翌朝、一番に

 翌朝、一番に何をするか──眠れぬ夜を過ごしながら考え抜いたことを、アイシャはさっそく実行した。


「ダミニ。朝早くから悪いのだけれど、お使いをお願いしたいの」

「……はい。何なりと」


 ダミニを、傍に置いておきたくない。朝食の給仕にも、髪や衣装を整えるのにも関わらせたくない。化粧で顔に触れさせるのはもってのほかだし、愛する夫からも遠ざけておきたい。


(毎日毎日、都合よく用事が思いつくとは限らないけれど──少なくとも、今日は大丈夫……!)


 王妃直々の、そしてたっての頼みごとは信頼の証。けれどいっぽうで、まだ慣れない王宮で何を言いつけられるのかという不信と不安もあるのだろう。ダミニの頬がやや強張ったのには気付いた上で、アイシャは無邪気に微笑んだ。あるいは、そのをした。


「そろそろ、諸侯が領地にお帰りになるでしょう。お見送りに、お義母様にも来ていただきたいの。お呼びしてちょうだい」

「アイシャ様。それは──」


 眉を寄せたダミニが何を言おうとしたかは、想像がつく。けれど言わせず、アイシャはにこやかに続けた。内心では、自分よりずっと大人びた従姉に命じることに対する震えは、決して見せないように。


「寡婦が表に出ることは、確かに礼儀を弁えぬことではあるでしょう。でも、私が不安なの。どうしてものお願いだからとお伝えしてもらえる? お叱りは、私が直々に受けるからと申し上げて」


 王太后トリシュナの不興を買うことがほぼ目に見えている役を命じられて、ダミニが不快に思っているのだろう。苛立ってさえいるかもしれない。でも──アルジュンもいる前で、出過ぎた真似はできないだろう。


 彼女は王妃なのだから、侍女に無理を言っても許されるのだ。その、はずだ。


 アイシャとダミニ、ふたりの女の視線がぶつかり合った。


 ほかの侍女にかしずかれ、すでに絹も宝石も身に纏い、クッションに凭れた格好のアイシャに比べて、ダミニは簡素な侍女の衣装でひとりきり、王妃に対して頭を垂れている。

 立場の違いは、これ以上ないほどはっきりしているはずなのに──ダミニの怒りに満ちた眼差しと対峙すると、雷に打たれたように感じられた。


「ね? お願い」

「──はい。アイシャ様」


 それでも、何も気付かぬ振りでもう一度促すと、ダミニは刃のように鋭い目つきをしながらも頷いた。アイシャが肩の力を抜くことができたのは、ダミニの背が廊下に消えてからやっと、のことだった。


「アイシャ様、お水を」

「ありがとう」


 何もしていないのに、アイシャの喉は乾ききっていた。侍女が差し出した杯に口をつければ、冷たい清水が身体に染み渡る。ようやく息を吐いて杯を侍女に返す。と、濡れた口元に瑞々しい茘枝ライチが差し出される。


「母上を、上手く呼び出してくれるのだな。甘え上手の娘にはあの方も逆らえまい」


 手を触れないまま、茘枝ライチの甘い果肉をそっとかじりとり、アイシャは夫の指に軽く口づけた。そして、今度こそ心からの笑みを浮かべる。


「王妃教育が必要なことは、お義母様も認めていらっしゃいましたから。王の母たる御方のこと──諸侯も頼りにしているのではないかと思うのですが」


 の時も、アイシャは諸侯の見送りに立ち会いつつ王妃としてお披露目された。


 けれど、ふわふわと笑うばかりで、王との関係や思惑まで考えることはできなかった。アルジュンは、子供のような妻を煩わせないようにと慮ってくれたのだろう。


 そして、トリシュナが同席してくれることも、なかった。


(あの時は、嫌われているのかと思っていたけれど──)


 そして、確かにアイシャが疎まれていたのも、事実ではあるのだろうけれど。

 トリシュナは、王宮にいながらにして夫君の墓室にこもったつもりだったのだろう。生きながら喪服を纏って、息を潜めて。王妃アイシャさえしっかりしていれば夫に殉じることができるのに、と苦々しさを噛み締めて。


 義母である御方に、そのような想いをさせてしまったのは申し訳のしようのないこと。夫君のことを悼みつつも、穏やかな日々を送っていただきたいものだし──そのためには、アルジュンの立場を安定させなければならない。


