変化を積み重ねて

 窓辺に座ってクッションにもたれるアイシャの前に、年配の侍女がひれ伏している。


 王太后おうたいこうトリシュナの助言を早速実践することにしたのだ。すなわち、かつての彼女が知ろうとしなかったことを知る、ということだ。ダミニの生家について知っている者は、あらためて問うてみれば驚くほど彼女の傍近くに控えていた。


「──ダミニの母君は、先のラームガルの領主アミールのご正妻ではありませんでした。とはいえもっとも夫君に愛された方ではあったかもしれません。ラームガルを継いだのもその方の御子、ダミニにとっては兄君に当たる御方ですから」


 ダミニの兄もまた、当然のことながらアイシャの従兄だ。近しい親族として挨拶した機会もある。男女の別ゆえに立ち入った話をしたことはなくて、もちろん母君のことなど聞いたことはなかった。


(だって、伯父様は私が生まれる前に亡くなったのだもの。まして、奥様がたのことなんて……)


 ダミニの父とアイシャの母は、歳の離れた兄妹だった。


 母にとっても伯父は遠い存在で、離れた実家の内情には明るくなかったのかもしれない。

 思えば、母はかつての彼女自身と同じように、深窓の姫君だった。余所の家の妻の諍いや序列なんて、わざわざ知りたがるほうがはしたない、と考えたであろうことは想像にかたくない。


「その方は、愛されていたのに伯父様のお供をなさらなかったのね?」


 溜息を呑み込んでからアイシャが問うと、侍女は数秒の間、言い淀む気配を漂わせた。


「……ご正妻の嫉妬もあったのか、とは存じます。その御方が一緒では、死の国でもご夫君を奪われかねない、と──結果として、ご側室は今もラームガルで権勢を振るっていると聞きます」

「伯父様のところはそんなことになっていたのね……」


 今度こそ、堪え切れずに零した溜息は、夕風に乗って窓の外に流れていった。


 アイシャの目に映る空の色は、それこそ紅玉ルビーのように燃えている。そして、すぐに深い紺色の夜のとばりが降りるのだろう。

 婚礼と初夜の疲れで、そもそもずいぶん寝坊をしてしまっていた。もう一日が終わってしまう、と思うと焦りがアイシャの胸を焼くけれど──


(時間を無駄にしたわけではないはずよ。私は、十年かかっても知ることができなかったことを、一日で知ったのだもの……!)


 自分に言い聞かせながら、アイシャは問いを重ねた。


「私とダミニが親しかったから、貴女たちも言い辛かった、のかしら?」


 彼女が知らなかったことを、トリシュナも侍女たちも知っていたということは、少なからず衝撃だった。話す機会がすくなかったトリシュナはまた話が違うとして、侍女たちはあえて黙っていた、ということになる。


「申し訳ございません……!」


 年配の侍女は、額を床に擦りつけんばかりの勢いで平伏した。声ばかりか身体も震えているその姿に、アイシャのほうこそ狼狽えてしまう。純粋に疑問に思っただけで、叱責するつもりなどなかったのに。


「怒っているのではないの。言っても仕方がないと思っていたのよね?」


 アイシャも床に膝をついて、宥めるように侍女の肩にそっと触れた。すると、彼女はいっそう身体を縮めさせながらも頷いた。


「ダミニも弁えていると思っておりましたから。ですが、先ほどの件があったので、黙っているわけには、と──」


 紅玉を巡る一幕のことだ。


(そうね、だったら──まったく違うことになっていたでしょうね……)


 アイシャは快く紅玉を渡してしまっただろうし、一時でも眩い宝石を身につければ、ダミニの機嫌も良かっただろう。侍女として、上辺だけでも王妃アイシャに対してへりくだることができていたはず。

 ほかの侍女は、もしかしたら気安すぎると思っていたのかもしれないけれど──あえて苦言を呈する勇気を持てなかったのだろう。


(もしかしたら、私を慮ってくれてさえいたのかもしれない)


 かつてのアイシャなら、ダミニについて忠告されたとしても、どうすれば良いかわからなかっただろうから。毅然として叱ったり遠ざけたり、あるいはそれとなく警戒したりなんて、きっとできなかった。

 そうして十年経つうちに、ふたりの関係は「そういうもの」になってしまった。さらにダミニがアルジュンの側室になった後では、なおのこと波風を立てる気にはなれなかったのだろう。


 でも、今は。年配の侍女は、心配そうな面持ちで声を潜めて囁いてくれる。


「父君がご存命であったなら。母君の醜聞がなかったなら、ダミニも王妃になり得たのです。御心に留めておいてくださいますように」

「……ありがとう」


 先ほどのアイシャは、はっきりいってみっともなかった、と思う。王妃に相応しい気品や誇り高さなんて欠片もなく、感情的に喚き散らしただけだった。でも──


(それだけでも、こんなにも変わった……!)


