンが寝室を訪れるなり、アイシャは愛しい夫に飛びついた。


「アルジュン様……!」

「一日会わなかっただけなのに、十年も会わなかったかのように迎えてくれるのだな」


 子供っぽいと言われかねない振る舞いを、けれどアルジュンは喜んでくれたようだった。


 彼の胸に顔を埋めて、夫の匂いと温もりを確かめるのに夢中のアイシャの頬に掌を添えて、そっと上向かせて口づけを落としてくれる。

 アルジュンの唇も、温かくて──熱くて。強張っていたアイシャの心を溶かしてくれるよう。夫がちゃんといてくれることを朝に晩に確かめないと、居ても立っても居られなくなってしまいそう。


(アルジュン様を支えたいと思っていたのに。私──甘えてお縋りするばかり。これから、御心を悩ませることを言わなければならないのね……)


 口づけによって呼吸を忘れて、アイシャは足もとをふらつかせた。アルジュンは彼女の身体を軽々と抱き上げると、寝台に腰かけさせる。ふたり、寄り添う格好に落ち着いたところで、アイシャは夫の目を間近に覗き込んだ。


「アルジュン様。今日は、お義母様にお会いしました。私からご挨拶すべきでしたのに、ご足労いただいてしまいました」

「可愛い娘の顔が見たくて我慢できなかったのだろう。ゆっくりするように命じたのは私なのだから、貴女にお怒りのはずがない」


 解いたアイシャの髪を梳きながらのアルジュンの声は、どこまでも優しい。新妻の声と表情に宿る硬さを、義母への気兼ねゆえだと思ったのだろうか。


「はい。恐れ入ります」


 このままアルジュンに甘えてしまえたら、という誘惑が、アイシャの胸に甘く忍び寄った。夫を煩わせたくない、今宵は憂いなく眠って欲しい──そんな言い訳で自分を騙すことができたなら、そうしていただろう。


(でも、それはほんの少しだけ先延ばしにするだけよ。話をするなら、早いほうが良い……!)


 幸せな時間には限りがあること、瞬く間に終わってしまうかもしれないことを、アイシャは身をもって思い知っている。

 息絶えたアルジュンの、冷たい唇に口づけた時の絶望を、二度と繰り返さないため。そのためには、束の間の安らぎに溺れている暇はない。


「お義母様は、私にとても大事なお話があったのです。先王のお傍に行かれたい、王が王妃を迎えるのを待っていた、と……!」


 アイシャの髪や肌を撫でていたアルジュンの手が、ぴたりと止まった。王太后トリシュナがそこまで性急に話を通そうとしたことは、彼にとっても予想外だったのかもしれない。


「……そうだったか。それは、驚いただろう」

「私が子供っぽいので、ご心配をかけてしまっていたのです。今日は……あの、何というか──ええと、お褒めいただくことがあって。それで、心配無用と思われて……、のです。申し訳ございません……」


 あったことをそのまま告げているはずなのに、支離滅裂になってしまう。心の乱れが、言葉にも影響してしまっているようだ。


(これではわけが分からない、ですよね……)


 居たたまれなさに伏せてしまいそうな目を恐る恐る上げて、上目遣いにアルジュンを伺えば、アイシャの拙い説明をちゃんと理解してくれたようだった。疑問の色を顔に浮かべることもなく、真剣な眼差しで、アイシャを真っ直ぐに見つめていたから。


「何を謝ることがある? 母上がアイシャを認めてくださったなら喜ぶべきことだ」


 それに、言葉ではそう言いながら、欠片も笑っていなかったから。彼のその表情を見て、アイシャの頭の中で何かが稲妻のように閃いた。


(アルジュン様、もしかして……!?)


 自分の思い付きに驚いて、アイシャはまたも夫にしがみついた。彼女がこれからいうのは、縋るものがないと、とても口にできないようなことだった。


「でも。アルジュン様はお義母様が行ってしまわれることを、望まれないのではありませんか……!?」


 スーリヤの王である御方が、古くからの倣いに反したことを考えているなんて。──アイシャと同じことを、考えているなんて。

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