 アイシャの意図を汲んでくれたのだろう、アルジュンもしっかりと頷いた。


「年長の尊い御方のお考えは、誰しも尊重するものだ。どうして逆らうことなど考えられようか」


 それはつまり、トリシュナさえ翻意してくれれば、殉葬を強いる者はいなくなるだろう、ということだ。侍女たちの手前、はっきりと口に出すことはできないけれど、アイシャにも夫の想いがよく分かった。


「はい。仰る通りだと思います」


 多くを語らずとも夫婦で心が通じたのが嬉しくて、アイシャは頬が熱くなるのを感じながら頷いた。

 今度は、彼女が夫のために茘枝ライチの皮を剥く番だ。黒い皮の中から現れた、艶めく真珠のような果肉を、アルジュンも目を細めてついばんだ。果汁に濡れた唇が、ふと、呟く。


「遣いに出した侍女は、損な役回りをさせてしまったが。後でねぎらわなければな」

「ダミニは……私の従姉です。しっかりしていますし、生まれも確かですから大丈夫だと思います。あの……私から、重々お礼を言っておきますから」


 夫に対してダミニを称える言葉を述べる時、アイシャはお腹の中が捻じれるような落ち着かなさを味わった。茘枝ライチの甘味ももはや遠く、舌に感じるのは不快な苦さだけ。


 朝食の席は、表向きは和やかだった。

 果実は甘く、並べられた料理の味も色彩もとりどりで。ダミニの姿もなく、残った侍女たちは恭しく給仕をしてくれる。どんな衣装を纏うか、これから会うのはどこの何という侯か、アルジュンとの会話も弾んだ。


 けれど、笑顔の裏側で、アイシャの胸の裡では激しい嵐が吹き荒れていた。


(どうしよう。アルジュン様が、ダミニに興味を持たれたら……!?)


 ダミニは美しく、品も知性も兼ね備えている。アルジュンに並んでも見劣りしないと、ほかならぬアイシャも考えたのだ。

 アルジュンが望めば、ダミニは側室の座に上るだろう。アルジュンもアイシャも、あの女の牙のすぐ近くに晒されることになる。


(何とか、しないと──)


 その必要性は痛いほどに分かっていても、どう手を打てば良いのか分からない。何と言ってもダミニはアイシャの従姉、理由もなく罰したり追放したりすることなどできはしない。


      * * *


 悩みごとがずっと頭を占めていたから、トリシュナを出迎えたアイシャの笑顔は少々引き攣っていただろう。

 王宮を発つ諸侯が順に召されることになっている玉座の間にて。煌びやかに装ってアルジュンに寄り添っていてもなお、装飾のひとつもなく喪服に身を包んだ義母の威厳は、未熟な嫁を圧倒した。


「アイシャ。息子アルジュンに丸め込まれたようね。この私を呼びつけるなんて」


 トリシュナにかしずく侍女の中に、仮面のような無表情のダミニがいるのが恐ろしかった。この場に出向くまでに、ずいぶん責め立てられたのではないか、という気がする。夜の淵のように黒く暗く、感情を窺わせないその目の奥では、アイシャへの憤懣が渦巻いていてもおかしくはない。


(殉死を断念していただくよう、アルジュン様に頼まれたと思っていらっしゃるのね……)


 さすが、トリシュナは察しが良い。けれど、それがすべてでもない。

 これは、王のためにも必要なこと。王の権威を確立するため、そして、十年後の悲劇を回避するため──そう思えば、震えるだけではいられない。


「王妃教育を一刻も早く、と仰っていましたから。実践させていただくことにいたしました」


 どうにか笑顔を浮かべて答えると、トリシュナは酢を呑んだような表情で、それでも一応は頷いた。


「確かに。けれど、喪服を纏う身でありながら人前に出るのは、王妃のすることではないわ」

「まことに仰る通りかと存じます。私は、アルジュン様と長く共にありたいと願っておりますから」

「……そう」


 志半ばで、愛する夫を見送るようなことにはしたくないのだ、と──言外の宣言が伝わったのだろうか。トリシュナがもう一度頷いた時、眉間に刻まれた皺はいくぶんか浅くなっていたようだった。


「母上、どうか」

「分かっています。諸侯に隙を見せはしません」


 アルジュンからの言葉も後押しとなった。硬い表情のままではあったけれど、トリシュナは、アイシャの背後に控える位置に席を占めてくれた。

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