 ほんの少しの行動の違いが、すでに大きな変化を起こしている。

 トリシュナも侍女たちも、アイシャを見る目が変わった。ダミニの偽りの笑顔を、ひび割れさせることができた。

 もっと慎重に、もっと賢明に、もっと大胆に行動することができたなら──ううん、そうしなければならない。


(私は、アルジュン様を支える王妃になるのよ)


 心の中で念じれば、慣れない、そして分不相応なもの言いもできそうだった。


「私は……王妃になった。もう子供ではないの。聞きたくないことでも聞かなければならないと、分かっているわ。だから──気付いたことがあったら、教えて欲しいの」

「はい。アイシャ様。仰せの通りにいたします……!」


 侍女は感激した様子だったから、アイシャの演技は、どうにか様になっていたと思って良いだろう。


      * * *


 アイシャは、ダミニと向かい合って晩餐を取ることにした。女主人と侍女というよりも、従姉妹同士の距離感だ。

 したい、という申し出を、ダミニはまったく疑わなかったようだった。むしろ、当然のような面持ちで薄焼きのパンを千切ってはスープに浸して口に運んでいる。


 ダミニの、果実水で艶やかに濡れた唇が、にっこりと笑う。


「誠にありがとう存じます、アイシャ様。卑しい身がお相伴にあずかれるなんて身に余る光栄です」

「良いのよ。アルジュン様はご政務があるとか──ひとりだと、寂しいから」


 アイシャの本音としては、ダミニの給仕で食事をする気にはなれなかっただけだ。墓室での捨て台詞からして、この女は長い間アイシャに何らかの薬を盛っていた節がある。

 今も、一応はそれぞれに違う皿を用意させてはいても、贅を凝らした美食を楽しむ気にはなれない。ただ、塩気の強い漬物をかじって空腹を紛らわせているだけだ。


(怪しまれずに、アルジュン様と私の身の回りの世話からは離れてもらうように……できるかしら?)


 考えるのに忙しいアイシャの食が進んでいないことに、ダミニは気付いているのかどうか。遠慮する様子もなく、豆の煮込みや香辛料の香り漂う肉の焼きものが、次々と彼女の口に消えていく。


「ほかの者が告げ口したのでしょうね? 誤解などされていないか、私、心配でしたのよ」


 ──ううん、でも、完全に油断しているわけではない。にこやかに微笑んでいるようで、ダミニの目には鋭く剣呑な、探るような色が浮かんでいる。


「告げ口なんて──話を聞いただけよ。お母様のこと、お気の毒だったわね……」


 ダミニも、王妃になり得る出自だった。あの侍女が告げたことを胸の中で反芻しながら、アイシャは慎重に言葉を選ぶ。


(でも、ダミニは王妃になろうとはしなかった……? それなら、アルジュン様を殺してはならないもの。私を狙うはずで──十年の間に、考えを変えたの?)


 ダミニの悪意が、アイシャの無知と無邪気さに由来していたのなら、まだ良かった。

 近しい従姉妹なのに、方や王妃に上り、方や母が殉死しなかったことで蔑まれている。その不公平に憤っていたなら、アイシャの態度によってはダミニの心も変わるかもしれないとおもったのだけれど──


「お気遣い、痛み入ります。でも、父が母を愛していたのは間違いのないことですから。だから私、他人に何と言われようと気にしないことにしておりますの」

「そう……」


 ダミニの美しい笑みからは、何も読み取ることができなかった。幼いころからの思い出と、の生の十年で積み上げた情を完全に捨て去るのは難しいけれど、最後の最後の手ひどい裏切りの後で信じることはなお難しい。


(もっとダミニと話をしなければ……衣装や宝石やお菓子のことだけでなくて、もっと大事なことを……)


 上っ面のおしゃべりではなく、ダミニの本心を知る手がかりを得なければならない。そうでなくても、彼女はアイシャが知りたい情報を持っているかもしれないのだ。


 さほど減っていない皿は、脇にけて。アイシャは果実水で口を湿してから切り出した。


「私──王太后様にまだまだご指導を賜りたいの。御心を変えていただくためにはどうすれば良いかしら。あの……ダミニのお母様のお話が、参考になったりは──」


 目下の最大の懸念事項は、王太后トリシュナの殉死をいかに止めるか、だった。かつてその選択をした人のことを、ダミニはよく知っているはずだから、詳しいことを聞きたかったのだけれど──


「まあ、アイシャ様。なんて愚かなことを仰るの?」


 ダミニは驚きに目を瞠り、次いで美しい嘲笑で口元を歪ませた。

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