王太后トリシュナ

「──何よ」


 低く、地を這うような声がダミニの唇から漏れた。ぎり、という歯軋りの音さえ聞こえた気がして、アイシャは身体を竦ませてしまう。


 紅玉ルビーの輝きが映ったのかどうか、ダミニの目に不穏な色の炎が宿った──と思ったのも一瞬のこと、すぐにその目は細められて、笑みに似た表情を造る。弧を描いた唇が紡ぐのも、嘲笑をまぶした毒のような呪いのような言葉だった。


「一瞬だけ、と言ったのに。王妃ともあろう御方が、狭量ですこと……!」


 紅玉を下げるための純金の鎖が、ダミニが手を振り上げるのに伴って眩い輝きを振りまいた。細い金鎖が奏でる音は柔らかく音楽めいたもの、けれどアイシャは聞き惚れるどころか悲鳴を上げた。


「乱暴にしないで! アルジュン様からいただいたものなのに!」


 ダミニは、癇癪に任せて紅玉を投げ捨てるのではないか、と思った。手に入れることができないなら砕けてしまえ、とばかりに。


 すでに纏っていた絹や装飾をしゃらり、と鳴らしながら。アイシャが手を伸ばして腰を浮かせると、侍女たちも騒めいた。アイシャ様落ち着いて、ダミニ弁えて、と口々に訴えて。


 その場の全員を狼狽えさせたのを見回して、ダミニはようやく心からのものらしい笑顔を浮かべた。華やかで美しい従姉の笑みを、かつてのアイシャなら誇らしく見ただろうに──今となっては、恐ろしい。


「どうなさったの、アイシャ様。早く、と仰るから急いだだけでしたのに」


 笑顔のままのダミニに語りかけられて、アイシャは蛇に睨まれた蛙か、猫に見つかったネズミの気分を味わった。アイシャが固まった隙に、ダミニはわざとらしいほどゆっくりと跪き、金の鎖を彼女の首にかけた。


「ほら、ご命令の通りにいたしましたけれど? 本当に見事な……血のような赤……!」


 ダミニの指が、アイシャの首筋に触れていったのは、髪が鎖に巻き込まれないように整えただけに過ぎない。それは、分かっているけれど。まるで首を絞められたような思いがして、息が苦しくなる。


(ダミニは──ダミニ、いつから……!?)


 ずっと欲しかった。あの墓室で、ダミニはそう言っていた。アイシャのすべてを奪ってやった、と。そのために企みを巡らせていたのだとも、暴露した。


 姉のように接してくれていると思っていたけれど──アイシャへの悪意は、いつから、どこから始まっていたのだろう。スーリヤの国そのもの、アルジュンを取り巻く悪意とダミニのそれは、どこまで関わっているのだろう。


 紅玉を握りしめると、燃えるような激しい赤い色とは裏腹に、ひんやりと冷たい。アイシャの不安も恐れも吸い込んでくれるようなその冷たさに、どうにか冷静さを取り戻そうとした時──低く穏やかな女の声が、凛と響いた。


「アイシャ。侍女を叱ることもできるのね。頼りない子供だと思っていたけれど、見直したわ」


 その声を聞くなり、アイシャに侍っていた者たちがいっせいに衣擦れの音を奏でさせた。王妃の侍女たちをして、一も二もなくひれ伏させる声の主は──


「お義母かあ様──王太后おうたいこう様……!」


 アルジュンの生母、今は王太后と呼ばれるトリシュナだった。スーリヤの王宮でただひとり、彼女よりも身分高い御方を前にして、侍女に倣って頭を垂れたアイシャの額を、冷や汗がしたたる。


(私……なんて馴れ馴れしいことを。は婚礼を挙げたばかりなのに……!)


 思えば、トリシュナは誰よりもアイシャの振舞いを苦々しく眺めていた者のひとりだっただろう。の彼女は、アルジュンと本当の意味で結ばれてもいない癖に王妃の地位を享受し、甘やかされるだけの小娘だったから。

 だから、トリシュナはアイシャに厳しく接したし、お義母様、と呼ぶことを許されたのもかなり後になってからだった。そのように、アイシャは記憶しているのだけれど。


「母と呼んで構わないのよ。お前は息子アルジュンの妻になったのだから」

「お、恐れ入ります……」


 かつてなく寛容な言葉をかけられるのがかえって恐ろしくて、アイシャは顔を上げることができなかった。婢女はしためのように跪いて震える彼女に、トリシュナは指先の動きで起き上がるように命じる。


 あらためて対峙したトリシュナは、寡婦であることを示す白い衣を纏っていた。白いものが混ざり始めた髪も飾り気なく、肌に化粧を施してもいない。夫を亡くして悲しむ女に、そのような余裕があるはずはないから。

 それでもトリシュナの目はアルジュンのそれと似て黒曜石の輝きを宿し、かつ知性を湛えて若く未熟な嫁を見つめていた。試されているのだ、と気付いて、アイシャは慌てて侍女に顔を向けた。


「王た──お義母様は美食をなさいません。清水をお出しして。それから、せめて美しい花を」


 寡婦は食べるものによっても悲しみを表すものだ。それを失念して菓子を勧めてしまい、深々とした溜息を賜ったこともある。その失態を思うと、再びひれ伏したいくらいなのに──トリシュナは合格、とでもいうかのように微笑んで頷くものだから、居たたまれない。


 水が届けられるまでの間に耐えかねて、アイシャはおずおずと口を開いた。


「あ、あの。アルジュン様からは、王妃の務めについてご教示くださる、と」

「そう──急いで教えなければ。アイシャ、心するように」

「は、はい……!」


 厳しさと優しさの混ざった眼差しで鋭く貫かれて、アイシャは勢い込んで頷いた。義母への畏れとはまた別に、王妃の授業については願ってもないことだった。


(今度こそ、王妃らしくしなければならないもの……!)


 アルジュンに頼ってもらえるようになるのだ、という熱意をよみしてくれたのだろうか、トリシュナは満足そうに目を細めた。ちょうど運ばれてきた、清らかな水で満たされた銀の杯を受け取りながら、弧を描いた唇が動く。


「一刻も早く覚えるのよ。わたくしは、早く夫のもとに行きたいのだもの」

「──え」


 アイシャの目の前にも、銀杯が置かれた。けれど、彼女が手に取るどころではない。ただ、水の表面が揺らめいて杯の内側にも施された繊細な模様を歪ませる。


「あの。どういう、ことでしょうか……?」


 引き攣った声での問いかけに、トリシュナは軽く眉を顰めた。見直したばかりの嫁が、やはり子供っぽくて愚かだとでも思ったのかもしれない。言われた言葉の意味が分からないほどに──分かったからこそ、問わずにはいられなかったのだけれど。


「亡き王の墓室に入るのよ。待ちかねていらっしゃるでしょう。──アイシャ、わたくしが夫に殉じない不実な女とでも思っていたの?」

「い、いいえ。そのような、ことは──」


 渋面での小言は、そこまでだった。慌てて、そして激しく首を振ったアイシャに、トリシュナは満面の笑みで応じたのだ。化粧や宝石で彩られていなくとも場を華やがせる、それは美しく嬉しそうな笑みだった。


「今日まで恥を忍んで生き長らえてきたのは、息子が心配だったからというだけ。でも、良い妃に恵まれたのを見届けることができた以上は、躊躇う理由は何もないわ……!」

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